『本』の秘めた力は、素晴らしいものです。③

「逃げろォオ!! 」

 突進するように身を屈めて走り出した晴光の耳の裏を、棘のついた鎌がかすめた。

 ニルは『本』を守るように胸に抱き、すでに晴光の前を駆け出している。


 〈入口はすでに閉鎖したよォォオオオオン〉


 晴光は走りながら、腰のあたりに構えた左の拳をグッと引いた。腰をひねりながら右手はニルの方向へ。192㎝の長い腕が、山吹色の民族衣装の背をとらえる。平手で打たれてのけぞった彼の黄色い瞳が見開かれて、瞳孔が白く光った。


「【強化】!からだに通った!! 」

 ニルへの返事のかわりに、晴光は掴んだ体を右腕に手繰り寄せ、構えた拳を扉に向かって突き出す。一回り膨張した筋肉が作り出すエネルギーが、電撃のように鉄扉を襲った。

 ――――サイレンを掻き消すほどの轟音!!

 ワンダー・ハンダーの言葉にならない金切り声が、スピーカーから響いて廊下を駆ける晴光に浴びせられる。


「誰かが異変に気付いて部屋から出てくるんじゃ!? 」

「第三の人たちは爆発や警報に慣れてるから、作業の手を止めてまで確認に来ないよ! 走るのに集中して。脚を強化する」

 そしてそれを、ワンダー・ハンダー側も分かっている。


「っ! 脚より先にまた腕だ! 壁が落ちる! 」

 緊急用の隔壁である。等間隔に配置された重さ半トンのそれが、ギロチンのように落ちてくる。


「蹴り破れ! 」

「あーもう! 」

 晴光は破片からかばうために、荷物のようにニルを抱え上げて障壁をヤクザキックで蹴破った。

 左腕に胴を抱えられたニルは、自力で二の腕を這い上がり、肩に腕をかけて後ろ向きにしがみつく。晴光の右腕は、補助のために腰を軽く添えているだけだ。体幹でバランスを取りながら、拭うことが出来ない汗が風に飛んでいくのを睨んでニルが言う。


「転げ落ちたりしないから、ぞんぶんにって」

「りょーかい」


 カマキリが追いかけてくる。



 ●



 第三棟は、五棟ある管理局舎の中で、東の端にある。

 山を切りひらいてできている敷地は、ぐるりと囲むように森があった。

 『前回』のニルとエリカは、人目を避けてこの森の中を下りながら大きく迂回し逃げた。しかし振り切ることができず、途中でエリカがニルだけを逃がすほうへ方針を変たが、逃亡は山を下った先にある市街地の中腹近くまで食い込むことになった。


 それを説明しながら、ニルは言った。

「『今回』は、そんな予定変更はしない。確実にカマキリを仕留めてほしいんだ」

「でも、カマキリ男は人間なんだろ? 殺人は嫌だぜ、おれ」

「正確には、元人間なんだ。エリカも殺すことは躊躇してたし、その思考が前回の失敗に繋がったんだと思って、調べたんだよ。第三部隊は、殉職した職員の遺体を回収して実験をしている。イメージが良くないから大っぴらには言わないけど、専門のチームもあるよ。これの情報源はハック・ダック教官だから、信じられる筋だろう? 」

「なんで教官が? 」

「それは……――――」



 ●



「晴光! 外に出た!『前』より距離を稼げてる。ここで引き離そう」

 思考を断ち切る。

「わかった。今度こそ『脚』だ」

 軽い踏み込みで、滑空するように周囲の景色が飛び去っていく。


(『本』がいると、こうも違うのか)

 晴光の胸を、少しの罪悪感が刺した。

 局側が職員に『本』を相棒にすることを推奨する理由がわかる。『本』がいれば、単純に生存率が上がるからだ。


 『本』には特異な性質がある。

 管理局はその力を、『適合強化てきごう きょうか能力』と名付けた。


 シンプルな運用法を上げれば、『本』に触れた他生命体を『強化』あるいは『治癒』する。『本』側が強化する対象を深く知ることで、その能力の『浸透率』が上がる。つまり、より強く、ついた傷も早く治すこともできる。


 彼らの本質は、擬態できるほどの『適合力』だ。

 他者をより『その環境にふさわしく』作り変えることができる能力。その副次的な効果として、『治癒』や『強化』が存在する。


 職員の中には『魔力』や『妖力』と呼ばれるものが備わっている者もいて、そうした未知の力の強化も、『本』側が理解することができれば増幅できる。

 晴光のような『普通の人間』は、鍛えた肉体を『強化』するというシンプルな運用しかできないが、それだけでも十分に実感できる効果だ。

 異世界人の体は不安定だ。世界間の移動は、体に大きな負担がかかる。

 パートナー制度は、ドナーも兼ねた『本』が、職員と専属契約を結んで任務に同行するのだから、五体満足で帰還するためには必須にしてもいいくらいだろう。

 脳裏によぎるのは、けっきょく笑顔を見られないまま別れた『前』のファンだ。

 

 『本』はその強力な効果から、職員との粘膜接触が禁止されている。

 ファンの血液を摂取して一命をとりとめた晴光は、ファン以外の『本』とでは、拒絶反応で『適合値』が保てない。だから本来ドナーと職員は、互いの同意と手続きで結ばれる終身までの契約関係だ。

 そしてその関係は、そのままパートナー契約にも繋がる場合が多い。


(それでもおれは……)


 目の前に崖の壁面が迫る。

 夕日に照らされた彼女の頬が濡れていく姿を想ったまま、『強化』された脚に力をこめて、晴光は高く跳んだ。

 青空が見える。崖の上が見える。そこに立つ『仲間』が見える。


 長い髪をなびかせた人影は、大小二人。

 黒髪のほうが、こちらを見上げて一瞬笑う。


 裸の褐色の腕が振り上げられ、金の腕輪が陽光に光った。



「――――、私たちが仕留めるわよ! 」

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