第16話 終わりへむかう話 後編
アパート。
マコトの母は、ティシュに消毒用のアルコールを染み込ませ、ユリの傷口にあてる。
「痛てて、染みる!」
ユリは思わず声をあげた。
「もう。ちょっとは我慢しなさい」
母は呆れたようにいった。
ユリはアパートに戻ってくると、自分で絆創膏を張ったのだが、なかなか思った場所にピッタリ張れず、何度も張り直しているうちに、仕事を終えた母が帰ってきた。
そして、母に治療してもらうことになった。
「転んだって、どんな転び方すればこんな傷だらけになるんだか」
「眼鏡、壊しちゃった」
「今度の休みに、買いにいこ」
「でも、お金が……」
「必要なものは、買わなきゃ。それまで、ちょっと授業が受けにくいかもしれないけど我慢してね」
「ごめんなさい。マコトの体、傷つけちゃった。それに、お財布、ドブに落として拾えなかった。お手伝いでお金貰って、それで、お母さんになにか買ってあげた買ったのに、なのに、なのに……」
アルコールがヒヤリとしみる。
「ありがとう。その気持ちだけで、私は嬉しいわ」
母は、ユリの目元に滲んだ涙を指先で拭った。
深夜。
真っ暗な、六畳の部屋。
あれこれと家具なんかも置いているので、布団を二つ並べると畳はほとんど見えなくなる。
「ねえ、ユリちゃん。起きてる?」
母の声がした。
「うん……起きてる」
「じゃあ、こっちに来ない?」
「へ?」
「いいじゃない。私だって、たまには自分の娘を抱っこしたい」
「え、えっと、じゃあ」
「マコトは恥ずかしがって、絶対に来なかったのよ」
「私、小学校にあがる前でも、母親と同じ布団で寝たことなんてなかったから、マコトがうらやましい」
「あのね、ユリちゃん。私、ヒトを殺したこと、あるんだ。ユリちゃんのことも、それはそれで気に入ってるの。だから、知っておいてもらおうと思って」
「じゃあ、ゆっくり聞きましょう」
「夫が事故で死んじゃったあと、夫の親戚だというヒトが沢山来たの。会ったことも会ないヒト達。それで、金目のものは全部持っていかれて、マコトと二人でここに引っ越してきた」
「血も涙もない人間って、いるのよね」
「マコトだけなら、私が頑張って働けばなんとかなる。だけど、赤ちゃんを産むことはできない。お腹が大きくなってくれば働けなくなる。生まれたばかりの赤ちゃんを置いて、働きにいくこともできない。どうしようもなかった」
「それで、堕ろしたの?」
「うん。マコトには、嘘をついて、検診にいくといって、病院に。まだ日帰りの手術でどうにかなる時期だったから」
「じゃあ、マコトは知らないの?」
「ううん。とっても迷ったけど、結局話した。マコトね、赤ちゃんが生まれるのをとっても楽しみにしてたの。だから、なんで殺したっていわれた」
「きっと、マコトだって仕方なかったってわかってるよ。でも……」
「でも、感情を処理できない。わかってる。だから私は、マコトを否定しなかった」
「じゃあ、死んじゃったマコトの妹というのは?」
「そう。生まれなかった赤ちゃん。根拠はわかんないけど、女の子だったらしいわ。買うお金がなかったから、手作りのお仏壇をつくって、お洋服とか、ぬいぐるみとか、あとはお手紙とかを書いて、お供えしてた。名前もなかったあの子に『アイ』という名前をつけた。ある日ね、そのお供えしてたものが全部なくなって、アイからの手紙があった」
ユリは思い出す。『お仏壇』には手紙が置いてあった。
「本当に不思議だけど、奇跡ってきっとあるのね。魔法でも奇跡でも、なんでもいいからマコトには幸せな一生を送ってほしいな」
ユリが返事を考えていると、母の寝息が聞こえてきた。
朝。
ユリはおきあがり、枕元の眼鏡を探るが、無い。
そうだった。
昨日、壊れたのだ。
かすむ目をこすると、すぐ横で、母が寝ていた。
枕元の時計をじっと見つめて、時間を読み取る。
時間は、昼前だった。
「寝過ごした!」
ユリは叫びながら飛び起きる。
「お母さん、起きて。大変! 寝過ごした!」
ユリが母をおこそうとしたそのとき、気が付いた。
「お母さん、大丈夫!」
母は苦しそうに荒い呼吸をしていた。顔色も悪い。
ユリは母の額に手をあてる。
体温計を使わなくてもわかるくらいの高熱だ。
「お母さん、すぐに救急車呼ぶね」
ユリはそういって気が付いた。ユリはスマートフォンも携帯電話も持っていない。この家には、固定電話はない。
「借りるね」
近くにあった母のスマートフォンを手に取る。しかし、ロックがかかっている。
「パスワード教えて!」
ユリは母を見るが、母は荒い呼吸を繰り返すばかりだ。
「お母さん、助けを呼んでくるね」
玄関へむかおうとするユリの足を、母が布団の中から手を伸ばし掴んだ。
「待って……マコト。あなたまで、いかないで……」
か弱い母の声。
ユリは、しゃがむと、母の手を掴む。
「大丈夫。私は……ううん。マコトは必ず帰ってくるから、だから、だからね、ちょっとだけ待ってて」
そっと、母の手を引き離し、玄関から飛び出した。
服はパジャマのまま。
家を出るときにサンダルを履いて出てきた。走りにくいから、脱ぎ捨てる。
「お母さん。お母さん。死なないで」
息が切れる。
裸足になったから、足の裏が痛い。
でも、それでも、走り続ける。
そして、たどり着いた。
『武田書店』
ユリの『お手伝い』という名の実質的なバイト先。
学校の先輩、タマキの家。
その入口は、シャッターが閉まっていた。そして、臨時休業の張り紙。
「そんな……」
店は住宅も兼ねているから、インターホンがある。
数回押してみたが、反応はない。
「どうしよう、どうすれば……」
冷静にならなきゃ、と思いつつ頭が真っ白になり、焦りだけが積もっていく。
そのときだ。
後ろで、車が急停車した。
ユリは振り返る。
ホンダの自動車『アクア』だった。
ハンドルを握っているのは見知らぬ初老の女性。
そして、助手席に座っていたのはユリだった。いや、少し前まで、魂替えをする前のユリの顔をした少女だった。
そう、マコトである。
車の窓が開く。
「ユリ!」
助手席からマコトが叫ぶ。
「マコト……マコト……助けて。助けてマコト!」
ユリは、その場に泣き崩れた。
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