ベートーヴェンの苦しみは天才作曲家になって難聴にならなきゃ判らない

岡上 山羊

第1話

 君は知ってるかい。目に見えず触る事もできないのに、傷付くものがあるって事。それは触る事はできないけど、感じる事はできるんだ。まぁその人次第なんだけど……。

 例えばだけど、普段生きてる中で、空気を感じる事はあるだろうか?ある時もあるだろうけど、ほとんどは感じずに過ごしてるだろう。意識しないと感じない。それが心ってものなんだ。

 だからね。人は平気で他人の心を傷付ける事ができるんだ。だって暴力を奮ったりしたら、目に見えて傷付くだろ?だけど心が傷付いたのなんて見えないから、罪悪感なんて持たないんだ。心に傷を持つ人間以外はね。


 僕は三ヶ月前に離婚した。四十五歳にもなって一人ぼっちになってしまったんだ。離婚理由は月並みだが、性格と価値観の不一致と言う他ない。口を開いたら相手を避難する言葉。それは心の傷付け合い。心の痛みは相手には分からない。だからなのか、気付けばどちらからともなく本当に手が出ている。

 剥き出しの感情がやがて警察沙汰を呼び、お互いに疲れ果てていった。こうなるとをする余地もなく協議離婚が成立した。

 ただ心残りと言うか、申し訳なく思うのは、子供たちの事だ。子供たちは僕に良くなついてくれていた。僕ももちろん子供たちの事を愛していた。しかし前妻は決して子供を離そうとはしなかった。理由は聞くまでもなかった。離婚後の母子手当て目当てだ。

 話し合った訳ではないし絶対とは言い切れないが、おそらく話し合ったところで、『父子手当てに比べたら母子手当ての方が沢山もらえる。子供たちにとったら私が引き取る方が子供たちの為になる』とか言っただろう。

 子供たちの為になるんじゃなく、自分が特になるの間違いだろ、と言う言葉を呑み込まなければならない。そう思うだけで、反吐へどが出る。だから話さなかった。そこが申し訳なく、思えばその頃から予兆はあったのだと思う。

 結局、僕たち夫婦の最後の場面は僕が警察に連行されるシーンだった。連行された理由は公務執行妨害だ。あれだけ良い加減に止めようと言っていたのに警察を呼んだんだ。ただ夫婦喧嘩の仲裁に入らせる為だけに。だから僕は申し訳なくて警察に仕事をさせて上げた。そんな格好付けが駄目だったんだろうね。でもこの時の僕は、既に破滅へと向かう精神状態に追いやられていた。何もかもが、どうでも良くなっていた。

 勾留された僕は、自分が思ってたのとは違って、数日間の留置所で泊まる破目になってしまった。そして会社をクビになり無職となった。

 仕事を失い家族を失い信頼を失った。どうでも良い。しかし生きていかなくちゃいけない。そう思っていた。

 子供の為に、全ての財産も手放した僕は、仕方なく即金がもらえる派遣社員として働く事になった。申請さえすれば、日当の七割が振り込まれる。だから多少のキツい業務もこなしていく覚悟は出来ていた。そうして地獄への階段を下り始めた。

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