第6話 ①

 雅彦は唯の右手を引いて走った。

 ススキの群れを貫く下り道だ。上りで感じた以上に傾斜は急であり、速度は上がる一方だ。うかつに足を止めようとすれば転倒しかねない。

 先ほどの登山道を引き返しているはずだが、有野の背中にへばりついている金子の遺体がないのは当然としても、あの巨大なへこみも一つとして見当たらないのだ。

 上りの途中で目にしたものは、取り乱していた自分が見た幻だったのだろうか。それとも今の自分には、実在しているはずのものが目に入っていないのか。

 いずれにしても、神域から出なければならない。状況の好転に繫がりそうもないことは、唯を無事に真央の元へ送り届けてから考えればよいのだ。

 負傷しているにもかかわらず、唯は懸命に走っていた。息は乱れているが足の運びは悪くない。もっとも、肩にかけただけのミリタリージャケットがばたついており、それの胸元を左手でつかんでいる様が煩わしそうで気の毒だった。雅彦はこのジャケットに愛着があるわけではない。走りの妨げになるくらいなら捨ててもらいたかった。

 そのまま登山道を下り、雑木林の暗がりへと突入した。

 陰りの中の登山道は、上ってきたときと同様、表面がほんのりと湿っている。だが、走っている状態でどうにか一瞥すると、靴跡さえもが一つ残らず消えていた。雅彦がつけた靴跡もないのである。

 周囲を見れば、木々の幹がこよりのごとくねじれていた。種を問わず、どの樹木も同じありさまである。

 傾斜が緩くなってすぐ、雅彦は足を止めた。

「大谷さん?」

 唯が不安そうに雅彦の顔を覗いた。

「道を間違えたかもしれない」

「慌てていたからよく見ていませんでしたが、ほかに道はなかったような気がします」

「おれも、来た道を戻っているつもりだったんだけど、なんだか、上ってきたときとは様子が違うんだ。木は、こんなにねじれていなかった」

 雅彦が説明すると、唯は雑木林の中を見渡した。

「確かに、変な形の木ばかりですね」

 そう返した唯は、繫いだ手にさらに力を込めた。

「戻るのだけはやめよう。先へ進めばこの山から下りられるはずだ」

 根拠はなかった。もしこれが登山道でなければ、行き止まりの可能性もある。

 振り向いたが、何かが追ってくるような気配はなかった。

 戻る、という選択肢が脳裏をかすめるが、かぶりを振り、先に進むことだけを考えた。

 再び走り出した。もっとも、傾斜が緩いこともあり、尋常でない速度は自ずと控える。

 しばらく走っていると、唯の嗚咽交じりの声が漏れた。

「どうして……金子さんがあんなことに」

「わからない。何がなんだか、まったくわからないよ」

 それ以外に答えようがなかった。「悪夢である」と言いきれたらどれほど楽だろうか。

「お母さんは昔から言っていました。ふるさとの山には……飛火石山には、恐ろしい女神様がいる、って。女性が登ってはいけない山だ、とも言っていました。本当に女神様がいるんでしょうか?」

 わからない、と口にしたばかりなのだ。見つかるはずのない答えを探すより、こちらから尋ねてみる。

「君はガラドリエルにいたところを、おれの母さんと金子さんに襲われたのか?」

「はい」唯は頷いた。「朝の六時を過ぎたばかりの頃でした。高速道路を使う予定だったので、出発にはまだ時間がありました。お母さんは始発の電車で先に出発していたし、店員さんたちはまだ来ていなかったので、少しでもお店のお手伝いをしておこう、と思ったんです。それで掃除をしていたら……英美さんと金子さんが裏口から入ってきて……」

 見ると、唯は涙ぐんでいた。今日の彼女は早朝からずっと、尋常でない思いばかりしてきたのだ。

「おれの母さんが君をひどい目に遭わせてしまった。本当にすまない」

 並んで走っている状況での謝罪は、正当でないだろう。だが、口にせずにはいられなかった。自分や英美を許してほしいわけではない。唯の心の痛手を少しでもいたわってやりたかっただけである。

 唯は即座に首を横に振った。

「そんな……大谷さんは何も悪くありません。言ったじゃないですか、わたしが大谷さんにちゃんと話さなかったのがいけなかった、って」

「君から話を聞いたとしても、おれはここに来ていたよ。有野の行方を追ってね。それに、母さんも自分の過去を知られまいとして何かしていただろう」

 気休めではない。この推測はおそらく的を射ているはずだ。

「その有野さんは、藤田さんが殺されなければ、ここに来ることもなかったはずです」

「君は、有野がここに来たことだけじゃなく、藤田さんが殺されたことも自分のせいなんだ、と言いたいのか?」

「そういうことです」

 唯の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。

 雅彦は話題を切り替えたことを悔やんだ。彼女をこれ以上苦しませないためには、もう何も話さないほうがよいだろう。

 しかし唯は口を開く。

「わたしの上司が電話をくれた、って言いましたが」やはり嗚咽は続いていた。「その電話のすぐあと、大学の同期の女性からも、電話があったんです。やっぱり有野さんの件でした」

 話をやめさせたいが、どのように伝えればよいのかわからなかった。

 唯は続ける。

「同期の誰かが、わたしのおかあさんがガラドリエルを経営している、ということを有野さんに教えちゃったみたいなんです。有野さんは、お店の情報から芋づる式にわたしたち親子の事情を知り得たんでしょう。電話をくれた彼女も藤田さんの事件を報道で知っていて、だからなおのこと、わたしを心配してくれました」

「そうだったのか」

 形式的な首肯だった。話を切り上げるための言葉が見つからない。「君も犠牲者の一人なんだぞ」と出そうになったが、それはそれで彼女の新たなる悔恨を掘り起こす可能性がある。

「有野さんはわたしに会おうとしていたんじゃないんでしょうか?」

「それは……」

 言葉を濁してしまった。おそらくは唯の憶測どおりだろう。

「有野さんは、石原真央という名の女性は誰なのか、その石原真央とわたし……沢口唯に関係はあるのか、それを探っていたに違いありません。わたしから話を聞き出せれば、それで済むわけです。飛火石に行ったって手がかりは何もないんだ、と知っておくべきだったんです」

 嗚咽はやんだが、声に棘が含まれている。感情が高ぶっているようだ。

「だから、わたしから有野さんに会えばよかったんです。わたしは藤田さんを止めることができなければ、大谷さんに説明もしなかった。そのうえ有野さんのことを避けてしまうなんて……わたしはなんておろかだったんだろう」

 走ることに集中させなければならない。雅彦は思いきって言う。

「唯さん、もうやめよう。唯さんが悔やめば悔やむほど、おれだっていたたまれなくなるんだ」

「でも、わたしは――」

 唯は言葉を切った。雅彦の訴えを聞き入れたのではなさそうである。彼女は走りながら聞き耳を立てていた。

 雅彦も耳に意識を集中した。無論、足は止めない。

 遠くから声が聞こえた。

「……にいいい……よおおお……」

 言葉自体は聞き取れないが、背後から聞こえてくる。

「……おた……いい……」

 声は続いていた。

「この声は……」

 唯は声の主が誰なのか気づいたらしいが、雅彦にはよくわからなかった。

 走りながら振り向くが、道のはるか後方の暗がりには何も見えない。

「おおたにいいいいいい!」

 今度こそ雅彦にも明瞭に聞き取れた。

「置いていくなよおおおおおお!」

 確かに有野の声である。聞き取りやすくなったということは、距離が縮まったにほかならない。

「急ごう」

 雅彦は速度を上げようとした。

「はい」と答えはあったものの、唯の足の運びは鈍くなっていた。額を負傷しているだけでなく、精神的なダメージも大きいはずだ。速く走りたいのはやまやまだが、力尽きてしまっては元も子もない。無理を強いれば道のうねりに足を取られてしまうかもしれないのだ。

 現状の速度を維持したまま、雅彦は唯の右手を引いた。

「おおお……いいい……」

 有野の声はまだ聞こえるが、かなり小さくなった。

 ――すまない、有野。

 有野を捜し出すために飛火石に来たはずなのに、皮肉にもその有野を見捨ててしまったのだ。雅彦は慚愧と悔恨とに打たれた。

 そして間もなく、有野の声はまったく聞こえなくなった。

 唯が羽織っていたミリタリージャケットが、揺れに耐えられなかったのか、地面に落ちた。

 振り向いた唯が足を止めようとした。

「気にするな。安物だ」

 雅彦は唯の手を引いた。

「でも……何か大切なものとか、あのジャケットのポケットに入っていないんですか?」

 この期に及んで心配することではないだろう。実際に、ミリタリージャケットのポケットには唯の顔を拭いたハンカチが入っているだけだ。

「とにかく、走るんだ」

「大谷さん」

「かまわないんだって」

 現状を理解してほしい、と思った。今の自分たちは逃げなければならないのだ。

「違うんです」

 唯が体を寄せてきた。慄然たる表情で左右の暗がりに注意を向けている。

「枝が……動いている……」と唯の声が震えた。

 走りながら、雅彦も見た。

 木々の枝という枝が、風もないのに揺れ動いているのだ。しかもそれらの動きは、枝というより鞭か触手である。

 前を見れば、暗がりの天井を成形している何本もの枝が湾曲して垂れ下がり、頭に届かんばかりだった。枯れ枝と見まがうばかりに葉の一枚もないそれらが、蛇のようにくねくねとのたくっていた。

 躊躇する間もなかった。二人はすでにその下を走っていた。

 唯の足の運びがさらに鈍った。

「走るんだ」

 唯の心身のダメージを気遣っている場合ではない。雅彦は彼女の手を強引に引いた。

 すぐ先に、ひときわ太い枝が垂れ下がっていた。道のほぼ中央だ。絶え間なくのたくり続ける深緑色のそれは、先端が地面に達している。

 雅彦は立ち止まらず、道の左端に進路を取った。そのまま通過しようとするが、案の定、太い枝――否、太い触手は、雅彦たちに襲いかかってきた。

「ひっ」

 声を上げた唯が足を止めようとした。

「止まってはだめだ!」

 𠮟咤しつつ、右手でその太い触手を払いのけた。

 ふれたのはほんの一瞬であるが、ひんやりとして柔らかい、ということを知った。こんなものが枝であるはずがない。

 右の木立の奥で何かが動いていた。触手ではない。

 雅彦は唯に悟られぬよう、走りながら横目でそれを見る。

 周囲のどの樹木よりも巨大な何かだった。赤黒く膨れ上がった肉塊、といった印象だが、木々の枝葉に隠されてその全容は窺えない。二本の足で下生えを踏み締め、ゆっくりと近づいてくる。それらの足先に備わっているのは、まさしく蹄だ。

 見たことを後悔した。息が乱れ、何度も地面のうねりにつまずいてしまった。

 走る速度が落ちていた。走っているうちにも入らないだろう。先に速度を落としたのが雅彦なのか唯なのか、もうわからない。

 何かが雅彦の右足に絡みついた。今度ばかりは足を止めざるをえなかった。

 つんのめるようにして唯も立ち止まった。

 雅彦は自分の足元を見下ろした。

 触手――ではなかった。

 雅彦は目を剝いた。

 うつ伏せに倒れた有野だった。その有野が両腕で雅彦の右足にしがみついているのだ。

 有野の背中に付着したままの金子が、残った右目を雅彦に向けた。ひしゃげた口で何やらぶつぶつとつぶやいている。

 有野が顔を上げた。

「やっと……追いついたよ」

 へらへらとした笑みを浮かべる有野が、突然、内蔵らしきものを吐き出した。

 有野の声を受け、唯も見下ろした。

「きゃああああああ!」

 悲鳴が雑木林の暗がりに響いた。

 もう片方の足で有野を蹴り飛ばした雅彦だったが、その弾みで唯とともに転倒してしまった。

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