第2話 ③

 翌日――。

 晴天の日曜日だが、雅彦は出かける気になれず、軽めの朝食を取り、スマートフォンでネット通販のサイトにログインした。ほしかったタブレット端末のスペックに目を通していたものの、どうしても早苗の事件が頭から離れず、気分は滅入る一方だった。

 午前九時を過ぎた頃には閲覧をやめ、テレビを点けてその前にあぐらをかいた。

 ニュース番組だった。画面に「OL殺害の重要参考人、警察官に暴行して逃走」というテロップが表示されている。映像はどこかの商店街らしい。警察による現場検証の様子だ。

 胸騒ぎを覚え、テレビの画面を凝視した。

 その映像に男性アナウンサーの声が重なる。

「藤田早苗さん殺害事件の重要参考人として昨日の早朝に警視庁に任意同行した男が、同日の午後六時頃、取り調べ中に警察官を殴って逃走しました。男は藤田さんの同僚で会社員の金子信也容疑者、二十八歳です。警察は現在、金子容疑者の捜索に全力をそそいでいる、とのことです」

 それを耳にした雅彦は息を吞んだ。金子が取り調べを受けていたこと自体が寝耳に水だが、その金子が逃走したなど、愕然とせざるをえない。

 情報の収集を怠っていたことを悔やみつつ、すぐにスマートフォンを手にして有野に電話をかけた。しかし、昨日と同様の音声案内が流れる。続けて有野のマンションにもかけてみるが、案の定、留守電モードだった。

「大谷だけど、連絡してくれ」

 伝言を入れて通話を切った雅彦は、意を決してスマートフォンのアドレス帳を開いた。

 着信拒否を覚悟で発信すると、呼び出しが鳴り、すぐに通話状態となった。

「大谷さん……ですよね?」

 沢口唯の冷めたような声が雅彦の耳に届いた。


 雅彦はラフな出で立ちで川沿いの遊歩道を急いだ。約束の午前十時半まであと五分以上もあるが、のんびり歩いていくなど、とうていできない。

 コンクリートの遊歩道が円形に広がっている箇所があった。その小さな広場に木製のベンチが川の流れを望むように据えてある。

 ショートコートにジーンズという装いの唯が、ベンチには座らず、広場の端で川に向かって立っていた。柔らかい風を受けてさらさらと揺れているのは、ストレートに下ろした長い黒髪だ。

 雅彦が近づくと、唯は正面を向けた。その髪型が作り出す様相は、まさしく石原真央である。

「沢口さん、急に呼び出してすまなかった」

 詫びながら、雅彦は唯の前で立ち止まった。

「いいんです。それより、やっぱり金子さんの件ですか?」

 そう尋ねた唯は憂いの表情を浮かべていた。

「ああ」雅彦は首肯した。そして、息を落ち着かせてから問い返す。「君は何か知っているんじゃないのか? 何かおれに隠しているんじゃないのか?」

「大谷さんの心境は理解できます。けれど、前にも言いましたよね、もうわたしにはかかわらないでください、って。ゆうべ、私服刑事がわたしのところへ来たんです。そして刑事は、金子さんの行方に関して何か心当たりはないか、そうわたしに問いただしたんです。だから正直に答えました。何もわからない、って。……そう、何もわからないんです」

 凜とした眼差しだった。

 雅彦は臆しつつ口を開く。

「藤田さんが殺されたんだよ。しかも、彼女はおれの友人だった。真実を知りたいと思うのは当然だろう」

「何を訊かれても、わたしには答えることができません。それをはっきりさせるために、ここに来たんです」

 こうまで頑なであるなら、切り札を使うしかない。

「君にしつこくしていたあの金子さんは、本当は藤田さんと付き合っていた。藤田さんや金子さんと一緒にいる機会が多かった君ならば、それを知っているのが当然だ。君は無関係じゃない……何もわからないなんて、そんなはずがない。藤田さんと金子さんの社内恋愛は、事件に関係しているんじゃないのか? 君は、答えるべきだ」

 後ろめたさはなかった。むしろ、唯に憤りを抱いてしまう。

 しかし彼女は、表情を変えなかった。

「わたしにだけじゃなく、この事件にも、もうかかわらないでください」

「どうして?」

「答えられないと言いました」

「このおれも無関係ではないんだよ」

 すがりつく思いで訴えた雅彦に、唯は背を向けた。

「もう会うことはないでしょう。さようなら」

 すげなく告げ、唯は歩き出した。

「沢口さん……」

 彼女の腕をつかんで引き止めよう――ともう一人の自分が高ぶるのを、理性で強引に押さえ込んだ。

 遠ざかる黒髪が揺れている。

 都会の喧噪が、雅彦を嘲笑するかのごとく流れていた。


 下ろしたてのトレッキングシューズで、湿り気のある黒土を踏み締めて歩いた。宿を出たときは肌寒さを感じたが、歩き始めて三時間を経過した今は、わずかに汗ばむほどだ。

 雑木林の中の小道は緩やかな傾斜で上っていた。木々は鬱蒼と茂っているが、いくつもの木漏れ日を見てここが冥界でないことを実感する。

 有野にとって一人での山歩きは初めての経験だ。勝手がわからないのはともかく、高校生時代に野球部で鍛えたはずの足腰がすっかりもろくなっていることには、ただただ閉口するばかりである。息も上がりぎみだ。

 金子信也が取り調べを受けていたことは、昨日のうちに把握していた。しかしその金子が逃走したことは、宿を発つ前にインターネットのニュースで知った。確かに金子は怪しい。行方をくらました時点で、素人目にもそう思えた。警察はそんな金子ばかりにとらわれているが、有野は沢口唯と石原真央という二人の女を無視できなかった。

 事件を知ったあの日から、有野はできる限りの手段を講じて情報を集め続けた。そしてついに、沢口唯と石原真央との接点を突き止めたのだ。しかし、それだけでは尻切れトンボである。二人の女の繫がりと今回の事件とが無関係であるとは思えないからこそ、彼は飛火石といういわくつきの土地に足を踏み入れたのだ。

 手がかりがあるという根拠はどこにもない。ましてこんな山中では、あったとしても見つかる確率はゼロに近いはずだ。それでも諦めきれないのは、雅彦にもまだ告げていないゆえんがあるからだ。そのゆえんは、今後も、誰にも告げることはないだろう。

 頂上を確認したら、登山道を折り返し、集落跡を調査する――という予定だ。火守里に引き返すのはそれからである。

 火守里での情報収集を最後の手段としたのは、飛火石の調査前に真犯人がこちらの行動に気づいてしまう、という事態を避けるためだ。とはいえ、すでに大胆な方法で情報収集をしている。今さら慎重になっても手遅れかもしれない。つまり、次に狙われるのは有野自身かもしれない、ということだ。

 腕時計を見た。そろそろ昼時である。

 頂上に着く前に最初の休憩を取ろう、と思った。食事は持っていないが飲み物だけで十分だ。

 ふと、物音を耳にした。

 有野は足を止めて振り向いた。

 木々と下生えからなる鬱蒼とした陰りがあるだけだった。人の姿も動物の姿も皆無である。気のせいだったのかもしれない。

 背中のリュックを前に持ち、中からスポーツタオルを取り出した。

 額の汗を拭きつつ周囲に目を配るが、やはり、動くものは何もない。

 タオルを戻したその手でスポーツ飲料のペットボトルを取り出した。一気に三分の一ほどを飲み、喉を潤す。

 落ち着いていられる気分ではなかった。ペットボトルをリュックに戻し、そのリュックを背負い直して、有野は早々に歩き出す。歩調は先ほどより早まっていた。

 ――そうだ、大谷に連絡するんだった。

 圏外の可能性があることや出勤時間帯であることを承知しつつ、歩調を緩めることなくジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した。平静を失っている自分に恥辱を感じるが、誰かに見られているわけではない――プライドなど気にする必要はないのだ。友人の声を聞けば少しは落ち着きを取り戻せるだろう。

 しかし、有野は眉をひそめた。スリープモードにしておいたはずだが、画面をタップしても電源ボタンを押しても、スリープが解除されないのだ。

「うそだろう」

 毒づくが、それで状況が改善されるはずがない。

 諦めてスマートフォンをジーンズのポケットに押し込んだとき、枝の折れるような音がした。その音があと三回、連続する。

 もはや、気のせいとは思っていられない。振り向くことなく、有野はさらに歩調を上げた。

 耳に意識を集中すると、下生えを踏み鳴らす音がまだあった。間違いなく、背後から聞こえてくる。人間以外の何か――正体不明の何かが追ってくる、そんな妄想に駆られた。

 上りの傾斜がきつくなったが、歩調は緩めなかった。

 女人禁制の山であるのはすでにインターネットで調べてあるが、無論、そんな迷信は信じていなかった。しかも自分は男なのだから、禁忌を犯しているわけではない。怪奇スポットであるとか都市伝説など、そういった噂も見つからなかったのだ。――自分自身が信じていないうえ、噂もない。非現実的な恐れを抱く必要は皆無である、ということだ。

 もう一度、有野は考えを巡らせた。そして、野生動物の可能性を挙げる。熊か猪だとすれば、これはこれで現実的な脅威だろう。

 前方に雑木林の出口が見えた。道幅は十分に確保されており、障害となるものはない。

 ――もうすぐだ。

 有野は走った。

 進路上の雑草の密度が増した――そんな気がした。ほんの数秒前までは雑草などほとんどないように見えていたのに、である。

 木の枝が顔に当たった。それを片手で払う。

 舌打ちをして走り続けた。

 背後の音はやはり足音のようだ。だとすれば、調子からして「それも走っている」と思われる。その音が徐々に距離を詰めてきた。

 何が起きているのかわからないが、自分が動揺していることは確かだ。

 腰ほどもある雑草が密集していた。

 何本もの枝が行く手を遮る。

 足が思うように進まない。

 やがて小道は失せ、深い藪となった。

 出口は見えない。

 有野の足が止まった。

 荒々しい息遣いが耳元で聞こえた。


 週が明けて出社した雅彦は、始業前に有野への連絡を試みた。しかし、スマートフォンにかけても固定電話にかけても、反応はこれまでと同じだった。

 やがて就業時間に入ったが、業を煮やした雅彦は、スマートフォンを手にして廊下の突き当たりに場所を移し、有野の職場にもかけてみた。しかし、有野は休みだという。むしろ、電話口に出た有野の上司らしき男に「有野はどうしているのか」と尋ねられる始末だった。答えられるはずもなく、軽く受け流して電話を切った。察するに、無断欠勤らしい。

 知人や友人であっても捜索願は出せるが、雅彦はそれをしなかった。有野の身を案じていながらも、なぜか「警察に任せておいていいのか?」と自問していた。

 仕事が手につかなかった。

 いらだつあまり、資料作成で何度もミスを繰り返した。

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