第1話 ④

 突然の着信音に目を覚ました須藤すどうは、ベッドに横たわったまま枕元のスマートフォンを取った。

「あー、もしもし」と聞き覚えのある男の声が口火を切った。

「なんだよ佐々木ささき……こんな朝早くからよう」

 寝起きが悪いのは自覚しているが、あえて険のある口調で返した。

「朝早く……って、なあ須藤、もう七時だぞ。おまえ、いつも仕事で忙しいじゃん。だから出勤の前に電話してやったんだ」

「してやった、っていうのもなあ」

「寝ていたのか?」

「そうだよ。今日は遅番なんだよ。てか、メッセージじゃだめなの? 今までだって用があるときはそうしていたじゃん。電話めんどくせー」とさんざん愚痴をこぼしたうえで、確認する。「で、用件は何?」

 できればもう一度、眠りにつきたい。そのためにも話の腰を折るべきではないだろう。

「えーと、おまえさ、おれのスマホの番号、誰かに教えた?」

「スマホの番号だ?」意味がわからずに須藤は眉を寄せるが、ふと思い出す。「ああ、もしかして……」

「やっぱりおまえか」

 佐々木は声を上げた。

「おれは教えていないよ、最後まで聞けこのばか」

 躍起になって否定したためか、途端に眠気が吹き飛んでしまった。

「ばかとはなんだよ」

「じゃあな。切るよ」

 腹立たしさのあまり、本当に通話を切ろうと思った。

「おい須藤、ちょっと待て。ちゃんと聞くから、話してくれよ」

「じゃあ、ちゃんと聞けよ。もしかして……藤田っていう女から電話がかかってきたんじゃないのか?」

「そうだよ」

 佐々木は答えた。

「あれな、おれにもかかってきたんだわ」

「須藤にもか?」

「ほかにも、中学の同期の何人かにかかってきたらしいぞ。なんらかの手段でおれたちの連絡先を入手したらしいな。おれたちの同期の誰かを買収したとかさ」

「買収かあ。……大谷の大学生時代の友達、ってその女が自分のことを言っていたけど、大谷について尋ねたいことがあるから会ってくれないか、って」

 佐々木の言葉に須藤は頷く。

「おれも同じことを言われた。ほかのやつらも、そうみたいだな」

「なんか怪しいよな。新手の詐欺なんじゃないか」

「まあ、怪しいな」

「念のため……大谷に訊こうかと思ったんだけど、本人には内緒にしてくれ、ってあの女が言っていたから」

「ああ、おれも言われたよ。ということは、連絡先は大谷から手に入れたのかもな。ていうか、怪しい女なんだぜ。言いなりになることなんてないじゃん」

「それもそうだけど」佐々木は言った。「大谷ってあんなんだし、特に付き合ってもいなかったから、わざわざ電話してまで話したくもないな。しかも、須藤の言うとおり、大谷もグルかもしれないじゃないか」

「だな」

 否定できる要因はなかった。

「でも、やっぱり気になるから、大谷の家に電話してみたんだ」

 佐々木のそんな言葉を受けて須藤は啞然とした。

「結局、電話したのかよ」

「大谷本人に、じゃないよ。あいつは今、東京で暮らしているじゃん」

「そうだったっけ?」

「ほかから聞いた話だけどな。それでさ、大谷のおふくろさんに訊いてみたんだけど、大谷の大学生時代からの交友関係は、あんまり知らないんだそうだ」

「空振りか」

「まあな。念のため、大谷くんには内緒にしてください、って伝えておいたよ」

「内緒にしておいてくれ、とあの女に言われた佐々木が大谷のおふくろさんに、内緒にしてください、だなんてよく言えたな」

「別に口を滑らせてくれてもかまわないんだけどさ。それにしても、大谷に友達がいたなんて、それだけでもうそくせーのに、あの女、かなりの美人だったから、なおさらうそくせーよ」

「美人? おいおい、まさかその藤田っていう女に会ったんじゃないんだろうな?」

「会ったよ。先週の……木曜日だったな」

「おまえ、ばかか?」

「またばかかよ」

「新手の詐欺かもしれない、って言ったのは佐々木なんだぞ。それなのに、会った? 何考えてんだよ」

「怪しいのは怪しいけど、別に金を取られたわけじゃないし、それどころか、ファミレスで夕食をごちそうしてくれたんだ」

「わかったわかった。でも、何か訊かれたんだろう? どんなことだったんだ? 大谷について、か?」

 呆れつつも須藤は尋ねた。

「大谷について……ていうか、大谷の交友関係についてなんだ。で、あの女なんだけど、大谷の大学生時代の友達、っていうのは口実で、本当は探偵だったりするんじゃないかな。大谷の素行調査をしている……とか」

「誰がそんなことを依頼するんだよ?」

「誰って……」

「藤田っていう女はさ、探偵というより、大谷の彼女なんじゃないかなあ」

 もっともらしいと思える線を須藤は口にした。

「彼女? ありえないだろう。大谷はあれだけ目立たない男だったんだぞ。引っ込み思案もいいところだったじゃないか」

「そうなんだけど、社会人にもなりゃあ、少しは変わるだろうよ。で、その女、大谷が浮気していないかどうか、それを調べているとか」

「確かに現実的な考えだけど、大谷がそこまでモテるかなあ」

「まあ、見た目は悪くなかったからな」

 悔しいが事実なのだ。

「そういや」佐々木は言った。「藤田という女に、イシハラマオという女性を知らないか、って尋ねられたんだ。聞いたこともない名前だから、知らないとしか答えられなかったけどさ」

「ほら、やっぱりそうだ。色恋沙汰だよ。だったら、大谷はグルではないかもしれないな。身から出たさび、っていうやつさ。大谷のやつ、上京して女にモテるようになって、図に乗りすぎたんだろうな」

 得意になって須藤は論じた。

「そうかあ……そうなんだ」

「なんだか、うらやましそうだな」

「そりゃあ、彼女ほしいし」

「佐々木は女と付き合った経験、ないんだったよな」

「彼女がいるからって、そういう言い草はないじゃん」

 そう言われても、これに関しては自尊心は芽生えなかった。何せ、恋人との間に別れ話が持ち上がっている最中なのだから。

「悪かった悪かった」事実を覆うためにも、とりあえず詫びておいた。「それより佐々木、気をつけろよ。大谷の女性問題ならまだいいけど、おまえの言うとおり新手の詐欺だとしたら、おまえはもう目をつけられているんだからな」

「なんで?」

「なんで……って、その女と会ってしまったんだろう? ばかじゃねーの?」

「またばかかよ」


 午後十一時を過ぎていた。

 商店街は人通りがなく、閑散としている。

 口論の相手は二分と経たずに白旗を揚げるや、温かい飲み物を謝罪として買うために、百メートルほど離れたコンビニエンスストアへと駆けていった。

 街灯のぼんやりとした光を浴びながら「いい加減にしてよね」と独りごちた。そして、この都会ならではの星の一つもない夜空を見上げる。日頃の鬱憤をぶつけてやったのに、気持ちはまだ収まらない。

「飲み物なんかでだまされないわよ」

 早苗はもう一度独りごちると、コンビニエンスストアの明かりに背を向け、商店街の暗がりを見つめた。しかし、日中は人々で賑わっているこの通りも、今はただ、早苗の心を凍てつかせるだけだった。

 車の行き交う音が遠くに聞こえる。大都会のこの一角だけが日常から取り残されてしまったかのようだ。

 そろそろ潮時なのかもしれない。いつまでも引きずっていては本当に自分がだめになってしまう。

 温かい飲み物は断ろう。そして、はっきりと告げるのだ。

 背後で足音がした。

 数秒後に再び言い訳を聞かされるだろう。その前に自分が言わなければならない。言い訳などもう二度と聞きたくない。

 決意を胸にした早苗は、振り向こうとした。

 背中を激痛が襲った。

「いっ」

 思わず声を漏らした。

 激痛が背中から体の奥へと突き進んできた。

 自分自身の小さな息遣い以外に、荒々しい息遣いが耳元で聞こえる。

 続けて腰や肩、首をも、激痛が襲った。

 車の行き交う音が小さくなる。

 荒々しい息遣いが遠くなる。

 早苗自身の息遣いも、消えていく。

 ――言わなくちゃ。ちゃんと言わなくちゃ。

 だが、言葉を紡ぐ力はすでに尽きていた。

 夜空より深い闇に、早苗は落ちていった。


 雅彦のスマートフォンに友人の有野ありの貴好たかよしから電話が入ったのは、火曜日の夕方、残業に入る直前だった。

 気さくで活動的な有野は、やはり大学生時代のボランティアサークルの仲間だ。今でも月に一度は一緒に酒を飲む、という間柄である。大学で初めて声をかけてきたのが有野ならば、サークルに誘ってくれたのも彼だった。そんな友人がいてくれたからこそ、雅彦のキャンパスライフは充実していたのだ。

 この日は青田も含めて残っている者が多いため、スマートフォンを片手に廊下へと出た。見える範囲に人の姿はないが、スマートフォンを耳に当てながら、とりあえず廊下の突き当たりまで移動する。

 中窓の外に目を向けた。今にも泣き出しそうな薄闇の曇天模様の下で、車の往来が多い夕暮れのビジネス街が、夜のとばりを待っている。

「どうした? 今日は宴の予定じゃないぞ――」

「冗談を言っている場合じゃないんだ」有野は雅彦の言葉に被せた。「藤田さん……藤田さんが……」

 いつもの陽気さが感じられなかった。明らかに取り乱している。

「有野、どうしたんだ? 藤田さんって、藤田早苗さんのことか?」

「その藤田早苗さんが、殺された」

「殺された……って、うそだろう」

 話が飲み込めなかった。有野のほうこそ冗談を言っているのではないか――そう思えたほどだ。

「うそじゃない。さっき、ネットのニュースで見たんだよ。テレビのニュースでも報道されたみたいだ。藤田さんのスマホに電話してみたけど、呼び出しも音声も流れないし」

「でも……」

 先週の水曜日に電話で会話したばかりなのだ。潑剌とした声を響かせていたではないか。

「刃物で何カ所も刺されたらしい。犯人は逃走中だ。とにかく、大谷も自分で確認してみてくれ。おれは同期のみんなに連絡する。それから……」と有野は言葉を濁した。

「え?」

「いや、いいんだ。とにかく、詳しいことはまだわからない。追ってまた連絡するよ。大谷も何かわかったら、いつでも連絡してくれ」

「あ、ああ……そうする」

 雅彦が答えると、有野はすぐに通話を切った。短い通話だった。

 ――藤田さんが殺された?

 手にしたスマートフォンを見つめたまま、自問した。そして、インターネットのニュースをチェックするか早苗のスマートフォンに電話をかけるか、どちらかを選択すべきと考える。

 しかし不意に、別ルートでの確認を思い立った。

 アドレス帳を開き、唯のスマートフォンに電話をかけた。

 連絡先を交換して以来、初めてかける電話だった。メッセージさえ交わしていなかったが、初めての連絡がこんな形になるとは思いもよらなかった。

 呼び出しは鳴らなかった。電源が入っていないか電波の届かない場所にいる、というアナウンスが流れる。

 遠くで稲光が走った。

 五秒ほどして雷鳴が轟いた。

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