走りたい

 矢ケ部颯汰は走ることが大好きだった。



 子供の頃から、近所にあった桜並木が続くサイクリングロードで毎日のように走り、中学、高校、大学と陸上部に所属してきた。


 あいにく、箱根駅伝に出場することはなかったのだけど、それを目指してひたすら走っていた。


 大学卒業して就職してからも、走ることをやめなかった。


 東京の大学を卒業後戻ってきた親友とともにいつも城跡のお堀周辺を走っていた。


春には、県主宰で開催される「春のマラソン大会」にも毎年参加して、親友とどちらが先につくのかと争っていたものだ。


 いつも五分五分で、颯太たちはマラソン大会の常連たちにはちょっとした有名人だったりする。



 とにかく、走ることが楽しい。


 心地いい風にのって、ずっと走っていたいほどだった。


 だけど、ある日突然走れなくなった。


 交通事故に巻き込まれて三年もの間、寝たきり状態になったのだ。


 目を覚ますと世界がかわっていた。


 毎年あってきたマラソン大会は中止になり、人々の外出も規制されるようになった。


 もちらん、マラソン大会が永遠に中止というわけではない。感染症がおさまれば、再開するはずだ。



 颯汰は再び走れるようになることに、希望を抱きながら、リハビリを続けた。


 必死の努力のすえに、つたい歩きができるようになった。


 そのことを妻の咲に話すと心から喜んでくれた。


 それからもリハビリを続けた。


 杖で歩けるようになったとき、走れるようになれるのかと先生に聞いた。


 すると、先生は渋い顔をする。


 しばらくの沈黙ののちに告げられた言葉は残酷なものだった。



「日常生活に支障がないぐらいならできるでしょう。だけど、長距離を走ることはむずかしいです」


 その言葉に颯汰は愕然とした。


 走れない。


 長距離を走ることが一生できないという事実に打ちのめされた。


 そのことを咲に話すと、静かに「そう」とだけいった。次の言葉を待ったが、なにもいわかった。

 泣きたい。


 いますぐに泣きたい。


 会いたい。


 モニターごしではなく、実際に彼女に会いたいと思った。


 やがて、その日のオンライン面会が終わった。



 夜になると静かだった。


 同じ病室の人たちは寝静まっている。


 そういうとき、颯汰のなかで繰り返されるのは走れないという事実。


 胸が張り裂けそうでくるしい。


 思わず、自分の足を叩いた。


 静かに嗚咽する。



 彼の慟哭を知るものはだれもいなかった。




 その翌日のこと。


 いつものように十分間のオンライン面会の時間になった。


「パパ。元気」



 娘の華の無邪気な笑顔が画面越しに飛び込んでくる。


 その笑顔にいつも元気付けられている颯汰だったが、彼女の笑顔でも払拭できないほどに絶望のふしなたっていた。


 そのことを華はすぐさま感じとり、「パパ。具合わるいの?」と不安そうな顔をする。


 颯汰はハッとする。


 いけない。


 娘に心配かけてはいけない。


「大丈夫だよ。リハビリがんばりすぎて疲れたんだよ」


「そうなのお。パパ、無理しちゃだめだよ。具合悪くなっちゃうよ」


「ああ。でもな。パパは早く華に会いたいからね。だから、がんばるんだよ」


 そうやって笑顔を浮かべる。



 華の後ろで咲が複雑そうな顔をしているのが見えた。



 その日もいつものようにオンライン面会が終了した。


 娘の笑顔をみても、モヤモヤした気分を抱きながら、ベッドに横になる。そのまま天井をぼんやりと眺めていた。


 すると、突然スマホの呼び出し音が鳴り響く。


 颯汰はぼんやりとスマホ画面をみた。


 咲からだ。


「はい」


「颯汰」


 スマホか咲の声が聞こえてくる。


 どこか元気のない声。その理由はわかっている。颯汰がそうさせているのだ。


 不安を与えていることを自覚しながらも、彼女に安心感を与えられない自分がいる。正直、話したくない気分だった。


「颯汰。実は話があるの」


「話?」


 颯汰は首をかしげた。


「颯汰は走りたいんだよね」


「え?」


「走りたくて仕方がないのよね。それって、その足じゃなきゃだめ?」


「そりゃあ、そうだろう? 走らないと風を感じない」


 颯汰は開けられた窓から入ってくる風を感じながらいった。走らなくても感じることのできる風。


 けれど、走ったときに吹く風の心地よさはなんともいえない。


 また、感じたい。


「そう。だったら、ちょっと提案があるの」



「なんの話だ? 」


 彼女がいおうとしていることがわからずに、首をかしげる。


「どんな方法でもことができるとすれば、颯汰にぴったりかなあと思ったのよ」


「だから、なんだよ」


 さすがにイライラする。


 けれど、まだまだ辿々しい言葉しか話せない颯汰には、彼女に苛立ちを伝えることができない。


「車椅子よ」



「はっ?」


「車椅子マラソンってのがあるのよ。それなら、走れるんじゃないかなあと思って」


 咲の提案に颯汰は愕然とした。


 脳裏には、車椅子で爽快に路上を走る姿が浮かぶ。いつみた映像なのかははっきりしないが、まだ自分が走れるころに見たものだった。


 かっこいいと思った。


 足が動かなかったりする障害者と呼ばれる人たちが走っているのだ。


 しかも全速力で路上を走る姿に魅了されている自分がいた。


 なぜ、忘れていたのだろうか。


 走れる場所があるではないか。


 走ることの許されない足に拘らなければいい。



 どんな手段だったとしても、方法がある。


 そのことに気づかされた。


 でも、


 すぐに答えがだせるわけではない。


 颯汰は一言


 考えてみるとだけ告げた。






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