2020年6月~7月上旬

 合唱部と演劇部の合同企画『オペラ部』の準備は着々と進んでいた。


 演劇部側出演者は主要な4役は固まった。

 明衣は主役の蝶々の身振りを担う。沖原部長はその相手役の米国海軍士官ピンカートン、シャープレス領事役を香坂が演じる。蝶々を支える女中スズキ役は12年宮田である。

 脇役は合唱部側で堤のように舞台を志望進路とするものが手分けして演じる。


 合唱部側の出演者は舞台の上手下手にわかれる。独唱ないし二重唱は、舞台袖近くで一曲ごとに歌い手が入れ替わる。

 その形だけが決まったあとは、両部は別々に練習を始めた。


 合唱部は、独唱曲であれば一曲ごとに歌唱担当者と代演者と顧問の間宮のみが音楽室に入る。そこで顧問から直接指導をうけて練習する。

 それぞれピアノの両側に立ち、飛沫予防に背を向け合って歌う。

 未來と小柴の『ある晴れた日に』はこのやり方である。


 音楽室という環境上、距離を保ち互いの飛沫を避けて歌うには工夫をしても限度がある。

 例えば、全員がマスクをした上で壁ぎわに立ち、東西南北それぞれに近い壁を向いて左右の距離を取り合う。

 そのような事をしても1度に十数人が限界だ。

 コーラスワークはまさにこの方法で練習した。

 

 二重唱であれば、4人で音楽室の四隅に立ち、教室中央のピアノ目掛けて歌う。

 りょうが代演指名された『可愛がってくださいね』はこの方法である。


 そして合唱部員が全員毎日練習を受けられるわけではない、曲別に週に2日だけ練習するという形になった。

 効率的な日割りの都合から、未來とりょうの練習日はほとんど同じだった。


 未來と11年の小柴が『ある晴れた日に』を歌っている間、廊下や教官室で待たされる。

 その間、二重唱のテノール側の正規担当者、12年パートリーダーの浦木先輩や他の同日練習の先輩方と世間話などして時間を潰した。


 その時、りょうは不意にこんなことを聞かれた。

「え、柾目って志望進路音楽じゃないの?」

 浦木先輩から、実に意外そうな顔で言われた。


 これには11年次からの選択授業の時間割も関係していた。

 音大を進路とする生徒が多い理由として、美星高校は芸術系の選択科目が多いのだ。文系や理系と同様に進路としての芸術を取り入れた学風なのである。そのための専門の非常勤講師までいるほどである。


 特に11年、12年には音楽選択として『歌唱』と『ソルフェージュ』という音楽理論実践の科目が生じる。ソルフェージュで学ぶことは、主に譜面の読解力と聴音である。

 前者は初見でのピアノ演奏力、後者はピアノで弾かれた旋律を譜面に書き起こすいわゆる耳コピーの技術である。


 歌唱はともかく、ソルフェージュは音大受験においては必須技能であり、合唱部のみならずアンサンブル部からの受講者も多い。


 りょうは選択授業として歌唱とソルフェージュの両方を選択していた。

 だから当然のこととして、周囲は音楽系進路志望者だと思っていた。


 だが実際のりょう自身の現時点での志望進路は文系、社会福祉学系である。

 将来は福祉方面での社会貢献度の高い資格職を最終的に志望している。

 これは父が自立支援系の団体職員、共働きの母が介護福祉士という、家庭環境からの影響が大きい。


 実際、いわゆるコロナ禍にあっても両親はともにほとんど在宅ワークとはならなかった。

 特に母は非常事態宣言中でも普段通り勤め先の介護施設へ出勤した。父も実務を伴う出勤の多さからほとんど家にはいなかった。


 両親ともに口にするのは現場の人手不足である。

 りょうはそういう親の背を見て育った。


 結果、音楽という進路を願望として抱えつつも、現実的ではないものとして見るようになっていた。ソルフェージュと歌唱の芸術選択も、その夢と現実の裏腹さの中での、迷いのようなものだった。

 

「うち、いまいち裕福じゃないもんで」

 りょうはへらっと笑ってそう応えた。中学から私立校、というのも振り返れば一人っ子だから可能だった話である。


 浦木はこれに少し気圧されながら「もったいない」とぼやくように言った。


 なぜそんなことをぼやいたのか、その日の練習が始まって早々に知ることになった。

 二重唱の練習が始まってまもなく、浦木と間宮先生からこんな話が出た。


「『可愛がってくださいね』はりょうが歌ったほうがいいのではないか」


 りょうは驚いた。

「まじすか」

 頷く浦木は、先ほどの話もあってばつが悪そうだった。


「いやその、俺はほかにもソロで出番あるし。柾目はこの曲の代演だけだから、さ」

 確かに、香盤表では浦木はほかにも終盤の独唱曲の正規担当を抱えている。

 1幕最後の二重唱である『可愛がってくださいね』は有名だが割と長めの曲でもある。だからこそ集中して臨める11年生のりょうに委ねたい、というのだ。


 小柴はきょとんとした顔でそのやりとりを見つめ、未來は少し面白がるように目を細めて譜面で口元を隠している。


「いや、俺パートリーダーじゃないですし」

 りょうはそう謙遜のようなことを言った。だが顧問の間宮先生は大いに乗り気だった。

「この曲は蝶々役も小柴だ。11年同士のほうが、来年の事を考えても、度胸試しにいいんじゃないかと思ってる」


 りょうは助け船をもとめるように未來を見た。

「いいじゃん、やってみれば」

 りょうの本音としては、戸惑いはしたがやぶさかではない話だった。

「ほんとにいいんですか?」

「ああ、俺の喉を潰したいなら断ってくれ」

 浦木先輩にそういわれて、りょうは吹き出した。

「そんなん言われたら断れないっすよ。わかりました、お受けします」


 その日から練習の立ち位置を入れ替えられ、指導の声も浦木よりりょうに飛ぶようになった。


 その代わってくれた浦木先輩の独唱の練習日は、むろん『可愛がってくださいね』『ある晴れた日に』両曲とも重なる。


 自然と待ち時間中に未來とりょうが会話を交わす機会も増えた。

 未來は早々に、りょうの中に自分への好意があることを見抜いた。


 大坪未來への思慕は、程度の差こそあれ、彼女と接した男子が一度は抱く感情である。未來の容姿はそれほどに魅力的だった。


 また未來から見たりょうは、こざっぱりした少し背の高い後輩である。

 また彼の謙虚な姿勢は突いてからかいたくなる可愛げがあった。そのため、未來は玩具をもてあそぶ猫のようにりょうと接した。


 それが2週3週と連なり、7月の初旬を過ぎた頃である。

 未來は柾目りょうの中に、畑中広夜には見出すことのできなかったものを感じるようになっていた。


 垢ぬけない正直さ、生真面目なくらいの誠実さ。

 そして自分からのからかいを拒絶もせずに受け答えする大型犬のような性格的な包容力である。

 それは、異性としての好意の糸口といってもいいものだった。


 だが未來はそれとは全く別に、広夜の部屋にも出入りを続けていた。

 セックスはしたりしなかったり、今のところきちんと避妊はしてくれている。頻度も減った。受験勉強が忙しく、デート自体も減ったが、会うたびに羽目を外しすぎるということもなかった。

 あるいはあの日、喫茶店で泣いたほどの不安は杞憂だったのかもしれない。

 未來がそう感じるほどに、関係は悠々と保たれた。

 少なくとも、この頃までは。

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