第15話 幻想症候群《ファンタズマ》の異空間

◇◇◇


 そうして順太郎が向ける視線の先。

 そこは奥ゆきが見当たらない拡張された空間だった。


 明らかに現代に存在するあらゆる常識を大きく逸脱している現象。

 依頼内容も大まかに理解した。


「とりあえずアンタの言い分はわかった。それで――期限を三日にした理由を聞いてもいいか?」


「それが病院のお医者様の話だと体調の面を考慮して、あと一週間が限界ではないかと……。それ以上は娘の心が戻ってこれない領域まで踏み込んでしまうそうで」


「……ちなみだが、ステージは」


「先々週の診断結果ではステージⅡだったはずなのですが、今回の診断結果次第で――」


「ステージⅢの可能性もあるってか。もうそこまで進行しているのかよ」


「だとしたらこれは本格的に危ない状態ですわね」


 順太郎の言葉を受け小さく唸り声を上げれば、奥行きの存在しない異空間の先頭を歩く凛子が立ち止まって辺りを見渡し、スマホのシャッターを切ってみせた。


 現在、わたし達はその扉の奥にある異空間を探索中だ。


 おそらくNEEDS本社と呼ばれる場所に解析映像を送っているのだろう。


 幻死症を患うのはそれこそ、思春期の心に心的外傷を負った子供に限定される。

 

 原因はまだ不明だが、現に世界中で報告されている幻死症の患者はほとんどが18歳以下の子供たちだ。

 ステージⅢともなれば『サンプル』としてこれ以上ない『教材』だろう。

 ほんと凛子の仕事に対するプライドと情熱にはほとほと頭が下がる。


(まぁここまでくると科学技術なんて役に立つかどうかなんて怪しいものだけど)


 なにせ――


「(現実の常識を無理やり塗り替えてるなこれは。――世界の位相に自分の望む幻想をかぶせてるのか? 理屈はよくわからないけど……これじゃあまるで魔法そのものじゃないの)」

 

 この世界には魔法や超能力と言った超常現象は確かに存在しない。

 それはわたしがこの世界に生まれ落ちてから何度も確認した。

 だがたった一つだけ。現実を歪める手段がある。それが――


幻想症候群ファンタズマ


 これは超能力とは全く別物で、基本的に患者のトラウマに起因して発現する場合が多いらしい。


 現実の常識を一人の人間の幻想トラウマが歪めてしまうほどの出力だ。

 当然、その身に降りかかる負荷は尋常じゃない。


 『幻死症』はその中でも非常に不安定な状態で、安定した出力で世界に干渉する『幻想症候群』へ至るための初期段階とも言われている。


 ゆえに発症直後は、この『幻想トラウマ』と向き合う必要があるのだ。


 無茶な使い方さえしなければ大したことない奇病だが、時にその身に抱える扱いきれない幻想トラウマは命をも削ることがある。現に――


「うおおおおっ!?」


「うおっ!? なんだよおっさん。気持ち悪い声出して」


「いや、急に足場が抜けて……その、助けてくれないだろうか?」


「ったく。だからここはわたし達に任せて外で待ってろつったのに。……ほら手ぇ出して、引っ張り上げるから」


 そう言ってナヨナヨした手を掴み上げ、順太郎の身体を引き上げる。

 どうやらそこまで深い穴でなかったのが幸いしたのか、すんなりと引き上げることができた。


 下半身だけ飲まれたのは幸運だったにちがいない。


 でなければ今頃、どうなっていたかわたしにもわからない。


「はぁぁああ、びっくりした……」


「大丈夫ですか?」


「ええ、突然のことで驚きましたけど。落ちなくて本当によかった。でもまさかこんなところに落とし穴があるなんて……」


 そうやって胸を撫でおろす順太郎を介抱する美鈴を尻目に凛子の方へと向き直れば、顎に手を当て考え込むように突然空いた穴を凝視していた。


「どうやらすでに『ほころび』が出てるようですわね」


「だが不完全とはいえここまでの異空間を維持してんだ。相当強い幻想なのは間違いないだろうな」


「ええ、彼女の身に降りかかるストレスを思えばこそ早く何とかしなければ手遅れになるかもしれませんわね」

 

 そう言って意識的に足を速める凛子。

 さっそく死にかけた順太郎は凛子についていくか迷ったようだが、娘の為か、意を決してその凛とした後ろ姿についていった。


「ったく。勇敢なのか無謀なのかわからねぇなありゃ」


 そう独り言ちて堪らず頭を掻けば、後ろから恐る恐ると言った様子でわたしを見る美鈴と目が合った。


「うん? どうしたのみーちゃん。そんな顔して」


「……ねぇ神無ちゃん。このままずっと進んで何かあると思う? 富岡さんの娘さんを救うって言ってもこのままじゃいけないように思うだけど、……私の気のせい?」


 おそらく本気でおっさんの娘さんの安否を心配しての発言なのだろう。

 現に、みーちゃんの声色にいつもの明るさがなかった。


「私、幻死症のことはよくわからないけど、その、順太郎さんの娘さんが来てからゆっくり話すのじゃダメなのかな? この部屋に入ってから、なんでかわかんないけど嫌な予感しかしなくて――」


 確かにみーちゃんの言いたいこともわかる。

 それこそ幻死症と言えばいい噂を聞かないの事実だ。

 美鈴が不安に感じるのもわからなくはない。


 実際、幻死症にかかった患者は悲惨な末路を辿ることが多い、とじじいから聞いたことがある。それに――


「いや、たぶんその勘は当たってるよ、みーちゃん。このまま進んでもおそらく何もない可能性が高いかな。でも、それは凛子も承知の上だとわたしは思ってる」


「神無ちゃんも? じゃあ、なんで凛子ちゃんは部屋の中の探索をしようなんか言い出したんだろう?」


「なんでそう思ったのか聞いてもいい?」


「だってこの空間、その女の子が自分の心を壊さないように生み出したんだよね? なのにすごく寂しそうに感じて」


 あーそれは、おそらくこの異空間がその少女の心に密接に関係しているとわたしはあたりをつけている。


 幻死症と言っても大袈裟に言ってしまえば、心のトラウマが現実となって形を成した現象のことを言うのだ。


 心的外傷というのも二種類あり。

 トラウマを誤魔化そうと、本来の傷から遠ざかるように自分の世界に閉じこもってしまう場合もあるし、このように発症者の心理状態が現実に反映される場合もある。


 おそらく凛子は、この異空間を消滅する手掛かりが中にあると踏んで探索しようと言い出したのだろう。


 異空間の状況を見ればどんなトラウマを抱えているかある程度、予想できる。


 そして、それは経験則からくる結論に違いない。

 現にいまのわたし達にできることなんてそれこそ状況確認くらいなもので。


「まぁ本当なら、ここまで他人の心象領域に踏み込む必要はないんだけどね」


 それこそ――この先にこの『幻想』を作り出した原因があったとしてもたどり着けるのはわたし達じゃなくこの異空間を生み出した本人だけに違いない。


 なにせこの空間の支配者はわたしではなく、その富岡順太郎の娘なのだ。


 幻死症と幻想症候群。


 前者と後者は単に意識的に『幻想』を使えるか使えないかの違いでしかないが、殊の外この差は非常に大きい。


 意識的に『幻想』を使いこなせているのなら問題ないが、もし自分でもどうにもならない状態に陥っている場合、かなり厳しいかもしれない。


 なにせ大抵、この病気に掛かった人間はその現実世界すら歪めかねないトラウマを前に衰弱するように命を落とすのだ。


「ステージⅠならそれこそカウンセリングとかでどうにかなったろうけど、どうもステージⅢともなると医者の力だけでは手の施しようもないらしいね。見なよあの後ろ姿。あの凛子が珍しくあんなに急いでるでしょ。余裕がない証拠さ」


「……凛子ちゃん」


 じじいもその昔、そういった戦争孤児たちを見てきたというが――


「まぁそう言うわたしもここまでのものとは思ってもみなかったけどね」


 異世界から転生してきたわたしですら、初めて見る症例だ。

 するとわたしの動揺を察してか、飛び出すようにして凛子の服の裾を掴む美鈴の指先が凛子の足を引き留めた。


「ねぇ凛子ちゃん。一つ疑問なんだけどここって出口があるのかな」


「おそらくないでしょう。こういうタイプのトラウマは自分で出口を塞いでしまうのが一般的ですから」


「じゃあ凛子ちゃんは一体どこへ向かおうとしてたの?」


「中心を探してたんですの」


「中心?」


 そう言って首を傾げる美鈴をよそに、右手に掲げていたスマホをポケットにしまい、腕を組んでみーちゃんの方に向き直る凛子。

 その手には、何かの観測機なのか。先ほどから奇妙な電子音を鳴らし続けていた。


「ええ、お二人には何も言わずついてきていただきましたが、おそらくここがこの異空間の中心で間違いありませんわ」

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