第六章※焔凍える雪女、十六夜のち朝焼け

第34話 僕の話

 俺がまだ、僕だった頃の話。


 生まれたときから僕は生きているのか死んでいるのかわからなかった。テレビでいっていた、なんのために生まれて何をして生きるのか、という問いの意味がよくわからなかった。

 握り締めている、ということを目で見て理解した。美味しい、というのを周りの声で判断した。命が危ない、というのを骨の鳴る音と身体が動くかどうでたしかめた。熱いということを汗が目に入って見えにくくなってから理解するからしょっちゅう火傷をしたし、冷たいという感覚はいつも風邪をひいてから察した。しょっちゅう病院にいたから、酷い咳が続いても肺炎になったという実感が湧かなかった。

 何をしても誰か、僕ではない誰かを客観的に見ているような心地がした。


 生きるってなんだ。

 死ぬってなんだ。

 辛いってなんだ。

 可哀想ってなんだ。

 血脈って、なんだ。


 目から零れる水は涙っていって嬉しいだとかムカつくだとか悲しいだとか楽しいってときに流れる水だ。こんなもの、よく空から降ってくるのに。雨と一緒なのに。よくわからないのに、ふとした瞬間に目の前が曇るのは好きじゃなった。

 好きじゃないのが死だと気が付くと僕は少しだけ臆病になった。


 いっぱい血が出ても痛くないのが僕の血脈。だけど、血がいっぱい出ると死んじゃうから、僕は生きるために戦った。死なないように、戦った。

 痛くないから強くなるために――死なないために、何度も何度も死にかけた。


 たくさんたくさん走らされて、たくさんたくさん重いものを持たされて、たくさんたくさん味のしないものを食べさせられて、たくさんたくさん殺した。生の実感もないままに殺戮と生還を繰り返した。いつも返り血塗れの怪我だらけだった。


 人はみんな同じだ。ナイフで切れば血が出るし、銃で頭を打てばいっぱい血が出る。殴っても蹴っても同じ。他にも出る。涙とか鼻水とか涎とか汗とかおしっことか、とにかく人には水がたくさん詰まっている。


 お父さんが嫌いだった。僕が倒れるまで走らせるし、僕が耐えられなくなって潰れるくらい重いものを持たせようとする。そこまでやっておいて、誰よりも心配する。大きな声でお医者さんを呼んで、僕に声をかけ続ける。


 大丈夫か?

 意識はあるか?

 これが見えるか?

 声が聞こえるか?

 身体は動くか?

 まだできるか?


 よし、それじゃあもう一回。


 レンズの黄色い黒ぶちの眼鏡をかけていて、いつも暗色の甚平を着ていて、偉そうに腕を組んで僕を見ていた。頭の後ろで一つにまとめた長い髪は黒い馬の尻尾のようだ。



 お母さんが好きじゃなかった。大人なのに、お父さんのいうことを聞いてばっかり。たまに勇気を出して質問をしてみても、お父さんに聞きなさいっていわれる。


 一度だけ、お母さんと手を繋いで散歩に行った。人気のない雑木林の真ん中で、お母さんは急に僕を抱き締めて、笑っていた。お父さんの、怒っているのか悲しんでいるのかよくわからない何だかちぐはぐな笑顔と違って、悲しそうなだけの笑顔だった。


 それは僕が両腕の骨と肋骨を折った日の翌日、

「ごめんね、ごめんね、あいしてる」

 っていっていた。


 どうすればいいのかわからなかった。寂しいと言っても涙を流してみても大声を挙げてみても抱き締めてもくれなかったし、そんな嘘はお父さんにだけ向けられるものだと思っていたのに。


 お母さんが跪いた水溜まりには、お父さんみたいな笑顔の僕が写っていた。

 その翌日から、お母さんを見ていない。たぶん、死んだのだと思う。その日に戦った六芒星メイドさんがやたら強かったことを不思議とよく覚えている。



 リッカのことは好きだった。お兄ちゃんお兄ちゃんって、僕の後ろを付いてきて、なんでもかんでも真似をしようとして、メイドさんに怒られるのだ。メイドさんはみんな、顔を隠しているからメイドさん。全身モノクロで六芒星を描いた布で顔を隠されているから、誰も彼も、メイドさん。リッカは女の子なのに自分のことを「ボク」って言う。僕の真似らしい。


 物心ついたときにはリッカのほかにもう一人、よく遊ぶ女の子がいた。声が大きくて、変な喋り方をする外国人の女の子。関西弁と言うらしい。


「ウチなウチな、右手と左手と右脚と左脚が磁石やねん! ところでゆっきー、右ってどっちやったっけ?」


 おかげで僕は十歳ぐらいまで関西が外国だと勘違いしていた。

「ええ、ほんまに知らないん? ゆっきー、あかんて。オーサカもキョートも外国やで?」

 こいつも勘違いしていて助かった



 毎年、夏にだけ遊ぶ女の子もいた。ミアちゃんはお父さん同士の決定で将来僕のお嫁さんになるらしい。いつもおままごことをして、最後は決まって千鳥にめちゃくちゃにされた。僕が怒ると、ミアちゃんは恥ずかしそうに微笑んで大丈夫だという。周りの誰よりも大人びて見えて、僕もちゃんとしなくちゃいけないと思う。



 それともう一人、忘れられない女の子がいた。十歳の頃だ。朝早く、船に乗せられて無人島に連れていかれた。そこでもいつものように殺し合いをするらしかった。いつもと違うのは無人島でやるってことと、二人一組ってこと。自己紹介は無視された。九頭龍家のお姉ちゃんの方で、カルラちゃんという子というのはあらかじめ聞いていたから、それならそれでいいやと思う。


 九頭龍家のというのがお父さんやお母さんよりもずっと偉いというのは知っていた。ずっと強いってことも知っていた。けど、想像以上だった。僕はいつもぼろぼろで死にそうになりながら戦うのに、カルラちゃんは違った。


 血も涙も鼻水も涎も汗もおしっこも、カルラちゃんのそれらは全部、ナイフや銃と同じ武器だった。お花を摘みにいったあとで襲われたら黄色い氷柱が茂みから生えて刺殺したし、攻撃されて血が出たら、その血が銃弾みたいに飛んで殺した。


 綺麗だと思った。


 水が詰まっただけの人間が、初めてちゃんと人間に見えた。お母さんがお礼と挨拶はちゃんとしなさいと言っていたから、僕は忘れずにありがとうと言った。それでも夕日の差す彼女の横顔から目が離せなかった。茶色い髪は夕日を受けて金色に、茶色い目も同じように輝いていて、同じ人間とは思えなかった。


 彼女といれば僕は死なないと思った。

 彼女を守りたいと思って格好つけた。


 きっとそれが、僕にとって初めてのいたみだった。

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