第22話 彼の笑顔と血肉に心を知る。

 以来、姉はわたしに何度もこの話をした。本当に強い人は能力が優れている人ではなく、心が負けない人だ。久遠も頑張っていればいつか王子様が迎えに来てくれる。これは私の初恋の話だ。彼に会いたいけど、これは許されない恋だから、いつか九頭龍家の当主になって、分家の頭領になってから待雪君と結婚する。と何度もわたしに聞かせてくれた。

 この話に対する当時のわたしの感想はこの一言に尽きる。

『羨ましい』

 実戦どころか実験ばかりだったわたしには、この世で一番嫌いな人間から聞いた恋バナ以外に、縋れるものがなかった。

『久遠は何かいいことあった?』

 と訊かれても、

『このまえ、気を失ってからほとんど目が覚めなかったから、いつもより痛くなかった。次の日はいつもの倍、痛かったけど』

 と泣きそうになりながら笑うだけだった。


 わたしは、他の同年代の男の子と話したことがなかった。

 わたしは、九頭龍の屋敷の外に出たことがなかった。

 わたしが浮かべている笑みが本当に笑顔というものなのか、わからなかった。

 わたしには、どんなに頑張って痛みに耐えても、与えられるのは次の痛みだけだった。

 騎士だとか王子様だとかいわれてもよくわからなくて、ただ楽しそうに語る姉の眼を見て、声を聞いて、それが素晴らしいものに違いないと思っていた。

 わたしのことも、守って欲しかった。

 虚構に、わたしは救われていた。

 ……後から思えばなんて嫌味な女だ、クソ喰らえ。

 十歳ぐらいの頃、あの女はいつまで経っても家に閉じ込められて実験動物にされてばかりのわたしを馬鹿にするようになっていた。

 相変わらず騎士と姫の話をして、貴女は努力が足らないだの、私は今日も台風を一つ逸らしただの、功績を認められて次の頭領候補にも選ばれただの、減らず口を叩く。


 その頃にはわたしは自分の能力の本質を理解していた。

 体液が触れた対象の時間を巻き戻す〈修復〉だけでなく、時間を停止する〈保留〉と時間を早送りさせる〈加速〉も扱えると理解していた。でも、カテゴリーはゼロのままだった。


 頑張るだとか、認められたいだとか、そんなことはすでにどうでもよくなっていた。わたしの生きる目的はすでに、どうにか九頭龍の家とクソ姉に一矢報いることになっていた。でも、カテゴリーゼロのわたしが幾ら画策したところでどうにもならないのもわかっていたから、わたしはふとしたときに「死にたい」と呟くためだけに生きていた。

 クソ姉と違って、わたしは学校に行かせてもらえなかった。生きていくのに最低限必要な知識はすべて本で覚えた。娯楽の為の本は与えられず、知識を頭に叩き込むだけの読書は苦痛だった。寝ても覚めても実験尽くし、週に一度の休みは課されたノルマ分の知識を詰め込むことに終始する。

 月に二回くらい、実験室を兼ねる土蔵の中から九頭龍の屋敷に出て家族とご飯を食べることができる。でもやっぱり、今度の土日にどこどこで人工地震の実験を行うという情報が入っているだの台風に台風をぶつけただの、家族団欒というイメージとは程遠い、家族と言う奴に物騒なイメージがつく原因になった。家族団欒も王子様やお姫様と同じ、ファンタジーだと思っていた。梅雨の時期になると家の周りを囲む紫陽花のおかげで、夢見心地は加速したのだと思う。

 十六夜家、という話題が出るたびにクソ姉は目を輝かせていた。気持ち悪い笑顔だ。ああいう恍惚とした顔を女の顔というのだと軽蔑した。この幸せ者めとみじめな気持ちになって我先に夕飯を平らげて実験に戻る。実験台にされている方がまだマシだった。

 九頭龍家はわたしの血脈が精神性のもので、精神的に追い詰めることで真の能力が発揮されるものだと判断していた。わたしの母と同じように、わたしが能力を暴走させて死なないように、月に二回のお食事会を開いて精神安定を図っていたわけだ。

 どれだけ国を救えど、彼らには人の心というものがないのだと思った。


 ――はんっ。

 箱入り娘であり続けたわたしに人の心がどうとか言われるなんて、終わってるわね。


 十九歳にもなると、わたしは口の中に異物を入れられることも粘膜を弄られることにも舌を引っ張られることにも慣れていた。何をされるのかはだいたいわかっていた。痛みに反応することにも慣れてしまった。


 刃物を見れば涙が出る。

 けたたましい機械の音を聞けば身体が震える。

 血の匂いで酷い発汗と吐き気を催す。


 それだけの話だ。

 何をしても死なないのだから、弄る側だって好きなようにやる。

 だから、わたしも好きにすることにした。


 ある日の朝、わたしが手術台の上で目を覚ますとわたしの身体を弄る人たちの会話が聞こえてきた。大雑把にいうと〈十六夜家が大変なことになっているという話〉、わたしにとって重要だったのは〈迦楼羅は海外に行っているという話〉と〈長男の十六夜待雪が九頭龍と十六夜そのものを敵に回すかもしれないという話〉だった。

 実のところ、渡貫千鳥のいった通りなのだ。

 わたしは十六夜待雪という男を利用してやるつもりだった。

 でも、耳にタコができるほど聞かされた話が脳裏にこびりついて離れなくて、わたしはマツユキを兵士じゃなくて王子様ナイトにすることにした。


 自分の身体に繋がる無数の管を引き抜き、手術台を降りた。

 わたしはわたしの身体を〈加速〉した。


 外に出るのに裸では駄目だとわかっていたから姉の部屋から高校時代の制服である黒いセーラー服を拝借し、足の裏が擦り切れるのも構わずに森の中を駆け抜ける。運動不足の身体は何度も転んで色んなところを擦り剥いた。骨折した回数は十回を超えたあたりから覚えていない。

 痛かったけれど、血は出ていない。

 怖くない。

〈修復〉すれば済む話。

 能力を使えば使うほどのどが渇くと気づいたときには、口を大きく開けて手を受け皿にした。口にたくさん水が溜まったら飲み込み、受け皿にたくさん溜まったら飲み込み、受け皿に水が溜まるのを待つのが億劫になれば水溜まりの泥水も啜った。

 十六夜家の場所と行き方はきちんと知識として詰め込んでいた。

 に辿り着いたときの光景を、一生を忘れないだろう。天災が直撃する様を目の当たりにした。九頭龍家と大差ない屋敷が吹き飛び、何も残らない。毛髪が舞い、血と肉が飛び散り、骨の破片が転がる。

 嵐が去った後にはわたしと同じように、それでいてわたしよりも凄惨に身体の大部分を失ったモノが転がっていた。それはわたしが近づくとへらへら笑ったような気がした。

 酷い汗が出た。

 吐き気がした。

 あんなにも濃い血の匂いを嗅いだのは初めてだった。あんなにも凄まじいモノを、初めて見た。あんなにも美しいもの、知らなかった。全て、わたし自身で見慣れた苦手なもののはずなのに、導かれるように、わたしはそれに口付けをした。


 この感情の形を、わたしの死んだ心では理解できなかった。

 感動、というのが一番近い気がする。

 人生で二度目、同じ相手に心を動かされていた。


 ――この人は今にも死んでしまいそうなのに、死んだ方が楽になれるだろうに、生きようとしている。痛みがないから、死の実感さえないのかもしれないと思っていた。

 だけど、違った。

 彼は痛みさえ感じないから他人を守る為に他人を傷つけられる強い人なのだと知っていた。

 それも本当は正確ではなかった。

 この後の五年間でわたしは、彼が痛みがわからないからこそ他人の痛みを想像して胸を痛める優しい人なのだと知ることになる。

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