第20話 死に損なう才能

 マツユキのおかげで油汚れ一つないフローリングに頬ずりをして、暗くなる視界の代わりに耳を澄ます。

 何か、話している。

 もう片方のゴムの装飾に無線を仕込んでいたらしい。

「コードネーム【ライキリ】、目標達成。想定通り、九頭龍久遠は瞬殺。読み通り即死させれば能力は発動しないみたい。そっちは? はあ、寝てる? いや、信じる。信じるけどさ。はあ、全くアイツは、相変わらず気楽なもんね。じゃあひとまず動向を確認。足止めよろしく。ウチはこのあとちょっち学校いかないとだから。よろー」

 わたしは、クソ姉みたいに全てを嘲笑うような笑顔は浮かべられない。一人で画面を見てニヤニヤ笑えても、こんな状況でも笑えるような精神力は持ち合わせていない。マツユキみたいに強がって笑うこともできない。みんな、どうやって笑っているのだろう。さっきまでどうやって笑っていたんだっけ。

 怖くて涙が出る。あの頃と同じような痛み。死に至る暗闇。辛うじて生きていると教えてくれていた音が遠くなる。暗闇が深くなる。たった一人の友達はわたしを殺すためだけに近づいたのだと思うと死にたくなる。最期のときも独りだと思うと死にきれない。

 ――痛いのは、いや。

 怖いのも、いや。

 だから、死ぬのも、いや。

 いや!

 マツユキ?

 ねえ、マツユキ。

 ……マツユキ、どこ?

 わたしのナイトはどこにいるの?

 ねえ、お姉ちゃん――。

 そうしてわたしは渡貫千鳥に斬りかかった。

 右肩から左わき腹にかけて、白いワイシャツがぱっくり口を開いた。覘いた柔らかそうな肌から真っ赤な血が滲む。仰け反って振り向いた勢いで赤い斑点がフローリングに撒き散らされた。吐き気を飲み込んだ。やっぱり家事は苦手だ。血も刃物も苦手なわたしには治療も殺しも向いてない。

 目の前の女は両手を背中に回した。切断面を〈誘引〉し、応急処置が可能だったはずだ。

「あ、あっれれー、おっかしーなー。ウチがヤリ損ねるわけないんだけどなー」

 何を手にしているか、考えられない。

 ただ、これを振るえば相手を傷つけるということはわかる。

 傷つけると何が起こるか、想像できない。

 ただ、場合によっては死に至るということはわかる。

 強大な敵に挑むために必要なのは怖がらないこと。怖がらないためには、もっと怖いものを考えればいい。死ぬのは怖い。痛いのは怖い。刃物は怖い。血は怖い。お姉ちゃんは怖い。でも、一番怖いのはマツユキがいなくなってしまうことだ。

 睨み合ってなんかやらない。力も技もスピードも何一つ、わたしが彼女に勝てるとは思えない。だから手加減なんてしない。

「でも、最初の一撃でヤれなかったのはおっきーよ?」

 そういったときには、すでにわたしの頬に脚が伸びていた。さっき顔に触れたときの磁力がそのまま残っているのだろう。踏み込みのモーションも飛び上がるタメもない、音どころか隙の一つも見当たらない、異能の飛び膝蹴り。

 ゆっくりと味わうように、それを見た。これで決める、という強者の笑みと、これでまだ立ち上がってきたらどうしよう、という臆病者の匂いがした。

 一撃で殺せるだけの力がなくても、傷つくことができるなら人は痛みを覚えるし、痛みを覚えなくても人は死ぬ。そう考えたのが失敗だった。たしかに、一撃で決められなかったのは大きかったみたいだ。

 吐き気を押えながら、前に出る。頭が足に引っ張られるのが不快だった。

 雷に匹敵する蹴りがわたしの頬を穿つ。はずだった。

 その頃には、渡貫千鳥はフローリング上の血だまりに伏していた。

 両太ももと両二の腕の内側を大きく切り開かれて、点々と落ちたはずの血液が脈々と血だまりになっていく。今の顔はとてもマツユキには見せられない。もういっぱいいっぱい。手が震えて止まない。

 ここまでやっても、渡貫千鳥は傷を磁力の〈誘引〉で無理矢理塞いで立ち上がってきた。彼女は右手で自らの鼻を覆い、指の間から恨みがましい視線を向けている。どうやらわたしが上手いこと回避したおかげで空振りし、顔をフローリングに打ちつけたらしい。

「はかはかやるやない」

 なかなかやるじゃない、といいたいのだろう。関西圏の人間が聴いたら一言いってやりたいだろう関西弁が恥ずかしかったのか、渡貫千鳥は手の平で鼻血を拭うと、手を放した。止めどなく流れる鼻血は放っておくようだ。

「メイドへのおみやげに、いっこだけ聞かせて」

 わたしを睨みつけたまま、彼女はスカートの右ポケットから取り出したポケットティッシュを鼻に詰めた。なんだか気が抜けて、微かな吐き気だけが残ってしまった。

「なんで、ゆっきーと暮らしてんの?」

 今度は左ポケットから出した包帯を器用に切り傷に巻き付けていく。冥土の土産にするつもりはなさそうだ。それとも大真面目にメイドへの土産話のつもりなのか。

どうしてマツユキと暮らしているのか、あらためて問われると困ってしまう。今も粛々と応急処置が進んでいて早いところ片付けてしまわなければならないのに、その質問には真面目に答えなければいけないような気がしてしまう。

「五年前、同じ研究所おなけんだった九頭龍迦楼羅センパイならまだしも、どうして九頭龍久遠くーろんの方がゆっきーを手元に置いたのか、ずっと不思議だった。この五年間、ナニをしてたの? ウチの幼馴染をナニに利用するつもり? やっぱり、肉の壁にでもするつもりだった?」

 これは言い方が悪かった。

 肉の壁と聞くと、どうしても五年前を思い出してしまう。

 気持ち悪い。

 こんな言い方をしてしまえるコイツが、心の底から気持ち悪い。思わず、跳びかかっていた。

 応急処置は終わっている。

「できるわけないじゃない。わたしはアイツのこと――」

 アイツのこと、なんだっけ。

 わたしはアイツのことが。

 アイツのことを。

 手にしているものが包丁だったと思い出すより先に、渡貫千鳥は消えていた。いや、消えたのではない、跳んだのだ。気づけば背後を取られていた。

「へえ、それで別行動? アンタ、ホントはゆっきーに嫌われてるんじゃない?」

わたしは後ろを振り向くことができなかった。

 マツユキに対する後ろめたさがあったわけでも、自分の能力に絶対の自信があったわけでもない。ハッタリだとか強がり程度の軽口が、今のわたしには重かった。

 嫌われている、とまではいかないくても、好意百パーセントでマツユキがわたしなんかと一緒にいてくれているとは思えない。

 わたしは、人を幸せにできるような人生を歩んでこなかった。だから、マツユキを幸せにできている自信も同じ立場で二人一緒に幸せになる自信もなくて、命の恩人なんていう絶対的なポジションから偉そうに、でも――。

「……それでもマツユキはわたしと一緒にいてくれる! 幸せになんかなれなくていい、嫌われていたっていい、あいつが一緒にいてくれるなら、それでいい!」

「あっそ。じゃあ精々、寝取られないように気をつけることね。ばーい」

 らいきりこと渡貫千鳥はそう言い残して出ていった。

 玄関の扉が閉まる音が聞こえると、包丁を取り落としてしまった。脚から力が抜けて、キッチンでへたり込んでしまう。涙は出ない。こんなの泣くほどのことじゃないのだから当たり前だ。洗濯機からすごい音がした。わたしはまた、なにか失敗してしまったのかもしれない。

 涙は出ない。膝を抱えた。

 一人で戦っちゃダメ、なんて約束したのはわたしなのに、戦ってしまった。

 本当は王子様みたいに――白馬に乗っていなくてもいいから、迎えに来て欲しかった。ファンタジーのナイトみたいに守って欲しかった。でも、わたしは刃物の煌めきも血生臭さも大嫌いで、戦いだとか殺し合いだとかも苦手だった。

 それになによりマツユキに傷ついて欲しくなかった。

 とにかく、まずは、現状回復をしなくては。最低限、戦った痕跡は消さなくてはならない。わたしの失敗は、失敗するだけならマツユキなら許してくれるとわかっているから、甘えてしまう。嫌われてるんじゃない? なんて言われた後だと、それも文字通り甘えているだけで、本当はマツユキには嫌われていて、立場上仕方なく優しくしてくれているのかもしれない。まだ、死にたくはならない。だって、もうじきマツユキが帰ってくるはずだから。

 せめて、たくさん甘えよう。絶対優位の立場に縋るお姫様みたいに、十四歳当時のクソ姉のように傲慢なわたしのことが好きであることを願って、甘えよう。題して〈おかえりさない、パパ〉作戦。我ながら、安直過ぎて笑える。

 九頭龍血脈・劫刻クオンタムウォーター・クォータークォーツ

 わたしの体液は時間を操る異能を持つ。時間を巻き戻す〈修復〉、時間を止める〈保留〉、時間を早送りする〈加速〉。対象は、わたしの体液に触れたもの。例外は、能力の使用と同時にどこかに消えてしまう(おそらくエネルギーとして使っているのであろう)体液の〈修復〉すること。喉は渇くし、貧血になるし、燃費が悪いし、たぶん死ねない。

 未来永劫、死に損なうだけの血脈さいのう

 なにもできないわたしが唯一もっている才能なのに、欠点の多さ故にやはりクソ姉には敵わなかったのがいかにもわたしらしい。

 そうしてわたしは思い当たる戦いの痕を〈修復〉した。

 五年前のあの日もそうだった。雨のように号哭ごうこくすることしかできなかったわたしが一度だけ姉に勝てた。彼女は血液の流れを操って延命するのが精々だっただろう。わたしの唾液で、愛液で、血液で、涙で、マツユキの傷を〈修復〉したのだ。

 苦手なはずの血肉に嗚咽を繰り返しても、冷たい雨と泥水を啜りながらでも、マツユキのおかげで生きていてもいいことがあると思えた。死にたいなんて思えなくなった。延々と傷つきながら、死に損ないながら、いつかいいことがあるかもしれないと耐えいき続けた甲斐があったというものだ。

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