第16話 感度三〇〇〇倍、絶対不可侵領域。

 身体に衝撃が走る。

 背中に走るこの感覚は、背後が映像の映し出されているだけの壁であると教えてくれた。俺の歩幅であと一歩、執事の歩幅でもあと一歩と半分といったところか。

 仕留めたとでも言わんばかりの隙の大きい横薙ぎの蹴りが伸びてきた。左足は義足だったか。

 骨の一本や二本は覚悟の上だが、できるだけ消耗は避けたかった。久遠との約束は元より、久遠のいない俺は自分で気づかないまま死にかねない。

 足の裏側が当たるように、蹴りを入れる。

 蹴られた地面は砂利を巻き上げ、砂埃は目隠しになる。

 それに伴い、跳ぶ。人の一人くらい道具を用いずに飛び越えられる。

 背後を取られたことに気付いたときにはもう遅い。この脚力で駆け抜けて、一発きつい一撃を入れれば戦力を減らしてしまうから、きつい寸止めを喰らわせて生意気な自称妹にどちらが上かをわからせる。

 俺は背後を取れなかった。

 横薙ぎだった脚はそのまま向きを変えて、俺の右脚を捉えていた。天井を蹴る想定までしていたが、天井まで届くこともなく、想定よりも距離を取れずに着地した。

「覚えていない、ですか」

「ああ、俺はお前のことを行きつけの美容室の店員、程度にしか知らない」

 膝が顔に吐く高さまで持ち上げられたままの左脚、その爪先から革靴を裂いて血濡れの刀身が出ていた。着地と同時に押えた右脚のふくらはぎは切られていた。だが、失血死するほどじゃない。

「おかしいですね、嘘を吐いていない」

「さあ、どうかな。嘘を吐くのは苦手じゃないし、嘘かどうかなんてわかるもんかよ」

「わかりますよ。貴方の指先一つ、筋肉の動きまで見逃しません。呼吸音も心音も全部筒抜けです。ボクには全部、見えているし聞こえている。本当に貴方はボクのことを幸せ者だと思っているようですし、あえて手も足も出せないなんて言うのは強がりですし、貴方の能力が本当に〈痛みを感じない〉だけなのも嘘じゃないみたいですね。壁に追い込まれた貴方が地面を蹴るのは目線と脚の動きで、タイミングは呼吸音でわかりました」

 俺の全力の脚力で一歩、彼女の普通の歩幅で十歩分もないくらいの距離。であれば、

「次に貴方は、立ち上がる勢いを使って殴りかかろうとしている。そうですね?」

「残念外れ」

 直後、執事は壁に叩きつけられた。壁と背中が衝突する音と肺の空気が押し出され声になり損ねた音がして、何か破裂するような音が突風を伴って響いた。

 正確に言えば外れてはいなかった。半分は正解だったのだ。

 立ち上がり、拳を振るった。だが一歩の間合いを詰めることはしなかった。

 俺が呼吸を整え足腰を固めた上で遠心力、全体重、全身にかかる全ての負荷を限界まで込めた正拳突きは音速を超える。穿たれた虚空に存在する空気は波状に変質し、波は軌道上にある物体に伝わる。

 ソニックブーム。

 遠く離れた物体を破壊するまでは至らずとも、少女一人吹き飛ばすくらいは容易い。

 吹き飛ばしただけ、だったのだが。

 背中を強打したはずの執事は膝を着き、露出した腹部を押えて息を荒げていた。ひゅーひゅーと内臓の隙間を通り抜けた風の音が聞こえる。恨めし気に睨む目、口の端から零れる血の混ざった液体、腹部はタトゥーだけでなく、拳大の痣がついていた。

「ごめんよ。〈超感覚〉ってことがまさか〈痛覚も格段に向上してる〉ってことだとは思いもしなかったんだ」

 しかし、腐っても十六夜の血を引き渡貫に仕える執事。

 よろよろと立ち上がり、ワイシャツの袖で口の端を乱暴に拭った。

「いえいえ、このくらいはやってもらわないと困ります。でも、これでようやく確信が持てました。貴方はボクが殺すに値する相手だ」

「おいおい物騒だな。お前の雇い主も言ってただろう? 私情は止せってさ。それにもう十分だろう。俺は痛みがない代わりに、ちょっとした超人じみた真似ができて、死に易い。お前は痛みを強く感じる代わりに、未来予知ができて、死に難い。以上、おしまい」

 そうして4Aに戻ろうと気を抜いた瞬間だった。お互いにこれ以上のダメージを避けたかったというのもあるが、正直なところ、俺は怖かったのだと思う。

 この執事は間違いなく、俺を殺し得るだけの力を持っている。

 そう、鈍い直感が告げていた。

「おい、ボクを見ろよ。クソ兄貴」

「だから言ったはずだ。もうおしまいだって」

「……ええ、だから、これで最後です。本当は見せるつもりはなかったんですけど、仕方ない。これで全て、終わらせます」

 深呼吸しているのがわかった。両手を自らの腹直筋に添え、臍を横に広げるかのような構え。ただならぬ雰囲気に素人なりに構えたりもした、だが、

「――感度、三〇〇〇倍。絶対不可侵領域ヴァルハラヴァージンセイヴァー

 どっと汗が噴き出した。

 目は血走り、瞳孔は開き、見事な筋の入った腹筋がてらてらと輝いている。タトゥー周りの血管が隆起して黒かったはずのタトゥーは紫とピンクの中間のような色合いになっている。嘘っぽい笑顔は歪み、恍惚とした笑みと一緒に一筋の鼻血が零れた。

 身体が重くなったような気がするほどの重圧があった。

 執事の構えが変化した。どこかで見たことがある。内股のままで両手を前に突き出したそれは中国に伝わる死体妖怪であるところのキョンシーに似ている。そしてどうやら、こちらの構えは無駄だったらしい。

 身体が重くなったように感じたのは気のせいでも重圧などでもなかった。

 重力を操作する類の能力を疑った。〈超感覚〉と言ったのが事実だとして、如何に応用すればそんなことが出来るのか。だが、違う。執事の能力の応用でも、別の能力でもない。奥の手ですらない。若干の未来予知すら可能にするとはいえ超感覚は超感覚。

 こちらの瞬きを見て、呼吸音と心臓の音を聞いて、最も隙の重なった瞬間、認識の外側から攻撃を受けたのだ。本来なら十歩かかるだけの距離を、半歩踏み出すくらいの気軽さで、的確に盲点を突いてきた。失敗に気付くのはいつだって全てが終わった後だ。

 身体の至る所から何かが生えていた。

 いや、刺さっていた。

 右手の甲。

 右ひじ外側。

 右肩。

 左肩。

 左ひじ内側。

 左手の平。

 右ふくらはぎ外側。

 右太もも内側。

 鳩尾。

 視界が赤く染まる、額。

 九本のナイフが俺を貫いている。

「少し歪ですが十字架は用意しました。あとは貴方が祈るだけです。さようなら」

 突き刺さったナイフが落ちる。刃は赤く濡れていた。足元の血液は影と混ざって最早どこからの出血かわからない。どろりとしていて、身体が、堕ちる。

「……あっはは。こんなものですか。お兄さんの、

 ――……?

 何を言っているんだ、お前。

 お前は、お前が、戦いに固執していたんじゃないのか?

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