第7話 「のど、渇いた」

 まるで俺が応じることを知っていたかのような口ぶりで、機械を通しているとは思えないほど透明感のある声が応えた。スピーカーをオンにして月の代わりに久遠の目を見ると、もう喉まで出かかっているという表情をしていた。今必死に『死ね』を飲み込んでいるところだろう。死にたい、でないなら構わない。

「いえ、今カーテンは閉め切っているのでわからないですし、予報では降水確率は80パーセントだった気がしますが?」

「うふふふふふっ、久遠以外には相変わらずね。結構結構、私の気分の問題よ」

「それで、何の御用ですか? 迦楼羅かるらお嬢様」

「そうね。あんまりにも緊張感がないから電話しちゃった。数時間後には楽しい楽しい殺し合いが始まるって言うのに、私の愚妹ったら、待雪君とイチャイチャしているでしょう? 肉体年齢を十歳も縮めてかわい子ぶっちゃって」

「迦楼羅お嬢様、たとえ貴女でも、俺の直属の主人を悪く言われるとあまり良い気分ではありません。どうか、お控えください」

「あら、そう? 私の子になる?」

「申し訳ありません。俺の趣味は久遠なので。他に要件がないなら切りますが?」

「わかった、わかったわ。それじゃあ本題ね。久遠、私の愚妹。聞こえているわね。待雪君、すぴーかー? っていうのにしてくれてるわよね? さあ久遠、昨日待雪君に掃除して貰ったばかりの耳の穴でよく聞きなさい。私はこの殺し合いに参加する。だから貴女も参加しなさい。九頭龍家の長女として貴女を殺すことはできないけれど、殺し合いの参加者なら話は別。いいこと? 私は絶対に貴女を許さない。参加しなかったら例の件、待雪君にバラすから」

「それはっ、話が違う」

 迦楼羅がくすりと笑う様が目に浮かぶ。例の件と聞いて久遠を見たが、久遠は通話越しの迦楼羅に縋りつくように、必死にスマホを掴んでいて気が付く様子はない。

「だってぇ……私、待雪君が好きだもの。最悪、傷つけてでも一緒にいたいくらいには愛していると自負しているわ」

 うふふ、と楽し気な笑い声が聞こえる。

「それに私が参加するということは私が勝つと同義でしょう? 人外揃いの八叉やまたは入院中。戦争屋の四月朔日はおつむが弱そうだし。人外殺しの双葉は戦闘向きじゃない。つまり優勝候補は私と貴女の二人。ということは、貴女たちの処遇は私の自由。この意味、わかるわよね? 答えなさい。久遠」

 静寂。番組の合間の天気予報が一つの地域分の予報を終え、次の番組の予告が始まる。久遠は俺と目を合わせず、何も言わず、リビングに面したキッチンを睨みつけていた。

「答えないということは、何もしないで待雪君を手離す、ということよ?」

 久遠の唇の端が切れて、血が滲む。思わず手が出そうになるが、俺が動くよりも久遠自身が能力で治癒する方がずっと早い。

 顎から赤い雫が滴り落ちる頃には、久遠はあの時と同じ姿になっていた。

 まるで自分の優位性を示すように。

 しわ一つもない真っ白な額が――今や目の上で切り揃えられたような長さの前髪に隠されてしまったが――目線の高さまで伸びてきた。元より長かった後ろ髪の半分はソファの上に河川を作るようで、もう半分はソファの下に流れていった。淡い色のパジャマの皺が消え、身体のラインが浮き彫りになる。手の中にすっぽり収まるはずだった胸は今やボタンと生地をきしませて、軋ませても手のひらの中には収まりそうだが。すらりと伸びた足はいつの間にか俺の左太股に絡みついている。十四歳から十九歳の姿になって、久遠は座ったままに俺に身体を預けた。

 ふわり、と十四歳の姿と変わらない、綺麗な渦を描く小さなつむじが俺の顎を小突く。伸びた前髪を耳にかけ、色素の薄い唇が露わになり、伏し目の久遠と目が合った。恥ずかし気に頬を赤らめ、抱き着くようにして、俺の首を舐めた。ざらりとした感覚があった。のち、全身を快楽とも呼ぶべき柔らかさと温もり、そうして痛みが襲う。首筋から肩の辺りに激痛が走る。でも、辛くはない。申し訳なさそうにハの字を描く目と眉に向け、強がった。痛んだ場所には、見事な歯型が付いていた。

 そうして久遠は再び、キッチンを睨みつけた。

「ねえ、マツユキ。アンタの主人は誰かしら?」

 思惑を察し、口調を切り替える。

「そんなの決まってる。愛してるぜ。久遠」

 ちらりと俺を見る半開きの目は、もっとマシな言い回しはなかったのかと責めているようだった。嘘みたいな言い回しの方が俺らしくて信憑性があるだろう? と、ウィンクをしたら無視された。

「聞いての通りよ。わたしはこの関係を守る為なら何だってする。家族だって殺す」

「ふうん、私の代替品如きが、私に勝てるかしら? 治癒能力で? 面白いわね」

 雑音が混じる。迦楼羅のいっそ呆れたような吐息に、久遠は外連味たっぷりに笑っていた。あるいは、迦楼羅のそれは呆れどころか嘲りですらなく、怒りだったのだろう。と、他人事のように思う。久遠のそれはただの強がりだったようで小さく震えていた。身体が大きくなっても、根っこのところは変わらないということだろう。胸に縋る手を握ると震えが止まる。

「ええ、わたしにはマツユキがいるもの。手段は問わないなら、ジョーカーを切っても誰も文句は言えないわよね? 八叉だろうが四月朔日だろうがクソ姉だろうが全力で叩き潰す」

 くすり、と笑ったのが聞こえる。

「そう。楽しみね。ああ、凄く楽しみよ。私」

 その一言を最後に、通話が切れた。

「今から『ちょっと』殺し合いをやってもらいます」

 というのは、テレビから流れた台詞。

「マツユキ」

 というのは、久遠(十九歳の姿)の呼び声。彼女は抜け殻にでもなってしまったかのように俺の膝を枕にして仰向けになり、眩しそうに自らの瞼の上に手で当てがった。もう片方の腕はスマホと一緒に胸に抱いて、陰った瞳で俺を見上げている。物憂げな溜息が零れ落ちた黒髪を叩く。温かさは感じない。

「のど、渇いた」

直前までの威厳らしいものはなく、膝の裏と背中を支えると簡単に抱え上げられた。相変わらず軽いが、修復が容易であるとはいえ長くなった髪を傷つけないように気を張ってしまう。

「お客さん、どちらまで?」

「そこは『ご注文は?』じゃないの?」

 いつもより大人びた顔に、いつもと変わらない安心しきった笑顔が浮かぶ。

 胸に縋る手の震えも、目に見える限りでは止まっている。

 こんな時は特に、自分の無力さがもどかしい。

 綺麗な髪が痛まないように、つま先の爪が割れてしまわないように、綺麗な頭の形が変わってしまわないように、壊してしまわないように。丁重かつ最速でキッチンの内側に辿り着く。水場であるシンクを背に左腕で久遠を抱き、右手で冷蔵庫を開いた。

「ご注文は?」

 二人暮らしには過剰とも言えるシックスドアの冷蔵庫。中には買い置きのイチゴオレの(未開封)とイチゴオレ(開封済み)とオレンジジュースとアップルジュースとストレートティーの未開封の紙パックが一つずつ。さらにグリーンティーの二リットルのペットボトルが二つ、水と緑茶は合わせて二リットルはあるだろう。それと、明日の朝食用の食材と今晩の残り物が少々。久遠は握り締めていたスマホを胸ポケットに押し込み、迷うことなくイチゴオレ(未開封)を手に取った。

「いつもの」

「寝る前の歯磨きはちゃんとするように」

「わかってる」

 慣れた手つきで封を開き、久遠は自らの腕よりも大きい紙パックを両手で掴む。紙パックを逆さにする勢いで傾けると、喉を鳴らして中身を干していく。口の端からはパッケージと同じく色に濁った白い液体が零れていた。

 一息の間に未開封の大きな紙パック一本分を飲み干した久遠は十四歳程度のサイズにまで縮んでいた。余った袖を使って口の端を拭う所作は口の端を裂くような雄々しさで、見慣れた幼くも大人びた顔に、見慣れない表情を浮かべていた。

 複雑な感情を孕んだ物憂げな顔、と思うと見惚れてしまいそうになるが、少し違う。

 喜怒哀楽で言うのなら、喜と楽の成分が欠如してしまったような、瞳に宿る光が暗い顔。

 ルビーというより血のような赤い光を灯しているような。

 久遠は迦楼羅と話した後は大抵、こんな表情を浮かべる。

 何かを俺に隠し続けている、というのは正直なところ、問題ではない。問題なのは、俺が久遠への信頼を勝ち得られていないこと。信じ続けられると信じられていないこと。

 揺るがない表情で、久遠は口を開いた。

「わたし、頭領になる。だから、マツユキ」

 俺の返事を待つより先に、いや、俺の返事を聞く気などないのだろう。久遠は両手で俺の胸を押し――俺も抵抗することなく――フローリングの上にふわりと降り立った。

九頭龍分家ナンバーズ次期統領、九頭龍久遠が命じるわ」

 そうして久遠は、躊躇いなく俺を指差した。睨みつけるような瞳に迷いはない。

 ところで俺は既に跪いているため、久遠は俺の顔を指差すつもりが俺の顔の方から接近して掠めるものだから、指差す人差し指を微かに曲げてしまっていた。口調と裏腹に弱気な手を取って、今度は言葉を待つ。

「わたしと一緒に戦いなさい。わたしの隣にいる限り、あなたの命はわたしが保証する」

 どこか楽し気な口調に、笑い返した。

「『あなたがいないと生活もままならないから一緒に来てちょうだい』の間違いじゃないの?」

「何かいった?」

「仰せの通りに」

 そうして二人で、画面上の参加ボタンを押した。

 首筋の歯型は〈修復〉されていなかった。

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