まぼろしの影は戻りて

 秋晴れという言葉がここまでしっくりくる天気も無いだろう。爽やかな日差しと結構な冷え込みによる目覚めから始まった一日はこの上なく静穏で、祝日という臨時休暇を俺は存分に楽しむつもりだった。

 九月も残り僅かとなってから、思いついたように差し込まれる祝日だ。天文的に言えば秋分の日だが、祝日としても祖先への崇敬と死者への追慕のためと定義されている。市井においては秋の彼岸の中日に該当するものだ。彼岸という期間自体が冥土に渡った祖先亡魂を此岸この世において慰め敬うために設定されたものなのだから、この期間はご先祖さまの理屈で言えば、自由外出許可の下りた長期休暇のようなものだろう。ならば秋分の日がその休暇の中日なのだと仮定すれば、今日が行楽のピークとなるはずだ。俺はいつかの八月のあれこれを思い出して内心恐々としていたのだが、叔父の行状を見ていると、秋の彼岸はそれほど準備と様式にこだわるものではないらしい。お盆のように力の入ったもてなしをする必要も気も叔父にはないようで、朝にのそのそと起床して以来特段何がしかの用事を言いつけられるようなこともなく、爽やかな秋風の吹く晴天にも恵まれた好日は淡々と過ぎていった。

 手伝うような用事が無いとはいえ、流石に全く何も無いという訳ではない。仏壇に上げられた供物にいつもの箱膳に追加して種々の果物や菓子が追加されてそれなりに盛大になり、立派な包装の日本酒の瓶が置いてあった程度の気遣いはあったがそれ以上のあれこれ――餓鬼棚や行灯などの準備も無く、多少の手間の他はほぼ日常と変わるところのない、至って普通の休日としてのんびりと日中を過ごしたのだ。


 白米に白身魚もうかさめの唐揚げ、ぐだぐだになるまで煮られたほうれん草のお浸し、舞茸がばらばらと入った味噌汁。別段秋らしさや彼岸だからというような気負いも特別感も無い一般的な家庭の夕食を食べ終え、洗い物と風呂を済ませて居間に戻れば、時刻は九時を少し過ぎる頃だった。俺より先に風呂を済ませた叔父はいつもの席に座って特段面白くも無い居間のテレビを眺めていたのだろうが、いい加減つまらなさにうんざりしたのだろう。洗面所の入り口にぼんやりと立ったまま時計を眺めている俺をよそに、叔父が冷蔵庫からごろごろと四五本ほどの缶を抱えたかと思うと、そのままのそのそと洋間へと向かって行った。

 人のすることを詮索するのは行儀が悪いと育てられはしたが、この土地の夜に居間で独りでいるというのもホラー映画の導入場面のようにしか思えない。きっと恐ろしい目に遭うという確信めいた予感があって、俺は慌てて叔父の後を追う。

 居間から廊下を抜け、恐る恐る開けた洋間のドアを開ける。するとまず目に入ったのは、無闇に大きいソファの上に缶と自分を雑に乗せ、テレビのリモコンを片手にいつもの表情の薄い顔のまま、もう片方の手で封の空いた缶を掴んでいる叔父の姿だった。


「何を……何をしているのか、お聞きしてもいいですか」

「映画観ようとしてる。チャンネル契約してるからね、映画流しっぱなしもできるよ」

「何で洋間に来たんです」

「居間でも見られるけどね。ソファは洋間にしかないからなあ。寄っ掛かって自堕落に観たいんだよ」


 君も観るかいと雑に誘われて、俺は頷いてからソファの空いたところに座る。叔父はしばらく番組表を眺めていたかと思うとそのまま画面を切り換えて、ちまちまと音量を弄っていたかと思うと、満足したのかリモコンをぽんとソファの上に投げ出した。

 映画は僅か冒頭のあたりが過ぎたところのようで、妙に人相の悪い中年が薄暗い狭路で女を捕まえている絵面が唐突に突き付けられる。さすがに話の筋の予測もできずに一体何の映画だと呆然としている俺に、ぬっと横合いに缶が突きつけられた。


「俺呑めませんよ。未成年です」

「知ってるよ。それはりんごジュース」

「お盆の時と一緒じゃないですか」

「お盆の残りだよ」


 名産だから死ぬほどあるんだと言う叔父の手から缶をありがたく受け取り、ひんやりとした感触に少し指先を凍えさせながらプルタブを開ける。ちまちまと啜れば懐かしくも飲み慣れたりんごの甘さが舌に沁みて、祖父母が健在だった頃は日に何本飲まされたかと馬鹿なことを思い出した。

 叔父はこぶこぶと缶を傾けては、じっと画面に見入っている。画面では妙に綺麗な顔をした少年が雀荘らしき場所でタオルを被っていて、映り込んだお品書きの値段の古さから昭和の初期頃が舞台なんだろうかと、俺はようやく見当をつけた。


 祝日の夜をソファに埋もれ、酒を片手に映画を眺めて過ごす。特に実も無く見映えもしない平穏で凡庸な夜だ。秋分の日――秋の彼岸の集大成のような日だろうに、お盆のような儀礼も恐怖も何もなく、ゆるやかに秋の夜は更けていく。


「こんなんでいいんですか。お彼岸でしょう」

「お盆があったからね。彼岸はほら……交通安全週間みたいなあれだからさ、重要さが」

「交通安全週間」

「普段よりかは手厚くやるけど、お大尽扱いするほどじゃないぐらいの。何だろうね、お盆が全国大会なら彼岸は校区内大会みたいな」


 だからお酒もあまり飲まないよと言って、叔父は早くも二缶目の蓋をぱつんと開ける。そのまま喉を逸らして飲み切ってから、ふうと怠そうに息を吐いた。

 それ以上聞くべきことも見つからず、俺も叔父に倣って画面に意識を向ける。いやに薄暗くて煤けた映像は見たことも無いはずなのに懐かしいような感覚があって、憶えのない郷愁は何に対しての執着になるのだろうと微かな疑問が過る。真面目に考えようとして、すぐに余計なことに思考を巡らせてもろくなことにならないなと思い直す。思い出せないことも見つけられないものも、半端に何かを当てはめるくらいなら忘れていた方が幸せだろう。そう自分に言い聞かせて、俺は今度こそ真剣に映画を観ようと試みた。


※  ※  ※


 ラストシーンは白々とした朝日だった。

 主役らしい少年は透徹とした無表情のまま一夜の無惨の色濃く残る雀卓を見下ろして、そのまま黒画面に白文字という無骨なスタッフロールへと切り替わる。

 叔父は当然のように空け切った缶をサイドテーブル代わりの木机に林立させて、ソファに半分埋もれるようになりながらも喜怒哀楽の掴みにくい顔をきっちりと画面に向けて、欠伸一つ漏らさずに淡々と流れる出演者名を眺めている。

 見入っているのか飽きているのか傍目からは全く判断が付かないのだが、少なくとも目は開いている。眠っていないのならまだマシだと考えて、俺は鳥肌の立った腕で自身を抱く。


 中型サイズの薄型液晶テレビ。すぐ後ろには何の変哲もない壁と、生前祖父が私室として使っていた和室に繋がる襖がある。

 その襖に黒々と伸びる明らかに人型をした影を認めて、俺の心臓は先程からとんでもない脈打ち方をしているのだ。


 俺も叔父もソファに座って画面を眺めている。それなのにどうして襖に移る影があれほどに堂々と突っ立っているのか。そもそもあの位置に影を映そうとすればこの洋間のもう一つの出入り口――玄関と仏間に近い方だ――に立つ必要があるのだが、今日に限ってはそちらを使った覚えは全く無い。


 とっくに腰は抜けている。叫び声を上げる時機を逃してしまったので、どうやって反応するのが正しいのかが思いつけない。錯乱したような心臓の鼓動が無闇にうるさいけども立ち上がる気力すらない。少なくとも隣りに座った叔父が能面のような顔で映画をぼんやり眺めているので、この状況においても一人ではないという最低限の事実のおかげで、俺はまだ正気を保っている。

 疲労困憊して立てずにいる登山道で、得体のしれない材質の杖に縋っているような状況だ。登れども下れども、安全な場所に辿り着く保障はどこにも無い。安穏と平和な夜を過ごしていた筈なのにどうしていつの間にかこんな目に遭っているのだろうと泣き出したくなるのを堪えながら、とりあえずは敵意だけは無いことが確定している叔父に声を掛ける。


「叔父さん。どうしましょう」

「何が。君もうそろそろ寝た方がいいんじゃないのかい、それなりの時間だよ」

「そうではなく。影が、襖に」


 俺の言葉に怪訝そうに眉を顰めて、叔父は襖の方へと視線を向ける。うんと軽い驚愕の滲んだ声を上げる姿を見て、このひとは今まで気づいていなかったのだということが分かって目の眩むような気分になった。


「あの……どっちですか、俺振り返りたくないんですけど」

「何がだ」

「戸口のあたりにに立ってないと、あそこに影はできないじゃないですか。立ってますか」


 叔父がのそりとソファの手すりに寄り掛かり、伸び上がるようにして洋間のもう一つのドア――仏間側の方を振り返る。しばらく体勢を維持していたかと思うと、ずるりとまたテレビに向き直る。


「ドアは開いてるね。けど誰もいない。だから泥棒とかスクリームとかそういうのじゃない」

「余計なことを言わないでください。俺あっちから入った覚えありませんよ」

「私もない。まあ猫だって開けるんだから影だって開けるよ」


 頑張れば足でだって開けられるものといつにも増して適当なことを言いながら、叔父は少しだけうんざりしたように長く息をついた。


「明日金曜だろう。君は寝なさい」

「言われなくても寝たいですよ。眠くはあるんですよ俺だって」


 言って視線をテレビの横、未だ黒々と立ち続ける影へと向ける。最早傲然と言っていいほどに堂々としたその立ち姿は一向に薄れる気配は無く、映画を見始めたときと同じように一切揺るぐことなく映り込んでいる。


「あれの目の前を歩かなきゃいけないってほら……無茶ですよ。鎖の長さが分からない山羊の前を通るようなもんじゃないですか。踏まれますよ」

「山羊ってそんなに凶暴なの? 犬なら分かったけど、山羊は経験が無いんだよ」

「じゃあ犬でいいですよ。つまりそういうことですよ」


 噛まれたらどうするんですと訴えれば、叔父は俺の顔をじっと眺めたかと思うと、


「あれかい。道連れが欲しいとかそういうやつか」

「その表現止めましょうよ。俺がとんでもないひとでなしになるじゃないですか」

「それはあんまり思わないけどね。怖がりだとは思うけども」

「再三言ってますけど叔父さんたちがおかしいんですよ」


 普通の人ならこれくらい怯えますと主張するが、叔父はいつものように聞き流しているようだ。がさりと若白髪の多い癖に無駄に量の有る髪を掻き回してから、サイドテーブルからリモコンを手に取った。見れば黒木机の上には空き缶が整然と林立していて、無頓着なのか几帳面なのかよく分からない様相を呈していた。


「まだ十一時にもなってない……早寝も好きだからいいけどね。じゃあ君、戸締り一緒にやろうじゃないか」


 叔父がリモコンを向け、テレビの電源を消した。ぷつんと微かな音を立てて画面は真っ暗になる。


 途端に立ち尽くしていた影がばたばたばたと両手を羽ばたくように猛烈な勢いで上下させて、俺は息がうまく吸えずに擦れるような音を立てた。

 叔父は俺の方に一度視線を向けてからテレビの方へと向き直って、


「うん? ……俗じゃないか。俄然血縁らしいけども」


 一息笑うような吐息を漏らして、叔父は手にしたままだったリモコンをテレビへと向け直して電源を入れる。すぐに画面は輝き始め、また違う映画のオープニング――鬱蒼とした古城を背景にキャスト名が映し出されている――が浮かび上がった。

 影は先程の騒然とした動きが幻だったかのように、またしても威圧感すら感じられるほどの毅然とした立ち姿へと戻り、濃い影を和室の襖に投げ掛けている。


「――」

「映画がご所望みたいだね。消すとまたあれだろ」

「点けておきましょうよ。供養でしょう」

「方便が上手くなったね君も……まあね、無理矢理取り上げるのもむごい話だ」


 一室だけなら点けっぱなしでもいいだろうと言って、叔父はのろりとソファから立ち上がる。俺はここで置いていかれてはたまらないと気合を入れて両足を立ち上げて、勢い余ってふらつく。叔父はその様を隣りで眺めながら小さな笑い声を上げた。


「りんごジュースで酔いも回るか。場酔いとかする性質かい、君」

「酩酊どころじゃないでしょうよあんなもん。これ以上酷いこと言うと俺は泣きわめきますよ」

「そうしたら多分置いていくよ。泣く子は面倒だもの」

「知ってます。だから早く寝ましょう。部屋明け渡して歯磨いて戸締りして、寝ましょう」


 真面目なのに余裕がないものねと、叔父は空き缶を腕一杯に抱えながら愉快そうに笑う。俺は最早一刻も早くここから立ち去りたいばかりに、叔父のいつもながらにふざけた柄――おどろおどろしいバンドロゴと共に経文が書きつけてある――のTシャツの裾を思い切り掴んで、震え出しそうな足を無理矢理引き摺りながら、のそのそと出口へ向かう叔父に歩調を合わせようとする。


 影の前を横切った時、ふわりと自分の視界がかげったのが分かった。戸口に立つものが何なのかはともかくとして、この影はここに居るのだなと否応も無く痛感した。


 ほうほうのていで洋間を出て、板張りの廊下へと辿り着く。珍しく電灯が点いているせいで煌煌と眩しい有り様なのに、床は夜気に冷え切っている。秋の夜は深々と更け、微かに聞こえる虫の音がひどく耳につく。

 八月の熱気は疾うに失せ、うすら寒いような気温と状況のはずだ。それなのに首筋にも背中にも一面に汗を掻いていて、不快感に俺は唇を噛む。二階に着替えがあっただろうかと考えて、洗濯物が増えたことにほんの少し暗澹あんたんたる気分になった。

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