閑話・歌うひと

 鳥は鳴き蝉は騒ぎ、どこか遠くで犬の長々と鳴く声が響く、休日の爽やかな朝。八時に朝食を取り、細々とした食卓の片づけや洗い物を終えればすることもない。俺は一応居候の礼儀として家主の叔父に御用伺いをすれども、叔父はほんの少し眉を顰めてから、


「お昼にそうめん茹でてくれればいいよ。あとはハムとか切ろう」


 別に頼みたいことなんて殆どないものと半ば社会不適合者に足を突っ込んでいる癖に殊勝なことを言いながら、叔父は薬缶片手に数冊の本を抱いて、


「休みの日ぐらい好きなようにごろさらしなさい。若いだろ君」


 と言い捨てた。そうして年中自堕落な日々を送っている叔父は、半開きになっていた居間の扉を足で押し開けて、よろよろとした足取りで仏間に向かった。

 欲が無いのか興味が無いのか、恐らくは後者だろうとの予測はつく。それでも居候に対して怠けろと言いつけるような人間を俺はここで暮らすようになって初めて見た。少しでも気が利く人間なら、それでも言葉の裏を読んだり意を汲んだりして何かしらの仕事を見つけるのだろうけども、あいにく俺にはそこまでの器量がない。その上、わざわざ言われたことに逆らおうと試みるほどの反骨心を持てるような器でもない。度を越した怠け者でもないが、際立った働き者でも無い。以上のいい訳を経て、俺は全く以て指示に従順に、『好きなようにごろさら』を試みることにした。

 無闇に急な階段を登り、差し込む日に照らされてなお暖まらずにひやりとする廊下を過ぎて、あてがわれた――と言っても片付けて取り戻したというべきだろうか――八畳の自室に戻り、手始めに窓を開ける。すると清かな夏日と思ったよりも勢いのある風が吹きこんで、健全な夏そのものとでも言うべき景色に妙な感慨を抱いた。


 寝具も畳んで剥き出しになった畳の上。俺は叔父を真似て、ごろりと横たわってみる。い草の匂いと吹き込む風を認識した途端、無性に懐かしいような気分になる。蘇るのは、祖父母が存命で叔父が部屋をとんでもなく散らかし始める前――それなりに昔の記憶だ。長期休暇の帰省の度に俺たち家族にあてがわれるのはこの部屋で、良いことも悪いことも大体がこの部屋で起きていた覚えがある。

 例えばこの部屋で思い浮かぶ祖母についての記憶は、自分でもどう分類したものかまだよく分かっていない類のものだ。それなりに孫を可愛がるような真似をしていた祖母は、毎夜俺の枕元で寝物語をしてくれた。だがその内容に問題があって――父の名を付けたカブトムシが延々と世界名作劇場のようなひどい目に遭う話だったのだ。そんな話を連夜聞かされた素直で心優しかった俺は、トマトにトウモロコシ他数多の果樹が林立する裏庭でカブトムシの父を見つけるまで家に入れてもらえないという悪夢にうなされる羽目になったのだ。この記憶を振り返る度、あの人は自分の息子と孫に対して何をしたかったのかを考えるのだが、未だに納得のいく結論が出た試しがない。愛されていたのか憎まれていたのか、面白がっていただけなのか。昔は全く見当もつかなかったが、成長してから目の当たりにしてきた親族の連中の様々な傾向を見ると、どうもただの悪ふざけというのが正解だったような気もする。


 スマートフォンを片手に益体もない文字列を眺めながら、清々しい夏の日差しの中で、俺はなんとなく感傷的な気分になる。

 実直だった祖父は死んだ。強かだった祖母も死んだ。両親は相変わらず壮健で、俺は図体だけはのびのびと成長した。

 記憶から辿り着く現在を思い出しながら、俺はふと考える。

 胡乱うろんで適当で不穏な叔父。そういえばあの頃、叔父はどんな人だったかが上手く思い出せない。

 優しかったか。乱暴だったか。陽気だったか。冷酷だったか。幼少の記憶を手繰ろうと考えこむうちに、ゆっくりと瞼が閉じていく。


 夜更けに到着した玄関先で俺を出迎えてくれたのは誰だったか、革靴、封を切られていない煙草、五月の花見とお化け屋敷の帰りに熱を出した俺を指さして笑ったのは誰だったか、卵酒、差し出された手の平、線香の匂い、あの夜居心地悪そうに濡れ縁で缶ビールを啜っていたのは誰だったか、裏庭の青蛙、夏の日差し、蕎麦殻の枕、水たまり、影――傍らに立つ、あの


※   ※   ※


 どうも微睡んでいたらしい。びくりと体が跳ねたのをきっかけに、途絶えた意識がゆっくりと浮上する。開け放した窓からは相変わらず喧しい蝉の鳴き声と眩い夏の日が流れ込んでいて、充電の切れかけたスマートフォンを握ったまま畳の上に寝転がる俺を容赦なく照らしている。時折吹き抜ける風は意外なほどに涼しくて、汗の滲んだ喉がひやりと冷える感覚がいやに鮮烈だった。


 晴れ渡った窓の外、蝉の声や風の音その中に潜むようにして、網戸越しに裏庭から歌声が聞こえた。


 少し前に流行った、やたらと甘ったるい歌詞のポップス。洗濯物を干してでもいるのだろう。あのひとは怠け者の癖に、何故か少しでも日が出ていれば洗濯物を外に干そうとするのだ。慌てて起き上がり、駆け寄った窓から下を覗けば、広々とした裏庭を背景に物干竿とその傍らにシーツを手にして立つ叔父の姿が見えた。居候の分際で家主にそういう真似をさせてはいけないと思い立ち、俺は慌てて階段を下る。


「叔父さん、洗濯干すんなら俺やりますよ」

「じゃあこのクッション持ってってくれるか」


 階段を駆け下りた勢いでどんと足を着いた廊下は、真夏の昼間でもひんやりと冷たい。後ろから掛けられた声は紛れもなく叔父の声で、手すりから片腕を離せないまま首だけ声のした方を向けようと恐る恐る振り返る。

 不思議そうな顔をした叔父が、仏間から数歩踏み出して、こちらを向いて突っ立っていた。


「今、外で歌ってました?」

「いいや。仏間のクッションも干そうと思って戻ってた」

「外には居たんですか」

「十分くらい前にはいたよ。カゴ置いてから思いついて私だけ戻ってきた」


 今裏庭にいるのは洗濯物だけだよと言って、叔父は両手にクッションを掴んだまま掲げてみせる。いつも叔父が仏間で転がっている時に枕替わりに使っている代物だ。

 このちゃらんぽらんは仏間から出てきた。この家の構造として、裏庭にある物干竿の位置から仏間に戻ろうとすると家の外周を一回りして玄関から入るか、裏庭に直通する勝手口から居間を通って向かうしかない。どちらの手段を取ってもそう掛る時間は変わらないが、片肺の無い叔父がのろのろと進んだとしても所要時間が五分を超えることはないだろう。


「仏間でごそごそしてたらいきなりすごい足音だもの。いけないよ君、あんな速度で駆け降りたら転ぶよ」


 俺が裏庭でシーツを干す人影を見てから階段を駆け降りきるまで、そう時間はかかっていない。その時点で最早叔父の申告と矛盾が出る――このひとが仏間で俺の足音を聞いたというのなら、俺の足がどれほど遅かろうが自室から階下に到るまでに十分かからないと断言できる以上、俺が見た裏庭には洗濯物だけがあった筈なのだ。


 機嫌の良さそうな歌声を響かせながらシーツを干していたあれは、一体何だったというのだ。


「仏間の――仏間の窓とか乗り越えましたか。それなら一分ぐらいで出入りが済みますよね。叔父さんの時間感覚のせいにすれば何とかなりますよね」

「確かにそこなら最短距離だけどね……そこまで適当には生きてないなあ。そもそも私にそんなゾンビみたいな真似ができると思うのか。普通に裏口から入って仏間に行ったよ」

「歌ってはいないんですね」

「外で堂々と歌うほど私は歌唱力に自信が無いよ。たまねぎ炒める時ぐらいだよ歌うの」


 君何を見たんだいと真正面から言われて、俺は途方に暮れる。今回は二択ですらない。今のところ叔父が嘘を言っていないのならば、俺の見たあれは『他所の家の洗濯物を干しながら流行歌を熱唱する不審者』だというのが一番可能性のあるところだ。それが嫌なら何がしかの怪しげなものになるのだろうけども、これ以上に怪しげなものにする必要があるかどうかを躊躇するくらいには情報が煩雑だ。人間でもそれ以外でも。どちらであってもどうしようもない。

 叔父は黙り込んでしまった俺を少しだけ哀れむような眼で見て、


「とりあえずこれ持って仏間にいなさい」


 それだけ言ってクッションを押し付けると、そのまますたすたと居間の方へ歩いて行ってしまった。

 洗濯物を干す手伝いをしなければならないのは重々承知だ。それでも流石に直前まで妙なものがいたであろう現場に行くのは恐ろしい。叔父がそこまで慮ってくれたかどうかは不明ではあるが、押し付けられたクッションを抱えたまま指示通りに仏間へと向かう。仏間の大窓はいつものように網戸になっていて、青々と雑草の伸びた裏庭が良く見えた。


「ねえ。網戸をどけてくれないか」


 声と共にぬっと大窓から見慣れた叔父の顔が覗いて、俺は殆ど転ぶようにして後ずさる。叔父はさして驚いた様子もないまま、無造作に網戸をばしりと叩いてみせた。


「クッションを寄越しなさい。日干しするんだ」

「何にもいませんか」

「このタイミングでそれを聞いてどうする。言っておくけどね、そうだとしたら君の今の状況は殆ど正太郎だからな。私が磯良さんじゃない保証がどこにあると思っているんだ」

「あんた手伝ってほしいのか通報されたいのかどっちなんですか」

「だからクッションを寄越せって言ってるんだよ。君は別に要らない」


 そんなに怖いんなら開ける前に確かめればいいだろと言って、叔父は腕を組んでこちらを見ている。恐る恐る近寄れば、裏庭の右端の方に年季の入った物干竿と洗濯カゴが見えた。


 物干竿に干されたシーツは夏の風を受けて、ばたばたと吊るされた鳥のようにはためいていた。


「あれ干したのは私じゃないよ。私が戻ったら干してあった」


 網戸越しに言う叔父の言葉はいつものように淡々として、恐れも警戒の色もない。みんみんと鳴く蝉の声が騒々しいばかりで、明るい裏庭には見事に干されたシーツが翻るばかりだ。


「シーツ干していったんですかあれは」

「そうだね。時間があったらカゴも空にしてくれたかもしれない」

「何だったんですかあれは」

「シーツを干してくれた何か」


 だからいい加減にクッションを渡しなさいと言う叔父の声に珍しい苛立ちが浮かんでいて、俺は慌てて網戸を開ける。怪しいものは影も形もなく、窓の外には叔父がぼんやりと突っ立って頭を掻いている。

 直に見る裏庭は朝の日差しに眩しく茂り、清冽な夏の気配に満ちている。

 不意に強い風が吹く。物干し台はがたんと軋み、何かの印のように白々とシーツがふわりと揺れた。


※   ※   ※


「ここの裏庭は何かあるんですか」

「井戸と物干し台。あとはみんな跡地だよ。覚えてるだろ畑だったの」


 忘れるものか。泣きながら父を探す悪夢の舞台だったのだ。わらわらと実っていたとうもろこしもトマトも胡瓜も、あの鮮やかな色彩の繁茂、その何もかもを俺はまざまざと覚えている。

 向かい合って麦茶を飲みながら、叔父は少しだけ長く息を吐いた。


「家庭菜園にしては豪勢な方だった覚えがありますけどね。何も無いじゃないですか、今」

「爺ちゃんが亡くなった時点で果樹の類は伐ってしまったからなあ。あとは婆ちゃんの趣味だったし……私に維持できる甲斐性が無かったのもあるけどね」


 勿体無いことをしたよと口先だけは済まなそうに言って、叔父はがりがりと氷を噛む。瞬く間に空になったグラスにお代わりを注ぎながら、俺の方へと視線を向ける。俺はその視線を正面から見返しながら、麦茶の入ったグラスをべたりと握る。


「……それだけですか。何か埋まってたりしませんか」

「何だその雑な疑問。乳歯なら幾つか埋まってるんじゃないか。私と兄さんは蒔いたような覚えがある」

「何ですかその奇習」

「いやこれは一般的な風習じゃないか。聞いたことない? 下の歯は屋根上に、上の歯は床下に。するとねずみの歯が生える」

「ご利益はあったんですか」

「兄さんは親知らずが全部生えたよ。私は八重歯が生えたよ」


 立派な加護だろうと言って、叔父が珍しくにっと口角を吊り上げる。なるほど口端から覗く八重歯は白々として、獣じみて立派ですらある。これは加護というより祟りなんじゃないだろうかと思ったが黙っておくことにした。


「因縁があったら満足するのかい」

「満足というか……原因が分かれば解決策があるじゃないですか、普通は」

「そりゃ数学とか物理とかはね。現世はもう少しややこしいから、そう単純にいかないんだ」

「灼けた炭を掴むと火傷をするんですから、炭鋏を使うんでしょう。素手で掴むと焼けるのなら、焼けない鋏に掴ませればいい」

「対処できるのは手段だろ。厄介なのは動機だよ。『炭が綺麗だった』って理由で手を伸ばすやつは止めようがないだろ。素手で掴むことに意味があるんだから、道具を用意したって使いやしない」


 本能と欲求は面倒ごとばっかりだと人ごとのように言って、叔父は氷を取りに冷蔵庫へ向かう。ざらざらと製氷皿を漁るその背中に、俺は重ねて疑問を投げる。


「……何でそんな危ないことをするんですか。馬鹿じゃあないですか、それは」

「言ったな? 兄さんに怒られるぞ、君」

「は」

「炭火が綺麗だったんだって。曾祖父の家で遊んでたとき、囲炉裏に手突っ込んで右手焼いたのが君の父さん。野口英世とお揃いだよ」


 今までにない文脈で出てきた偉人の名前に唖然としながら、俺は父の右手がどうなっていたかを思い出そうとする。少なくともPCのキーボードを叩く指先に不足は無かったし、異様に綺麗に焼き魚を解体する箸捌きの指は短かったが数は揃っていたと思う。


「綺麗に治ってますよ父さん。ギター弾くじゃないですかあのひと」

「キーボードもやるだろ。だって医者に行ったもの。この辺の火傷はみんな火傷の医者様に行くんだ」

「凄腕なんですか」

「火傷をしないようにはできないけどね。できた火傷は綺麗に治してくれるよ。そっちの方がほら――建設的だろう。前向きで人間的だ」


 予防ができないのなら治療をすればいいんだと嘯いて、叔父はまたがりがりと氷を噛み砕く。このひとは一体何のために氷を麦茶に入れるのかを分かっているのだろうかと不安になりながら、俺は叔父の見事に揃った歯を眺めた。


「……さっきのも似たようなものなんですかね。やりたかっただけなんですかね」

「どれが主目的かは分からないけどね。干したかったのか、歌いたかったのか、歌いながら干したかったのか」

「どれだって嫌ですよ。人の家の洗濯物に手を出すのはいけないでしょうに」

「正論だ。ただほら、仕方ないだろ。お互い行き遭っただけだもの。とりあえず致命傷にならなかったことを喜んで、干し終わったらきちんと取り込もう」


 それでおおよそおしまいだと言って、叔父は麦茶を一息に飲む。存外に冷えていたのか顔を顰めながら、俺に向かって宥めるように笑ってみせた。

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