佇むもの

「それでお前どうしたいの。言っとくけど今の時期ってろくな物件ないぞ。あとそこより安くつくところはほとんどないぞ」

「そんな話はしてないよ、父さん。ただ俺は『とんでもない目に遭いそうだった』ってことを報告してるんだ」

「『遭いそうだった』んだろ?遭ってないんだろ?」

「遭ってたら俺は電話も出来なかったんだよ父さん。どうしてそう人を問い詰めるのさ」

「だってお前論点が分からないんだもの。お前だからどうしたいの?」

「どうすべきかを聞きたいんだよ、父さん」

「そんなの最初から変わってないだろ。お前家片付けてお盆の手伝いしてきなさい」


 どうしてお前は要点と論点をちゃんと絞れないんだと馬鹿にしきった声が聞こえて、それきり唐突に通話が切られた。

 父に対して電話をすると、大抵いつもこうなる。いつもの事だと諦めてはいるが、それでも多少は辛いような気分になることもある。恐らく今もそうだろう。

 骨董品のような黒電話の受話器を掴んだまま途方にくれていると、部屋の扉が開いて叔父が顔を出した。


「どうしたの。とても貧乏な顔」

「それは多分辛気臭いって言った方が適切なんじゃないですかね。改めますけど」

「じゃあそれでいいや。だからどうしたの。別れ話?」


 人は上手く捨てないとスプレー缶より面倒だよと珍しく親身な言葉を投げ掛けられて、俺は僅かに安堵する。慣れているとはいえ実父の論理的な罵倒の後に理不尽な事を重ねられたら、俺はこんどこそ本当にどうしていいか分からなくなってしまうだろう。

 そもそも俺がここに来たのは、大学入学の新生活と共に住み始めたマンションが上階の住人のせいで事故物件になってしまったのが理由であり、当面の住居の確保のついでに厄介者の叔父の監視でもしていなさいと用意された手土産を持たされてこの家に来たのが一昨日の夜のことだ。別段父からの命令に対しては、俺としても快適で自由な曰く付き物件で一人暮らしをするよりは、日常生活が下手だけれども生きた人間である叔父と同居した方が恐ろしいことはないと納得のいく理屈が自分の中で立てられた為に特に不服はない。だからといって初日からいきなり訳の分からないことに遭遇しかける羽目になるというのはどうにも刺激が過剰に過ぎるんじゃないのかという気はする。

 そんな何やかやについて助言を貰おうとして発令者である父に電話を掛けた結果が先ほどの有様であり、その罵倒の内容から考えるとつまるところ現状すべきことは一つとして変わらず、俺はこの何だかよく分らない人がよく分りたくもないものを突き付けてくるこのだだ広い家で、とりあえずは目前に迫ったお盆までの雑事を手伝うべきなのだ。

 自分の中でそう整理を付けてから、大丈夫です解決しましたと叔父に告げる。叔父はさしたる興味もなさそうに適当な相槌を打ってから、


「じゃあ居間においで。二時だからお茶にしよう」


 ついでにお使いを頼むよと力の抜けた口調で言って、そのまま扉を開け放して出て行った。


※  ※  ※


 水饅頭は夏の菓子だ。見た目も味も温度も、正しく夏に愛で食べるべきものだ。俺は基本的にこしあんが好みだが、こと水饅頭に限っては本体が餡ではなく皮にあると思っているので普段ほどつぶあんだからと言ってがっかりすることもない。匙で裂いて食べた後に舌に残る甘みをよく冷えた麦茶で押し流して一息に呑み込むのが、俺が一番好きな食べ方だ。

 その水饅頭をわざわざ小鍋で良く沸かした緑茶をお供にもそもそと食べながら、叔父は苔色の財布を俺の目の前に差し出した。


「花買ってきなさい。お盆だからね」

「どこで買えばいいんですか。ミエルじゃ花売ってないじゃないですか」


 俺が最寄りのスーパーの名を挙げると、そこには後でご飯を買いに行こうと課題が追加された。叔父は少し考え込んでから、


「家出て右行ってまっすぐ行くと、こう……怖いお店があるだろ」

「西藤商店の事ですか」


 俺が小さい時からある、営業しているのかいないのか分からない個人商店だ。軒先に吊るされた錆びきったたばこの看板が小さい頃は非常に恐ろしかったのを未だに覚えている。


「そのサイトウ商店の信号で、左に曲がるんだ。そんでそのまま道なりに行くと、田場根花屋ってのがあるから、そこでカスミソウをそれなりに買ってきなさい」

「カスミソウだけでいいんですか」

「裏庭に色々あるからね。それも飾るよ」


 百合がとてもよく咲いたからねと満足げに頷く叔父を横目に、俺は居間の窓から外を見る。花壇には白々とした花弁を晴れやかに咲かせた百合がびっしりとその一面を埋め尽くしていて、傍らに植えられた椿が怯えているようにさえ見えた。あの庭に植えられた植物は異様な繁茂か奇怪な荒廃のどちらかという極端な成長を見せるのだと、いつか同じように群になった鈴蘭を丁寧に毟りながら祖父がぼやいていたのを思い出した。

 叔父から財布と紙袋を受け取って、もう一度適当に道順を聞く。最も迷っても自宅に戻ってくれば良いだけなので、そんなに気を付けることでもない。今は夏なのだから、迷った挙句に雪に埋まって死ぬようなことがあり得ないのだから楽なものだ。

 そんな見通しを以て適当に叔父の話を聞き流していると、やはりこちらのことなど気にかけてもいない叔父がそういえばと独り言のような口調で呟いて、見上げるようにこちらを見た。


「多分途中の歩道橋のとこの信号で大きい女の人に会うから、ええと――君結婚してなくてもいいけど子供はいるか」


 しれっとした口調で妙なことを聞かれて、俺は動揺しながら答える。


「いません。そもそも彼女がいません」

「隠し子は身のためにならないよ」


 この人はどうして俺が嘘をついているという前提で話をするのだろう。話の飛躍に置いて行かれながら、とりあえず本当のことを重ねて告白する。


「本当です。だって俺は大学生です」

「その返答はあんまり適切とは言えないんだけどまあいないんならそれでいいよ。じゃあその女の人に何か言われても『ユキコさんに聞いてください』って言いなさい」

「何ですかそれ。何でですかそれ」

「居たらでいいから。多分居るけど。天気良いしね」


 あまりの事に抱いた疑問がまとめ切れず、俺は叔父の能面じみた顔を眺めながら沈黙する。叔父はそんな俺の様子を気にした風も無く、じゃあ気を付けて行ってらっしゃいといつもの気怠い口調で言って、叔父はやかんを片手にすたすたと開け放しの扉から居間を抜け、そのまま二階へと上がっていった。


※   ※   ※


 北国だからと言って、夏が涼しい訳でもない。よく晴れた日の午後にもなれば、大体三十度はあっさり越える。おまけに湿度に富むものだから、およそ蒸籠で蒸される海老餃子のような気分になってくる。冬が寒くて夏が暑い、おまけに春と秋が短い上に結局寒いとくれば、結局ここは人が住むのに向いていないんじゃないかという身もふたもない結論に達してしまう。

 そんな馬鹿なことを考えながら、黙々と歩道を歩く。それなりに大きな国道であるので朝と夕方のいわゆる通勤時間帯には随分な量の車が走っているのだが、その時間を過ぎてしまえば農家の爺さんが自転車で車道のど真ん中を快走できるくらいには空いている。その上今日のような猛暑でもあれば、わざわざ炎天下を生身で移動するような馬鹿もいない。

 がらんどうの道路と、剥げかけた横断歩道。止まれの看板からは燦々とした夏の日射しに焼かれた影が乾いた歩道に貼り付くように伸びて、じゃらじゃらと蝉の声が降り注ぐ。見上げる空は底抜けに青く、太陽は獰猛に白く、伸びる道はどこまでも黒い。

 じりじりと午後の日射しに焙られながら、俺はひたすらに足を進める。晴れ晴れと明るい午後の町を、人にも車にもすれ違わずに歩いていると、自分がいつか見た外国の画家が描いた絵の中に紛れ込んだのではないかと不遜なことを思い付いた。人間は暗がりにも異形と異界を視るが、全き昼の光でさえそれらを駆逐するものでは無いことをあの絵は教えてくれるのだろう。

 そんな夢想じみたことを考えながら歩いているうちに、錆びたたばこの看板――西藤商店に辿り着く。教えられた通りに道を渡ろうと向きを変えれば、真直ぐな道がどこまでも伸びていて、遠くに歩道橋と電信柱が並んで立っているのが見えた。

 あの道をただ真直ぐに行けば花屋がある。そこで花を買って、今度は道の反対側を――日陰を選んで歩いて帰ろう。歩行者は右側歩行だという暗黙の了解を律儀に守らないと心地が悪いという馬鹿な癖のせいで、俺は向かいの蔵や廃屋が道に落とす影を恨めしく思いながら歩いているのだ。そんなことを念じながら、俺は黙々と歩を進める。確実に歩道橋は視界に迫り、ところどころ剥げた青い塗料の痘痕さえも視認できるようになっていく。

 そうして歩道橋に貼られた標識の地名が読めるくらいまで近づいて、俺はぎくりとして足を止める。近づくときに薄々そうじゃないかとは思っていたけれど、そうとは思いたくなかったのだ。けれどここまで良く見えるようになってしまうと、気のせいや見間違えで済ませるにはどうにも俺には無茶だと観念する。

 石膏のように白い肌に、何より目を惹く紅い唇。薄い緑のワンピース。真直ぐに伸びた足に、淡い水色のサンダル。髪は短く、緩やかにうねっている。


 女だ。それが歩道橋の傍らに、人を待つように立っている。それだけならただの通行人で済むけれど、どう見直しても彼女は歩道橋の八割くらいの背丈が有る。

つまり叔父は嘘も理不尽も適当も言っていなかったのだと、俺は納得する。


 だからと言って買い物を諦める訳にもいかないので、俺はそのまま歩き始める。ただ、横断歩道を渡るのは諦めた。右側歩行を守るためには、どうしても一度は信号待ちをする必要がある。叔父は身の危険があるとは言っていなかったが、この得体のしれない女の前で長い間立ち止まるのには抵抗がある。歩道橋を使えば、少なくとも歩き続けることができる。そう考えて、俺はふわふわと感覚さえおぼつかなくなり始めた足で歩道橋に――女に向かって近づいていく。

 女のサンダルに小さい花飾りが施されているのが見えた辺りで、視線がこちらを向いたのが直に見ずとも分かった。流石に見上げる気にはならず、俺はいままでと同じ歩調で歩き続ける。

 階段を登ったところで、女がふうと息を吐いたのが聞こえる。びくりとして手すりに縋ると、高欄の隙間から覗く目と視線が合った。皿のように大きな黒い瞳は艶々と午後の光に濡れて、墓石のようだと思った。


「赤ゲットでねばまいねってばさま言うのさ。したってうちのこないだミキヒコさん持ってってまったはんで、おめさん持ってらんだば貸してけねか」


 大きな目が拝むように細くなって、澄んだ声がした。叔父の言った通りだった。この女は、俺に問いかけてきた。


「ユキコさんに聞いてください」


 答えた声が自分の声ではないように平たくなっていて、俺は怯えているのだということを改めて認識する。へたり込みそうになりながら、それでも止まった方がきっと恐ろしいことになるのだと言い聞かせて、感覚の鈍くなった足を持ち上げる。


「どうしても無理だか」

「ユキコさんに聞いてください」


 そういえば女の足元には影がなかった。この大きさならいい日陰になったのに、と少しばかり悔しいような気分になる。


「すぐに返すはんで、ね?なんもひと月もかからないから」

「ユキコさんに聞いてください」


 階段が終わって、歩道を歩く。相変わらず女の目は格子の隙間からこちらを見ていて、ときどきその目が俺より先に進んでいく。その時に見える後ろ頭から白い蛇のようなものが悠然と伸びていて、ああ首が伸びているんだと思い当たった。


「したってばさま言えば聞かないんだもの。赤くねばまいね、赤いゲットでねば意味ないって言うのさ」

「ユキコさんに聞いてください」


 白く塗り込められた肌に、黒い目とけばけばしい睫毛が不穏なほどに映えている。ふと目元に泣き黒子が有るのに気付いて、この人はこれを隠そうとしてこんな塗り方をしているんだろうかと考える。


「悪いと思うけんど後生だから」

「ユキコさんに聞いてください」

「ばさまが死んだら返すはんで」

「ユキコさんに聞いてください」


 下り階段に辿り着いた途端、問いかけが途絶えた。ここまでは伸びないんだな、と膝の曲げ伸ばしが上手くいかずにぎくぎくとする足を階段に押しつけて転げ落ちるようにしながらもどうにか降り切る。懐かしの地面に足を着けてから振り返れば、歩道橋の入り口に置いてきぼりにされている体の薄緑の襟首からまだ長々とした首がうねっているのが見えた。それなりに伸びた分、きっと戻るのに手間がかかるのだろうとふざけて解いた毛糸玉を巻きなおした時の事を思い出した。

 とりあえず首が戻り切れば、今度こそ格子も無しに目を合わせることになる。それだけはとても嫌だと考えて、俺はすぐさま背を向けて、今度こそ花屋に向かって歩き始めた。


※  ※  ※


 何でこんなに遅くなったのとぶちぶちと百合を毟るように摘みながら、叔父はこの炎天下の中で汗一つ掻いていない真白い顔をこちらに向けて不思議そうな目で見上げた。


「迷うような道でもないだろう。行きと同じ道を帰ればいいんだ。往復ってそういう意味だもの」

「あんな恐ろしいものを見た道をもう一度戻れっていうのはむごいと思わないんですか」


 結局もう一度あの女に会うのが嫌で回り道をした結果、田んぼと病院ぐらいしか目印のない田舎道にまんまと迷って、行きの倍以上の時間をかけて帰宅したのだ。ぐったりして帰って来た甥に気付いた叔父は雑草を処理するように百合を摘みながら、あの花壇から俺を呼びつけて問い詰めたのだ。


「だって避け方教えたろう。対処法の分かったものをどうして怖がる必要があるの」


 君は学問に向いていないねと哀れむような声音で言って、叔父はもう一輪百合を毟る。この人は手付きは確かに丁寧なのに、何故かその動作の雰囲気が凶暴に見えるのが不思議だと思う。


「大きい人って言ったじゃないですか」

「大きかったろ。昔はもっと大きかったらしいぞ」

「今だって大きいじゃないですか。しかも首が伸びるなんて聞いてません」

「別に大事なことでもないだろう。ちゃんと言われた通りに言ったんだろ」

「ユキコさんって誰ですか。あと赤ゲットって何ですか」

「赤ゲットって毛布のことだよ。赤毛布。年寄り連中の世代の言葉じゃないかな。ユキコさんは知らない」


 知らないってなんですかと問い詰めればだって知らないものと言って、ぎっと目玉が明らかにこちらの方を向く。黒々とした虹彩の色に何かの面影を見たような気がして、俺は僅かに視線をずらす。

 そんな俺の様子など気にすることも無く、叔父はぶつぶつと続けざまに百合を摘み取る。


「私だって聞いただけだからね、そういうのがいるからそう答えればいいって。対処法以上のことにはあんまり興味が無いんだよ。君だってコボレダジャーのヒコピカラが何だか分からないだろう」

「何で分からないものの説明に分からないものを使うんですか。きりがないじゃないですか」


 コボレダジャーは祖母に聞いた昔話に出てきた、雨の夜に出歩く何だかよく分らないものの名前だ。特段の因縁も因果もこれにはなく、ただ雨の夜に妙な文句を騒ぎながら通り過ぎていくのだという。その正体が祖母に聞いても本を調べても何だか分からなくて、小さい時には大変恐ろしかった。今では声がしても表に出なければひどい目には合わないという結論を持つことができたので、雨の降る夜でもよく眠れるようになった。


「君はあれか、こう――由来とか因縁とか起源とか縁起とか、そういうのが好きなのか」

「好きというか、素性が分からないものは嫌じゃありませんか」

「全然」


 そういえばこの人は蔵の掃除に前科持ちを平気で使っていたなと思い出して、その時点でこの質問にはあまり意味がないということに気付いた。それこそ先程本人が言っていたように、何か常識的あるいは物理的に信じがたい物事があったとしても、それに対して『対処法以上のことには興味が無い』のだろう。それは恐らく、対処法が存在する時点でこの人にとってはただの日常として――それこそ可燃ごみの収集日のように注意深く扱われるべき日々の規則へと分類される。その根幹を注視し探索しようなんて藪蛇な真似を、この人は絶対にしないのだろう。

 だからこそこの人は、人生を健全に過ごせているのだと確信した。


「スナークはブージャムだし、ブージャムに遭遇するからひどい目に遭うだろ。だったら避ければいいだけの話で、それが何かなんてことが分かったところでぶち当たったら助からないだろ」

「何ですかそれ」

「知らないのか。君は本を読む癖に偏ってるから教養が無いんだ」


 あとで貸してあげるからちゃんと読みなさいと諭すように言って、叔父はふらりと立ち上がる。そのまま百合の花束を俺に押し付けて、ぼきぼきと背骨を鳴らして見せた。


「まだ四時過ぎだから、麦茶飲んで少し休もう。そしたらご飯買いにミエルに行こう」


 夕方でもちっとも涼しくならないとぼやきながら、叔父はふらふらと玄関に向かう。俺は渡された百合を片手に、ぼんやりとその背中を見る。暮れてなお強い夏の陽に照らされた背には、何の不吉な影も落ちてはいない。

 当たり前のように置いて行かれて、慌てて俺は叔父の後を追う。建付けと噛み合せの両方がおかしくなっている玄関は正規の鍵を差し込んでもなかなか開かず、叔父はうんざりした様な顔で鍵を弄っている。


「聞いてもいいですか」

「何。鍵がこんなんなのは私のせいじゃないよ」

「違います。さっきの女の人の話です」


 言われた通りにしなかったらどうなったんですかと聞くと、よく伸びたそうだよと分かるようで分かり難い答えが返ってきた。


「信号待ちで話しかけた人がいてね。着いてきて大変だったって小峰さんが言ってた」

「歩くんですかあれ」

「違うよ。伸びたって言っただろ」


 百メートルくらいで巻き戻ったそうだよと素っ気なく叔父が言ったと同時に鍵が音を立てて開く。叔父は珍しく疲れたのかふらふらとした足取りで半開きの内戸を通り過ぎて框を上がり、そのまま足早に居間へと向かって行く。

 その後を追おうとして三和土に上がった途端、俺は少し嫌なことを思い付いた。叔父は首も伸びず背丈も平均より少し足りないくらいだが、それはあくまで俺が見ている範囲でのことだ。もしかしたらこの俺が彼を見ていないその瞬間に何か『よく分らないもの』に類するような異貌を曝しているのではないかという、頭の悪い妄想じみた考えが、ふと浮かんでしまった。そして、今日あんなものを見てしまった俺にはどうにもその可能性を否定しきれない。その証明を可能にするほどには、彼のことを俺は知らない。今更あの歩道橋で麻痺していた恐怖が蘇って、その場に立ち尽くす。

 そんなことを考えて玄関で何となく背筋に冷たいものを感じながら棒立ちになっていると、居間の方から俺の名をやる気のない声が呼ぶのが聞こえて、俺は慌てて返事をする。

 馬鹿な空想を振り払おうと、俺は自分の仕事を思い出す。俺はこの叔父が住む家で、諸々人間が人間らしく生活するのに際して発生する雑事を手伝うべきだ。それ以外を考えようとするから、怖い思いをすることになる。すべきことを正しくしていれば、恐らく致命的なことにはならない筈だ。それでも助からなければ、それはきっと運命とかいうべき『何だかよく分らなくて』『どうしようもないもの』なのだろう。

 何だか気が抜けたようになりながら、俺はのそりと靴を脱ごうと屈み込む。狭くなった視界に、また余計なことを思い付いた。


 灰色のタイルと、手入れをしていないせいで白くなりかかった運動靴。この僅かな視界の先にあの白い顔や水色のサンダルの爪先でも見えたりしたら――。


 そんなことがあるもんかと俺は今度は口に出して、無理矢理足から靴を引き抜いてぶつからない程度に放り出す。そのままこれ以上何かを思い付く前に、慌てて居間への短い廊下を這うようにして走り出した。

 子供に追い掛け回される鶏のようになって居間に駆け込んだ俺に、叔父は珍しく明確に呆れたような顔をして、


「君――薄々思っていたけれど、本当に理屈の分からない奴だね」


 そんなのだとこの先苦労するよとまるで親切を言っているように嘯いて、ずいと緑茶を差し出してみせた。


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