第8話

(妙な術が動いてるな……)

 風に混じる妖気が複雑な軌道を描いている。何らかの陣が展開されているようだが、一介の妖獣が使うものにしては規模が大きすぎる。

“風よ……”

 左手に集まった風が碧に輝いた。

“行け”

 意識と感覚を同調させた風が鳥よりも早く奥羽へと駆ける。脳裏に奥羽の景色が広がった。

(やはり越後……、中門近くの森か……)

 霊山は閉鎖され、越後側――、中門が置かれている森が広範囲にわたって結界で遮断されている。結界の中は外からわかるほどに妖気が立ち込め、時折、術の気配が漏れ出しているようだ。

 長期戦を見越して霊気を温存しているのだろう。日頃から張られている結界に対妖気の術を乗せているので、入る分には問題ない。

「なるほど……、入ったら最後、妖気に侵されたヤツは出られねェってことか……」

 野枝が手にしていた言伝を見る限り、壱ノ班以下、奥羽の主力は行方不明だというが、ではなさそうだ。

(コイツは……、けものの仕業じゃねェかもしれねェな……)

 この異常事態を打開する切り札だろう出撃依頼を託されたのが、野枝一人だけだったはずがない。彼が不発だったとしても、他の者が送った言伝が一通くらいは鞍馬まで届いているかもしれない。

(この時刻じゃ、戒も宮様も近江か……)

 魔天狗は昼には視察に出ている。ここまで大きな妖変では宵闇府に持って行っても敬遠されるだろうし、鎮定府の部下達は自分の指示なしでは動かない。残るは大天狗だが、さすがに烏天狗も他の霊山の話を大天狗に話しづらいだろう。

 出立前の戒の元に持ち込まれていたとしても、戒が動けるのは夜半過ぎ。どう考えても、まだ鞍馬から加勢は来ていない。

(刃守の上空を抜ける風が一番早いが……)

 自分の霊気は狼の霊筋に察知されやすい。

 平時ならば、あらかじめ刃守を大きく避ける風に乗るが、ここからでは大きく後退して風を探すか、迂回しなければならない。

「やむを得ねェか。霊域の中からじゃ、姿までは見えねェことだしな……。それより、もうじき落日だってことのほうが問題か……」

 傾いた日に軽く嘆息する。

 今から奥羽に向かったのでは、逢魔が刻までに戻るのは無理だ。

 帰るなり、圭吾が悪鬼も逃げ出すような形相で飛び出してくる姿が目に浮かぶ。それならば、まだいい。

 あまり遅くなると、今度は血相を変えて京だけでなく周囲の山々まで探し始める。今朝も随分と探し回っていたようだった。

(圭といい、他の連中といい、どうにも理解できねェんだよな……)

 圭吾は他の班員の手を借りようとせず、常に単独で動く。圭吾のやり方や性格ならば、まだわかるが、他の三人も同じだ。

 では、彼らは主君を同じくし、同じ部隊に属し、共に任務に就いてきたと聞いている。

 なのに、とにかく殺伐としていて、酒を飲んだり談笑している姿を見かけたことがない。それでも仲間意識のようなものはあるらしく、日々の仕事は協力するが、屋敷では顔を合わせれば殺気をぶつけあっていて、「仲間」という概念を持っているのかすら怪しい。

(どうしたもんかな……)

 言伝を送れば圭吾の怒りは収まるだろう。

 だが、奥羽が手こずるような妖変に首を突っ込もうとしているなどと知れば、全員で奥羽へ出撃してくるのが容易に想像できる。

 それだけは、同じ戦場で戦うことだけは、どうしても避けたい。

「当主殿の目利きを信じてないわけじゃねェが……」

 ――外した時、あいつらにかける言葉がわからねェよ……

 互いに後悔しか残らないだろう。

 この役目が終わるまで何も見せず、元の主の元へ帰すのが彼らにとっても最良のはずだ。

 ――行くか……

 呼応するように風が染まった。




「ふあ~~、ダリいな、今日も……」

 森の奥の丘の上で、総矢は寝そべって空を見上げていた。

 今日は剣術の鍛錬があったが、開始早々に抜け出してきてしまった。

 毎回のことなので師範達も呆れ返っているらしく、誰も探しに来ない。

 この森は里の結界が及んでいるが、霊域から無断で出ているなどと知れたら大目玉だろう。

(なんで強くならねえといけねえんだか……、全っっ然、わからねえ……)

 剣術や霊符の鍛練が嫌なわけではない。

 修行についていけないわけでもない。

 鍛錬はそれなりに楽しいし、強くなることは純粋に嬉しい。

 だけど、それだけだ。


 強くなった先に何があるのか?

 この力で何ができるのか?


 力の先に在るものを考えると、急激に意欲が失せてゆく。

 霊格が高い者は武術士や霊術師になるのが刃守の習わしだ。太狼の自分は里でも一、二を争うくらい霊格が高く、選択肢は武術士か霊術師しかない。

 文献を読んだり霊具や霊草の知識を必要とする術は性に合わないから、選べる道は武術士だけになってしまう。

 順当に武術士になって、平穏な里の中で、そこそこの戦闘力で里長と里を守る為だけに生きる――。考えただけで気分が滅入ってくる退屈な道だった。

 霊山では宵闇と呼ばれる天狗達が腕を磨き、各地を飛び回っては妖変を鎮め、穢れを祓っているという。

 人間の血が混じる身でありながら、彼らの中には霊獣を超える力を持つ者も存在し、その力を霊筋の異なる者達の為に惜しげもなく使っているらしい。

 外から入ってくる話を聞くたびに、言いようのない焦燥に襲われる。


 小さな里の中で、縁のある霊筋の者ばかりで閉じこもっていては、刃守は置いていかれるのではないか?

 平穏な世界しか知らない武術士の力で、本当に里を守れるのか?


 疑問を口にすると、師範や他の子供達は気分を害した様子で離れていく。

 気が付けば、いつも独りで誰もいない丘の上で寝転んでは空を見上げている。

 周りの評価なんて、どうでもいい。

 落ちこぼれだろうと、腑抜けだろうと、好きなように言ってくれて構わないが、いつも庇ってくれる弥生にだけは申し訳ないと思う。

 少しは期待に応えたいが、やりたいことがあるのかと言えば、そうでもない。

 霊格が高いだけで、剣術くらいしか取柄のない太狼が里で生きていくのならば、結局のところ、武術士になるしかないのだ。

「あ~~あ、いっそのこと里から出ちまおうかな……」

 外の世界のことなんてわからないし、霊獣といっても子供の自分が生きていけるかどうかもわからない。

 それでも、このまま里の中で朽ちていくよりは、よほど納得できるかもしれない。

「霊山って……、霊獣でも入れてもらえんのかな……っ!?」

 急に襲った重圧に跳ね起きようとして、体が強張って動かないことに気づく。

 夕焼けに染まり始めた空に、得たいの知れない強大な何かが潜んでいるような気がして、眼を凝らした。

(空が……重てえ……、妖獣でも飛んでんのか……?)

 大粒の汗が滴り落ち、寒くもないのにガタガタと全身が震えて手足の感覚がなくなっていく。胃が握り潰されるように痛み、背筋が凍り付いたように冷たい。巨大な何かに踏み潰されそうな重圧に意識まで遠のいていく。

 刹那、空が碧の稲光に染まった。

 否、碧の風が駆け抜けた。

 ――ひと……?

 風の中に人影が――、そう思った時には風は遠くへ吹き抜けていた。

 後には、恐ろしいほど澄んだ夕暮れ時の空が残るのみ。

「あ………」

 カラカラの喉から零れた自分の声に我に返る。

(狼の匂い……、だったよな……?)

 攻撃的な破邪の匂いは狼の霊筋特有のものだ。僅かに視えた後姿は男だろう。

「弥生様に……、報告しねえと……!」

 立ち上がろうとしても、体はまだ金縛りにかかったみたいに動かない。服は何十時間も鍛錬したようにびしょ濡れなのに、頭からはまだ滝のような汗が流れ続けている。

「は……、ははははははははっ」

 立ち上がるのを諦めて、ただ笑った。

 やっと動いた手で目元を拭うと、甲から涙が滴り落ちた。自分がいつから泣いていたのかさえ、わからない。

「かっこ悪いなあ、俺……。涙、止まんねえよ……」

 ひどく気分が晴れやかだった。

 強力な破邪が迷いも悩みも、何もかもを焼き祓っていったような気がした。

 空を眺め、寝ころんだまま思い切り伸びをした。

「決~~めた! 明日から真面目に修行するかあ……!」

 まだ小刻みに震え続ける掌で霊紋が赤く光った。

 自分の力と霊格がこんなに嬉しいと思ったのは初めてだったかもしれない。

「武術士になって……、刃守で名前上げて……、それで……」

 ――あの人に弟子入りするんだ……!

 風が吹いていった北の空に、灰色の雲が立ち込めていた。



(この強大な霊気は……!?)

 書斎で調べ物をしていた雄緋は顔を上げた。

 履物も履かず庭へ飛び出し、空を睨む。

 夕暮れの空を映す霊域の上空はいつもと変わらない。それでも、目を凝らし続けた。

「兄上?」

 一緒に書斎にいた清山が不思議そうな顔で庭に出てきた。

「どうかなさったのですか?」

「……感じぬか?」

「空にですか?」

 同じように空を見上げたものの、清山は困ったような顔をしている。目を凝らしているのも、見当違いの方向だ。

(仕方あるまい……)

 霊域から現の空に残る破邪を感じ取るのは、容易ではない。

 現にいたならば、清山にもわかっただろう。

「もしや、よからぬ前兆が……?」

「いいや……。途方もなく高貴な御方がお通りになったようだ」

 雄緋とて、姿が見えたわけではない。

 恐ろしいまでの霊格の持ち主が、刃守の上空を駆けていったのがわかっただけだ。

「ぜひとも、この目で御姿を拝したかったものだがな……」

 本能が抱いた恐怖に袖の下の手が小刻みに震えていた。

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