第19話

 『ねえ?』

 麻生来未あそうくるみが、珍しく真剣な眼差しで僕を見つめる。

 『うん?』

 『私達はさ、こんなくだらない世界になんか絶対に押しつぶされないで、いつか終わるその瞬間ときが来るまで、笑って生きていようね』

 『そうだなぁ、中々難しいとは思うけれど、でもまぁ、来未くるみちゃんの言う事は絶対だから、精一杯頑張らせて頂きます』

 『頑張っちゃダメだよ!心から笑えなかったら意味ないもの。私たちが心から笑って生きていたらさ、いつの日か、それが周りの人達にも伝染して、国も、人種も、宗教も、性別も、年齢も関係なく、世界中の皆が、心から笑って生きていられる時代がやって来るかもしれないでしょう?それが、私達の世代じゃなくても良いからさ、そんな素敵な光景が、いつか、私達の何世代か後の時代のこの世界の上に広がっていたなら、そこにはきっと幸せしかなくって、そしたら、こんなくだらない競争に人生を台無しにされる事もない。そんな未来の世界を想像したらさ。楽しみで、ワクワクして、嬉しくって。自然と私の顔はほころんでしまうの。だからさ、本当は気持ち1つで、今、この瞬間にだって、そんな素敵な世界は簡単につくれると思うんだけれど、でもきっと、気持ち1つを変えるには、何千年、何万年の時間が必要なんだろうね』

 『そんな素敵な光景が、いつかこの世界の上に実現するというのなら、その為に僕が出来る事はなんでもやりたい』

 『よしっ、じゃあ、手始めにウイスキーって5回言って。楽しそうに、大きな声でね』

 『ウイスキー、ウイスキー、ウイスキー、ウイスキー、ウイスキー』

 『うん。これちょっと、アレだなぁ。さっきの1回目のウイスキーはとっても良かったのだけれど、今の5連続ウイスキーは、思ったよりちょっとアレだから。1人の時、特に人通りの少ない場所ではやらない方が良いと思うよ。まぁ、無理にとめる事はしないけれど』

こいつは。本当に、可愛い女の子でさえなければ。

 僕は、心の奥底からき上がる黒い炎を抑え込む為に、麻生にバレない様な小さな声でウイスキーと言ってみる。

 何故だか分からないけれど、心にまったおりがスゥーッと溶けて、僕の顔には、自然と笑みがあふれ出す。

 『ほら、やっぱり』

 『えっ?何?』

 『やっぱり君には、その笑顔がとってもよく似合う』

 麻生が言う様に、誰もが心から笑って生きられる世界を実現させるのは、とっても簡単な事なのかもしれない。

 少なくとも、今、この瞬間の僕の世界は、苦しみや悲しみなんて入り込む余地の無い程に、呆れるくらいの温かな幸せで溢れているのだから。

 それに、小高い丘の上から見下ろす街はこんなにも…

 『綺麗だ』

 『キャッ!嬉しい。どうしたの急に?何?もしかしてプロポーズでもする気?』

 『いやっ、別に君は綺麗じゃなゔっ』

 鳩尾みぞおちに、とんでもない衝撃が走る。

 相変わらずの、正確無比な殺人パンチ。

 『あのっ、君はあまりにも綺麗過ぎて、今の僕には高嶺たかねの花だから、今日はプロポーズするのはやめておくよ』

 『あら、そう?もしかしたらいけるかもしれないのに、もったいない』

 流行はやりの歌を口ずさむ、どうやらご機嫌の様子の麻生は、出し抜けに僕の手を引いて、自分の側へ引き寄せると、

 『愛してるよ。心から』

 と言ってから、爪先つまさき立ちをして、僕のくちびるに彼女の唇を重ねた。

 『えっ?何今の?』

 『何でもないよ。何でもない』

 『いやっ、でも…』

 『あんまり深く追求してきたらなぐるわよ。何でもないんだから』

 『そっか、何でもないのか』

 『そうだよ。何でもないのよ』

 なぁ〜んだ、良かった。

 てっきり僕は、今、何かとんでもない事が起こったと思ったのだけれど、どうやら勘違いだったみたいだ。

 何でもない。来未くるみちゃんがそう言うのであれば間違いない。何でもないのだ。

 ふぅ〜。本当に良かった。

 安心したはずの僕の心臓が、何故だか、ドクンドクンと暴れまわるので、うるさくって仕方がないのだけれど、僕には、それを鎮める方法が分からなかった。


 

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