天涯孤独の意味(1)

「そりゃあね、いくら身内っていっても、死人と二人だけじゃ、いい気はしないよなあ」


 初夏の昼下がり――芹沢邸は静まり返っている。

 広大な敷地にあるこの建物の中は、外界の喧騒とは無縁だ。

 その無音状態が、華音はとても心細かった。口数の多い高野がそばにいることが、唯一の救いだった。


「冷静に考えれば、分かりそうなもんだけどね。さすがに富士川ちゃんも、そこまで気を回す余裕がないとみえる」


 高野はパジャマのポケットから、封の開いた煙草の箱を取り出した。中から最後の一本出してくわえると、空箱を左手でぐしゃりと潰した。

 部屋の隅のサイドテーブルには、大理石の灰皿と美しい彫金の施されたライターが置いてある。愛煙家で通っていた芹沢老人の愛用の品だ。

 高野はそれを拝借し火を点けると、窓辺に寄って紫煙をくゆらせ始めた。


 華音は、部屋の隅に置かれた一人掛けのソファに腰かけていた。

 身動きせず横たわった祖父の横顔が、真正面に見えている。

 どういうわけか、涙はひとしずくも出てこない。

 華音は、自分自身の感情がどうあるべきか、まるで分からなかった。


「おじいちゃんはいつだって、こんな難しい顔してた」


 華音の祖父は、人生のすべてを音楽に費やし、その芸術性と精神性を融合させるための理想郷を、ストイックに追い求め続けていた。


「優しい顔なんてほとんど見たことなかったし。自分が今、本当に悲しいのか、分かんない」


「途惑ってるんだよ、きっと」


 高野は窓辺にもたれかかったまま、ため息ともとれる煙をゆっくりと吐いた。煙草を指で挟む仕草がさまになっている。ピアニストらしい、長くて形のよい指の持ち主だ。

 華音は力なく首を横に振った。


「ううん、違うと思う。私、これからどうなっちゃうんだろうね」


「どうなっちゃうって?」


「親戚もいないし、本当に一人になっちゃったんだね、私」


 何となく口にした言葉。

 華音はここへきてようやく、自分の気持ちが整理できた気がした。

 祖父を失った悲しみよりも、孤独からくる漠然とした不安が、はるかに上回っているのである。


「一人って……富士川ちゃんだっているしさあ、俺だっているじゃない? そんなに悲観的にならなくても――って、こんな状況で言うセリフでもないか」


「それは分かってる。そうじゃなくて、血が繋がってる人間がいないっていう意味。こういうの、天涯孤独って言うんだよね」


 高野は何とも微妙な表情をした。煙草の吸い口に唇をつけたり離したりを繰り返している。

 唯一の家族を失った少女に、どのような返答をするべきか困っているらしい。


「まあ、捜せばいるかもよ? 芹沢のオヤジはノン君の両親のこと禁句にしてたけどさ。日本のどこかには、オジさんオバさんとかイトコなんてのも、いるかもしれないし」


 あくまで希望的観測の域を出ていない発言だ。

 確かめる術は、何もないのである。


「両親、私が一歳のときに死んでるんだよ? もう十五年も経ってるし。第一、両親のことすらよく分かってないし」


 高野は灰皿に吸いかけの煙草を押しつけた。そしてだるそうに伸びをすると、華音の隣にもう一つ置かれているソファにどかりと座り込んだ。


「教えてあげようか?」


 高野の口から発せられたのは、華音の予想をはるかに超えるものだった。

 華音はとっさに高野のほうへと向き直り、飄々としたその横顔をじっと見つめた。


「えっ……高野先生、知ってるの? 私の両親のこと」


「そんな詳しくはないけどさ。まあ、知ってる範囲でなら。もう口止めする必要もないでしょ」


 高野はちらりと芹沢老人の遺骸に視線をやった。

 この高野和久というピアニストも、富士川と同様に、華音が物心ついた頃から芹沢家に出入りしていた。しかしこれまで、華音の両親のことについて触れたことは一度もなかった。


 興味がないといえば、嘘になる。

 しかし、十五年もの間頑なに口を閉ざしてきた祖父が亡くなったからといって、それをすぐに聞いてしまうというのは、祖父に対する裏切り行為なのでは――華音は複雑な思いに囚われてしまう。

 華音に両親のことを話して聞かせたくない理由が、祖父には何かあったに違いない。

 そう思うと、とても素直に聞く気にはなれなかった。


「いいよ別に。父親は『大学中退して、カケオチ同然に家を出た不義理の息子』で、母親は『どこのウマの骨だか分からない、大切な一人息子をたぶらかした魔性の女』なんでしょ。聞き飽きたよ、そんなの」


「うわ、誰が言ったのそんなこと」


「おばあちゃんが生きてたときに、しょっちゅう言ってたもん。で、赤ちゃんだった私を残して、事故で死んじゃったって」


 あのババアはなぁ……と高野は苦々しく呟いた。

 高野にとって、芹沢夫人はあまりいい印象ではないらしい。その芹沢夫人も、五年前にすでに他界している。


「あとは? その他に何か言ってた?」


「ううん、それだけ。私の父親って人のものは全部処分してしまったから、何もないって。写真もないから、顔も分かんない。知ってるのは、名前だけ」


「写真も残ってないのかあ。案外どっかに隠してんじゃないの? でもね、ノン君は父親似だよ。卓人さんに瓜二つだもんな。俺、学生時代に何度か会ったことあるけど、なかなかカッコいい人だったよ」


 高野は、見知らぬ父親と、過去に時間を共有していた。

 学生時代となると、おそらく十七、八年前のことだろう。きっと、華音がこの世に生まれてくる前の話だ。

 両親が事故で亡くなったのは、華音が一歳になったばかり、十五年ほど前のことだと聞かされている。


「やっぱさあ、俺たちも行こうか? 公会堂に」


 唐突に、高野がソファにふんぞり返りながら、そう華音に提案してきた。


「え? これから?」


 華音は驚いた。富士川に、ここに残るように言われている。

 そして、『公会堂は修羅場になる』と言っていたのは他でもない、華音の隣で座ってくつろいでいる、このピアニストなのだ。


「どうせここにいたって、俺たちじゃ何にも役に立たないし、執事さんたちにあとは任せてさあ。チラッと様子、見に行ってみよう。何だかさ、胸騒ぎがするんだよねえ……」


 高野はやはり気になっているのだろう。もちろん心配でもあるのだろうが、修羅場見たさの野次馬根性に違いない。

 しかし華音も、富士川がどんな大変な状況に置かれているのか、とても気掛かりとなっていた。

 理由は何であれ、高野の申し出は願ってもないことだ。


 二人は意見が一致した。

 さっそく二人は執事に事情を説明し、高野の運転する車で市立公会堂へと出ることにした。


 そして高野の『胸騒ぎ』は、的中してしまうこととなる――。




 富士川に遅れること一時間あまり――。

 華音は高野和久と共に、芹沢邸から市立公会堂へと移動してきた。

 市立公会堂の大ホールは、客席三階構造で収容人数は1800人、演劇からアーティストのライブ、講演など、多目的な催事のために使用されている。

 芹響の定期演奏会は、このホールで行われるのが通例となっていた。


「とりあえず、俺の楽屋に行こうか」


 高野は、今夜の演奏会でピアノ協奏曲のソリストを務めることになっているため、専用の楽屋が用意されている。

 自分の自由になる場所に身を置いたほうが、修羅場の様子をうかがうには都合がいい、というのが高野の言い分だった。


「祥ちゃん……どこにいるのかな?」


「さあねえ、忙しく動き回ってるんじゃないのかな。公会堂の中のどこかにはいると思うけど」


 華音は富士川の言いつけを守らずにここまで来てしまったのである。邪魔になるようなことだけは、避けなければならない。

 二人は正面入り口ではなく、建物の外を回り込んで、楽屋入口のドアを目指した。

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