Chapter 2 招かれざるもの

05 音の正体

 たかだか数日のことなのに、僕は目覚ましをかけなくても、朝早く起きられるようになっていた。人間の体の不思議なところだ。


 この日も同じように目が覚めると、顔を洗って、朝ごはんの支度を始めた。

 朝ごはんと言っても、パンをトースターに入れて、卵を焼く程度だ。

 自分ではほとんど何もしていないその作業を、僕はいつもよりゆっくり、時間をかけて準備をした。念入りにというわけではない。ただ、のんびり時間を過ごしていただけだ。

 そんなにゆっくりする時間があるなら、もっと寝られたんじゃないかと自分でも思うのだけれど、起きてしまったんだからしょうがない。


 僕がフライパンに卵を割り入ようとした時、足音が聞こえた。

 いや、その前にドアが開く音がして、思わず動揺してしまった。普段はほとんどそんなことにはならないのに、僕は卵を割るのに失敗した。

 急いでフライパンに入った殻を取り除こうとしたのだけれど、焦りが先行して、うまくいかない。そうこうしているうちに僕の待ち人が部屋に入ってくる気配を感じた。

 僕は悪いことをしているわけではないのに、何だかきまりが悪くて、持っていた菜箸を後ろに隠した。


「おぅ。いたのか」


「うん…あ、卵焼いてるけど、食べる?」


「…じゃあ、もらおうかな」


 ぎこちなく、それでも淡々と無駄なく進んでいく会話。おはよう、の挨拶すらないことに内心笑ってしまう。

 それもいつものことなので、僕は気にせず、冷蔵庫から卵を取り出すと、先に焼かれてる卵の横にもう一個割り入れた。

 今度は成功した。






 父さんが自分用のコーヒーを入れ終えたころ、トースターから焼き上がりを知らせる音が聞こえた。僕は取り出したパンを、先ほどできた目玉焼きと、適当にちぎったレタスやトマトをのせたお皿の上に置いた。

 二人分の朝食をテーブルに置くと、僕は先に席についていた父さんの向かいに座った。

 こうして、顔を合わせること自体が久しぶりすぎて、何だか照れくささを感じる。

 父さんも同じ気持ちなのか、コーヒーカップを音を立てながら持つと、口へと運んだ。


「父さん、あの…」


「?」



「その…畑。そうだ! 畑、何か手伝うことない?」


 僕は朝食に手をつける前に、思い切って言葉を発した。緊張しているのか、声が口ではない、別のところから出たような感じがした。

 心なしか、声もいつもの僕の声じゃないような気がした。


「どう……」


 父さんは驚いたような表情をしていた。そして、何かを言いかけたのだけれど、すぐに口を閉ざした。

 ちょっとの間、何かを考えるように腕を組み、今度は静かにコーヒーを一口だけ飲み込んだ。

 待っているこちらからすると、その時間はとてつもなく長く感じた。

 相手が相手なだけに、僕は不安に駆られていた。


「今度、トマトの収穫するんだけど、一緒にやるか?」


 待ちに待った父さんからの言葉に、僕はとてもほっとしていた。

 それでも心臓はどくどくといつもよりも早く脈打って、落ち着きを取り戻そうとしない。


「うん。あ、でも朝早くとかでもいいかな? 僕から言い出しといてあれなんだけど…」


「いいぞ。早い時間の方が作業しやすいからな」


 その表情に、僕は再度安堵していた。

 これでやっとご飯が喉を通る。


「今日も出かけるのか?」


 僕がトーストを食べようと、大口を開いたタイミングで父さんが僕に訊ねた。そのタイミングの悪さに、僕は食べようとしていたトーストを空振りする。


「うん。これ食べ終わったら出る予定だけど」


「そうか」


 父さんの質問はそこで終了した。そのあっけなさに、僕は面食らった。

 追求されても面倒くさいけれど、それにしたって、もっと何かないものか。

 それでも父さんは、本当にそこで会話が終了していると言わんばかりに、僕が先ほど食べ損ねたトーストを頬張っていた。



 ***



 久しぶりの父さんとの会話に、家を出てもなお、僕の心拍数は上がったままだった。

 暑さのせいでも、足早に歩いているせいでもない。けれど、僕の鼓動はいつもよりも早い速度で振動していた。

 それを助長させるかのように、僕は今朝のことを反芻しながら、森へと向かった。


 それにしても、家にいないことはわかっていたにしても、行き先については気にならないのだろうか。

 他でもない、が毎日外に出ているというのに、その詳細を父さんは知りたくないのだろうか。

 よく言えば信頼されているということで、悪く言えば興味がないということだろう。

 それでも、どちらの理由も僕には満足できなかった。

 なんて、これではまるで気にしてほしい、かまってほしいと言っているみたいだ。


 僕はそんなことを考えている自分が何だか可笑しくなって、外だというのに、顔に出して笑ってしまった。




 それにしても今日は一段と暑い。

 家を出たのが8時過ぎだったから、太陽もまだ昇りきっていないというのに、もうすでにギラギラと光を放っている。その暑さは尋常ではない。

 僕は無性にソラのことが心配になった。ソラがいつもいる場所は、近くに大きな木があって陰ができやすくはあったけれど、この暑さの前ではそんなの無意味に等しかった。


 だからと言って、僕が急いで行ったところで、僕にできることは限られている。

 この気温を下げることは僕にはできない。というのは言い訳で、僕もこの暑さには相当参っていて、これ以上速く歩くことはできそうになかった。


 僕の気持ちは早くそこへたどり着きたいのに、いつもより歩みが遅かった。身体が心に追いつかない。

 それでも何とか進み続け、森の入り口にたどり着いた頃にはTシャツは汗でびっしょりだった。


 僕は森の入り口に立ち、一息ついていた。

 あと少しで目的地にたどり着くというのに、いやだからこそ、何だか安心して僕は悠長にも座り込みたい気持ちになった。


 とその時、ゴトゴトという音とともに、少しの振動を感じた。

 一瞬、地震か? とも思ったのだけれど、その揺れとはまた少し違うような気がした。

 それに、何だかこの音には聞き覚えがあった。


 聞き覚えがあると言っても、とても漠然としていた。ゴトゴトなんて音、そうそう聞くものじゃない。例えばなんだ? 工事現場とか? 電車の走っている音とか?

 けれど、今聞こえているのは、そのどちらにも当てはまらなかった。


 僕はさらに記憶を辿った。辿っていって、僕はハッとした。

 僕は数分前とは別人のように俊敏な動きを見せると、これもまたデジャブかのように身を隠せるような場所へと身を置いた。


 僕は手に汗握っていた。それが恐怖から来るものなのか、この暑さのせいなのかわからない。

 ただ、怖さを感じながらも、その音の正体を知れることに、少なからず好奇心もかき立てられていた。

 実を言うと、ずっと気になっていたのだ。あの、初めて森に迷い込んだあの日からずっと。

 でも、知らない方がいいのかもしれない。そんな風に思う自分もいて、魔女に聞くこともできずにいた。


 僕は見つからないように、茂みからその正体を伺った。一体何がやってくるのだろう。

 音は段々と大きくなる。音を発しているが近づいてくる。その音が近づくのと比例して、僕の心拍数はまた上がっていった。


 ゴトンッ


 何か大きな物につまずいたような音がして、僕はそちらに目を凝らした。途端、その正体が明らかになった。

 なんて仰々しく言ってはいるけれど、その正体は大きな車だった。何て説明したらいいか…あの、バスよりは小さくて、それでも何人も人が乗れるような車。

 あ、あれだ。収容車。収容車のような車だった。

 とは言っても、そんな車、テレビなんかで見たことがあるだけで、実際に目にするのは初めてだった。

 中に何を乗せているのか気になったけれど、その部分に窓はなく、中を伺うことはできなかった。


 その車は、僕に気づくことなく森を後にした。

 まるで、この世界のものとも思えないような物々しさを醸しているのに、その車はさも当たり前かのように公道を走っていく。そのある種、異様な光景を僕はやはり茂みの中から伺っているのだった。

 車が見えなくなってからも、僕は少しの間、そこから動き出すことができなかった。


 どれくらいそこに留まっていたのか。僕は時刻を知る手段がなかったのでわからなかったけれど、無性に走り出したくなった。理由もなく焦燥感に駆られ、何かに急かせれているような気持ちになった。

 僕は、砂埃が立つその道を駆け出していた。




「大丈夫!?」


 僕はたどり着くなり、そんなことを口走っていた。

 息も絶え絶えに焦っている僕のことなど一蹴するかのように、魔女は全く動じる様子はなかった。


「お前が大丈夫か?」


 そう言われて、自分が異常なほど息が上がっていることに気づいた。

 本日三回目の心拍数の上昇に、呼吸を整えるのに少し時間が必要だった。


 僕は肩で息をしながら落ち着くのを待っている間、辺りを見回した。

 僕はすぐに違和感を覚えた。それが何かと問われると、答えを持たなかったけれど、明らかに何かが違うような気がするのだった。この空間がいつもと違っているように見えた。


「何だろう…あ、もしかして少なくなった?」


 の数は両手では数えきれないほどいたので、具体的にはわからないけれど、明らかに減っている気がした。

 それに、いつか魔女が首輪のようなものをつけていた犬も見当たらない。あれだけ、目立つ色のものをつけている彼らを、見逃すわけがない。


「あぁ。訓練のためにその施設に運ばれたよ」


「ふーん」


 そうか。ここの犬たちは救助犬になるために育てられてるんだった。

 僕は魔女の言葉をすんなりと受け入れると、すぐに納得できた。

 その訓練とやらがどんなものかはわからないけれど、何だか大変だな、と僕は思った。

 自分の意思に反して、人間が指示するままに、自分の未来を決められる。訓練と言うくらいだから、楽なものではないのだろう。

 それを生まれた時から決められているというのは、どういう感覚なんだろうか。彼らは幸せなのだろうか。


「そうだ。お前が世話していた犬もいないぞ」


 僕が一人そんなことを考えていると、魔女がいつものように軽口を叩く。


「え?! ソラも訓練に行っちゃったの?」


「いや、あれは死んだ」


「…え…?」


 またしても、魔女は淡々と口にした。

 しかし、これはすぐには頷けない。この魔女は一体何を言っているのだろう。

 魔女の冗談は笑えない。


「嘘つくならもっとマシな嘘つきなよ」


「嘘じゃないからな」


 その言葉に、僕はソラがいるはずの場所に向かった。

 滅多に走ったりしないのに、今日はすでに二回も走っている。


 僕がそこに着くと、ソラの姿を見つけられなかった。

 ここにいるはずなのに。魔女との取り決めで、ここから出られないはずなのに。

 ここで見つけられないと、あの魔女が嘘ではないと言ったことが本当になってしまう。


 魔女はのんびりとした足取りで僕の近くまでやってきた。

 そんな魔女のペースを、初めて苛立たしく感じた。


「ソラ、どこにやったんだよ! なんでいないんだよ!」


 僕は魔女の到着を待ちきれず、大きな声を出した。

 取り乱したように叫ぶ僕にも、魔女は動揺の色を示さない。


「だから言ってるだろう。あれは死んだんだ」


「嘘だ! だって昨日まであんなに元気だったじゃないか! それとも何、病気だったとでも言うの?!」


 冗談ならもっとマシな冗談言ってよ。僕は心の中で泣き出しそうになっていた。


「病気じゃない。この世には病気でなくとも、寿命を縮めてしまうものがあるんだよ」


「意味がわからない。もっとわかるように言ってよ……ソラは…ソラは、本当にもういないの?」


「あぁ」


 僕は往生際が悪いとは思うけれど、もしかしたら、という気持ちを込めて魔女に問いかけた。

 もちろん魔女の答えが変わるわけもなく、僕はいよいよ現実を受け入れなくてはいけなくなる。


「…ソラはここにはいないの?」


 僕はせめてもの強がりで、言葉を口にする。自分の目で確認したかった。もし魔女の言うことが本当で、最後になったとしても、ソラを一目見たかった。それくらいは僕にも権利があると思った。

 それなのに、目の前の魔女は、すんなりと口を開こうとしない。

 僕はそれでなくてもイラついていたもんだから、あまり悠長に待てそうになかった。


「………い」


「え?」


「ここにはいない。今し方、連れて行かれたよ」


 ー今し方ー


 その言葉に、僕は先ほどの大きな車を思い出した。

 あれか。あれに連れて行かれたのか。

 僕が、ソラとお別れする時間を奪って、あの大きな車は僕の大切なソラを連れて行ってしまったというのか。

 何の確証もないのに、僕の頭はそれを決めつけた。


 僕はその場に座り込んだ。汚れることなど気にもならないほどに、どさっと地面に座り込む。

 自然とため息が出た。深い深いため息だった。


「お前が落ち込むことはない。前にも言ったが、あれは失敗作だったんだ」


「それは救助犬としてじゃないの?」


「それもあるけど。そもそもの失敗作だったんだよ」


 次に魔女が言った言葉を、僕の頭はすぐには受け入れられなかった。

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