第2話 姉

 僕が生まれたころ、両親は別れた。もちろん、僕に記憶は一切ない。母は、僕より二才年上の姉を連れて、家を出て行ったそうだ。僕が物心ついても、父は母と姉の話を全くしなかった。だから僕は、自分は最初から父と二人暮らしなのだと信じた。幼い僕には、父を疑う選択肢はなかった。僕は、母と姉の存在を知らぬまま成長した。

 小学生に上がり、授業参観や運動会で「おかしい」と気づいた。友達の家には、お母さんがいた。でも、僕にはいない。父と二人の生活を、僕は受け入れていた。けれど、友だちの母親と接するたび、居心地の悪さを感じた。

 友達の中には、母子家庭の子もいた。そんな友だちと接すると、僕の考えは振り出しに戻った。やはり僕と父は、最初から二人暮らしなんだ。母親はいない。なぜかは、わからない。

 父は、アルミを扱う金属メーカーに勤める、ごく平凡なサラリーマンだった。父の転勤で、僕は小学三年から五年まで、ジャカルタで暮らした。父の仕事は、順調なようだった。でも、ほぼ家にいなかった。僕が目覚める前に出勤し、帰宅は深夜だった。

 ジャカルタでは、僕は家に閉じこもる毎日を過ごした。日本人は周りにたくさんいたけれど、僕は友だちを作らないようにした。他人の家庭を見るのは愉快ではなかったから。身の回りのことは、華僑の家政婦が見てくれた。僕の性格は、ジャカルタでの静かな生活によって形成された。

 僕のの家は、東京都西部の典型的建売住宅だった、二階建てで、一階に広いダイニング・ルームがあり、奥に父の書斎と寝室があった。二階は二部屋、明らかに子供部屋だった。早朝から真夜中まで、僕一人がこの家を独占した。チャンネル争いも、メインディッシュの取り合いも、お風呂の順番も、トイレに困ることもなかった。

 僕は小学一年から、自分でパンを焼いて朝食にした。マーガリンを塗り、ジャムを塗り、サラダやハムを挟み、サンドウィッチにした。

 次第に僕は、カレーやスープを自分で作るようになった。でも毎日は億劫なので、夕食は蕎麦かうどん。冬になると、スーパーで売っている小さな鍋セットばかり食べていた。日本では家政婦はいなかったから、小学生の僕はそれなりに自活していた。

 僕は、漫画少年だった。自分で作品を考え、厚紙にインクで絵を描いて仕上げた。単に絵柄だけでなく、コマ割りや1ページごとの完成度にもこだわった。当時の僕の夢は、「週刊少年ジャンプ」で連載を持つことだった。ジャンプが募集する、懸賞に何度も応募した。中学で漫画クラブに所属し、作品を作り続けた。


 そんな平凡な僕に、青天の霹靂が起こった。それは、中学三年のことだ。驚いたことに、父と母がよりを戻したのだ。母が姉を連れて来て、この家で一緒に住むことになった。父と母は、離婚していなかった。別居生活をしているだけだった。だから、この家への帰還は、表向きスマートだった。二人は、元の鞘におさまったわけだ。

 おそらく母と父は、姉の世間体を気にしたのだと思う。また、姉の大学卒業までの教育費も、母一人では支払えなかったのだろう。僕の知る限り、父と母が親しげに話すことはなかった。二人は子供のため、姉のために、仮面夫婦を演じることにしたのだ。

 とはいえ、僕にとってこれは大変な出来事だった。母も姉も、記憶はもちろん認識すた一切なかった。だから、赤の他人と急に生活するようなものだった。家を独り占めしてきた僕は、自分の部屋に押し込められた。この居心地の悪さと不自由さは、想像以上のストレスだった。

 母は父より年上で、おまけに下品だった。。派手でセンスのない服を好み、とても大きな声でしゃべり、よく笑った。「進」と母が僕を呼ぶたび、僕は胃液が喉に逆流するような苦さを感じた。

 つまり、銀子と同じだ。僕は、母を受け入れられなかった。多分この人が、自分の実の母なのだろう。でも幼い日々の欠落は、いかんともし難かった。血が繋がっていても、見ず知らずの母親と上手くやれるほど、僕は大人ではなかった。

 さらに困ったのは、姉の存在だ。姉は、碧(みどり)という名だった。高校二年生の姉は、飛び上がるほど可愛いかった。この父と母から彼女が生まれたのかと、目を疑うほどだった。大きくはないが、光る瞳を持つ目。瞳の中心には、いつも煌めきがあった。細い眉毛。すらっと細い鼻筋。少し濡れたような唇。締まった顎。どれも、素晴らしかった。

 姉の髪は栗毛色だった。中学からテニスをしているそうで、陽に焼けているのだろう。背中まで伸びた髪を、姉はしょっちゅう後ろで結んでいた。その髪型も、彼女によく似合った。これは、初恋だった。僕は、血は繋がっているけれど、赤の他人同然の姉に恋したのだ。

 これは困った。本当に困った。僕は自然と、母と姉を避けるようになった。四人そろっての夕食は、数日しかもたなかった。僕は自分の部屋に隠れ、姉は僕の隣の部屋にこもった。

 姉の部屋からは、夜中までバラエティ番組の音が聞こえた。部屋で漫画を描いている僕にとっては、隣の物音がテレビにかき消されて助かった。もしも、衣ずれの音が聞こえたら?ファスナーを下ろす音が聞こえたら?僕は、何も集中出来なかっただろう。

でも真夜中に目が覚めて、トイレに行ったとき。僕は思いついて、浴室に入ってしまった。電気をつけ、洗濯機の蓋を開けた。中にある、汚れた衣類をかき分けた。そして見つけた。姉のショーツを。それは、ストッキングに絡まっていた。姉が、いっぺんに脱いだことがわかる。

 それはブルーで、縁に白いラインが入った。テニス用らしいショーツだった。母のものではない。姉のものだ。僕は洗濯かごから、ストッキングに絡まったショーツを取り出した。床に腰を下ろし、両手でそれを握った。顔を近づけ、細部まで検分した。

 素晴らしい瞬間だった。僕は、心地よい満足感に包まれた。僕は姉のショーツを見て、しばらく恍惚としていた。しかし、すぐに我に帰った。こんなところを家族の誰かに見られたら。それは、身の破滅だった。僕はそっと立ち上がり、名残惜しいけれどショーツを洗濯かごに戻した。


 姉と僕の間に、会話はほとんどなかった。せいぜい「おはよう」程度だ。おそらく姉も、僕と同じ気持ちだったのだ。突然多感な15才の弟を持って、どう接したらいいかわからなかったと思う。そんな僕と姉が、薄い壁一枚で仕切られただけの部屋にいた。自分の部屋すら、僕は居心地が悪くなった。

 春になり、僕は公立の進学校に入学した。その高校は、家から車で30分くらいかかる場所だった。そんな遠くの学校を選んだのは、第一にこの家から離れたかったからだ。第二に、横浜に近かったから、都会のイメージがあった。都会には、きっと新しいことがある。新しいことが、姉と母を塗りつぶしてくれればいい。僕は、漠然とそんなことを考えていた。

 しかしそれは、無駄な抵抗だった。家でたまにすれ違う姉は、ますます綺麗になった。部活を引退すると、大学受験のために、姉は部屋にこもるようになった。僕は彼女に気を使って、部屋で音楽をかけたり、大きな物音を立てないようにした。すると、さらさらさらと、姉がペンを走らせる音が聞こえる気がした。勘違いかもしれない。でも僕には聞こえた。その音はまるで、そよ風のようだった。

 高校一年ともなると、男同士でキワドイ話をするものだ。クラスメイトの女の子が、僕らの妄想の犠牲者となった。

「蒲原って、いいケツしてるよな」

「同感!」

「いや、蒲原はデカイだけじゃん。清水の方がいいよ」

「え〜、清水って陸上やってるから、ケツは筋肉だぞ」

「締まってるから、いいんだよ」

「納得いかね〜」

 いつも、こんな調子だった。こんな話に参加しているとき、僕は姉を想った。姉はこのクラスのだれよりも、いや、この学校の誰よりもいい女だ。そう考えて、僕は誇らしい気持ちになった。つまり僕は、実の姉に恋することに慣れてきた。許されぬ恋に、良心の呵責を感じなくなった。頭がもう、麻痺していた。だから、あんなことをしたのだ。

 姉は学校帰りに予備校へ通い、ほぼ21時きっかりに帰ってきた。彼女は部屋で着替えて、まずお風呂に入る。すっきりしてから遅い夕食を食べ、それから部屋で勉強をする。毎日きっかり、1時まで。とても規則的だった。

 規則的だったから、僕は汚れた企みを思いついた。もちろん、悪いことだと思った。後戻りできないラインを超えると思った。だが、魅惑がそれらに勝った。抵抗できない力が、僕を操った。

 我が家の風呂は、一階の北側にあった。風呂の外はすぐ塀で、その先は隣の家だった。風呂の窓から塀まで、1mもない。おまけに、灯りもなくて真っ暗だった。その暗がりに、僕は忍び込んだ。まるで闇を好む、不気味な甲虫のように。

 毎日姉が風呂に入ると、僕はそっと部屋を出た。裏口から外に出て、忍び足で風呂場の前に立った。風呂の窓を、少し開ける。最初はムワッと大量の湯気が出る。だがそれに耐えると、視界が開ける。目の前に、姉がいた。女性らしく、全身をくまなく洗っていた。

 あまりにも、呆気ない犯罪だった。姉は、全く気がつかなかった。僕は、彼女の身体を凝視した。この美しい生き物の、あらゆる部分を記憶しようと努めた。でも、カメラは使わなかった。危険という判断からだ。あくまで、自分の両眼を使った。

 初めて姉の入浴を覗くようになって、一週間が経った。知らず知らず、僕は警戒心が緩んでいた。風呂の窓の前に立ったとき、突然「進!」という怒鳴り声が聞こえた。

 僕はその声の主に、首ねっこをつかまれた。風呂と塀の狭い通路から、庭に引っ張り出された。父だった。風呂場から、姉の「何?何?」とうろたえた声がした。父は僕を、庭に引き倒した。そして僕に、馬乗りになった。そして僕の顔を、両手の拳で一発、二発、三発、・・・と続けて殴った。

 父は、大人しい人だった。父と二人で暮らしていたとき、僕は父から体罰を受けた覚えがない。むしろ暴力全般を、否定するタイプの人だった。だから、その夜の父は異様だった。父は力を込めて、僕を殴った。何発目かで、ガキっというすごい音がした。前歯が折れたのだ。でも父は、殴り続けた。折れた前歯が、口の中で踊った。その歯のせいで、口の中は傷だらけになった。

 父は、泣いていた。僕を殴りながら、おいおいと泣いていた。ようやく僕は、これで合点がいった。父は、姉の風呂を覗いた僕を、罰しているのだ。当然だ。殴られて、当たり前だ。僕もそう思った。だから、抵抗しなかった。父に五十発くらい殴られて、僕の顔はボコボコだった。次の日から僕は、一週間学校を休んだ。

 それから姉は、毎朝早く家を出るようになった。夜は、予備校の自習室で勉強をして、23時頃に帰るようになった。つまり、僕が目覚める前に家を出て、僕が夕食や風呂を済ませて部屋に入った後、帰ってきた。僕と姉は、一切会わなくなった。

 僕も変わった。母はもちろん、父とも話さなくなった。僕なりに、罪悪を背負った。家にいると、何をしても、何を話しても、僕の覗き行為に行きつく気がした。僕は、家から逃げた。自転車で20分かかるファミレスに、夜中までバイトをすることにした。僕は、姉よりもさらに遅く帰った。父よりも母よりも、遅く床についた。


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