第九章 久遠の呪詛に緑風は打ち勝つ

第九章 久遠の呪詛に緑風は打ち勝つ 1

 一同が平野に向かう数刻前。はるか先にそびえる大城山をひたと見据えて、男は静かに馬の歩を進めていた。


 翻る旗印は闇夜に輝く銀の月――妖を退治する月士の象徴ともいえるものだ。男の一族、日下くさか家は代々帝に仕え、朝廷に従わぬ各地の山の主を退治し屈服させてきた。退治した妖は数知れず、月士に日下ありと言わしめるほどに妖退治に長けた一族だった。だが、その日下一族をもってしても屈服させられなかった山の主、それが柚良だ。幾度となく仕掛けた侵攻を全て防ぎ、彼女は大城山の独立性を保ってきた。


 それも今日で終わる。そのことを想像するだけで、男は愉悦に打ち震えた。


「待っていろ……私がこの手で全てを終わらせてやる」


 喉を鳴らすように男が笑う。柚良の首級をあげ、大城山を落とすこと――それこそが日下一族の悲願である。その目的を達成するためならば、どんな手段もいとわない覚悟で全てを捧げてきた。悲願のために男は心血を注ぎ、幾重にも準備を重ねてきたのだ。


 ひょろろろ、ととびの鳴く声が響く。まるで戦の開始を告げる鏑矢の音のように、その声は平野に大きく響き渡っていた。




 市伊たちが神木村を出てすぐ、西の方からは地響きのような音が聞こえてきていた。大城山の妖と朝廷の軍勢が戦う音なのだと気づいて、市伊は背筋が凍るような思いがした。自分達村人には牙を向けぬ妖たちが、人と戦っている――その事がひどく恐ろしくもあり、また同時に頼もしくも思えた。


「柚良さま! 前線まで来てはなりません。後ろにお下がりを」


 軍勢の最後尾が見えるかどうかと言うあたりまですすんだところで、ばさりと羽ばたく音と共にひとつの大きな影が舞い降りた。聞き覚えのある声に、市伊も弾かれたように顔をあげる。空から降りてきたのは、市伊の父親であり大城山の守護獣のひとりでもある大天狗だった。


翠鳳すいほう! 無事であったか。此度こたびも前線を任せてしまってすまぬな」

「何をおっしゃいますか。あの卑劣な人間どもから大城山を守ることこそ我らの役目。柚良さまがお出になるまでもありません」


 紫金も大も柚良さまをこんなところまでお連れして何をしている、と憤慨する大天狗に、二匹の獣は首を振って答えた。これは柚良さまの強いご希望なのだ、と。瞳に強い意思をたたえた女神は、渋い顔で黙りこんだ大天狗へ淡く微笑んだ。


「この二人を責めてはならぬ。わらわはこの戦い――日下一族との戦いに終止符を打つためにここへ来た。この手であの男の悪行を終わらせねば」

「しかし、危険すぎます……手段を選ばぬあの男が何をしてくるか、わかったものではない」

「日下とて所詮は人の子。神に人が敵いはせぬ。翠鳳、わらわが今までに負けたことがあったかの?」


 まるでだだっ子を説得するかのような口調に、大天狗は深くため息をつきながら首を振った。こうなった柚良がてこでも意見を翻さないのは市伊でもよく知っている。しばらく沈黙した大天狗は渋々といった体でその要求を承諾した。


「わかりました。くれぐれもご無理はなさらぬようお願いしますね」

「心配はいらぬ。神に楯突くということがどれほど畏れ多いことなのか、とくと見せてやろうぞ」


 不適に笑ってみせた女神にもう一度言い含めるように釘を刺してから、大天狗は道をあけた。微かに柚良が唇を震わせると、神力が一気に広がって結界を形作る。さあ行こう、とまるで散歩に出掛けるかのような気軽い言葉と共に、一行は戦の中へと進み始めた。


 柚良の結界は攻撃を弾くものだけでなく、自分達を視認させにくくするものでもあるらしい。そう市伊が気づいたのは、戦場へ入って幾ばくもしないうちだった。矢が飛んできたり敵に狙われることがないのはもちろんのこと、柚良を知っているはずの味方の妖ですら一切柚良に気づくことはなく、それでいて彼女の進みたい方へ道が勝手に開ける。人間がこの術を成そうとすれば、いったいいくつの術を重ね掛けした上で膨大な霊力を費やさねばならないのか。想像するだけでも気が遠くなりそうな代物だった。


(やはり、柚良さまは「神」なのだな……)


 改めて気づかされた事実に、市伊はひどく打ちのめされた。自分は一介の人間であり、本来であれば彼女と言葉をかわすことすら許されない立場だ。柚良が傍にと望んでくれるからこうして関わることができている。神と人という明確な力差がある中で、市伊が抱く彼女を守りたいという望みさえ本当はおこがましいことだ。その事をよくよく自覚しなければいけない。そう思わされるほどの違いがそこにはあった。


「そろそろ本陣の近くじゃ。人間の子らよ、何があってもわらわの結界から出るでないぞ。あやつと対峙するのをとくと見ておれ」


 柚良のその言葉に、市伊は現実へと引き戻された。いつの間にか戦場を抜け、いくつも月士の旗が翻る場所へと差し掛かっている。意識をそちらへ向けたとたん、胸のうちでじりじりとくすぶっていた「警告」が一気に膨れ上がり、まるで全身を針で刺されたかのような感覚に陥る。今までとは段違いの「敵意」だった。


「市伊、もう少し心を閉ざさねばあの男の悪意に飲み込まれるぞ」


 低く呻いた市伊の様子に気づいたらしい大天狗がそっと近づいて耳打ちをする。そんなことを言われても閉じ方などわからない、と首を振ると大天狗は一言断ってから市伊の両手をとった。印を組め、という言葉と共に指を複雑な形に組まされ、何かの術式らしいものを復唱させられた。


「我、内なる扉をす――るもののみ半分閉じよ」


 その言葉を唱えた瞬間、突き刺すような痛みは半減した。大天狗いわく「予知」の感度を半分ほど制限したらしい。もとに戻す方法もあわせて伝授したあと、大天狗は市伊から離れていった。

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