第八章 臥花の野に赤光は満ちる 2

 ぎり、と葛良は爪を手のひらに食い込ませてなんとか意識を保ちながら、足に力を入れて立ち上がる。その様子をみていた女神は、ほんの少しだけ感心したように目を見張った。お前を倒すまでは何度だって起き上がってやる。葛良がそう吐き捨てると、女神は目を細めて美しく笑った。


「こんな扱いを受けてもなお、父親のために死ぬのか」

「黙れ!! お前がいなければ、私は融と別れて都に連れて行かれることも、他の月士から死んだほうがましだと思うような目に合わされることもなかった……!」

「わらわがいなければ、自分は幸せになれたと?」

「そうだ! お前さえいなければ……!!」


 どす黒い感情が胸の中を侵食していく。ふつふつと湧いた怒りが体中を巡り、支配する。激情のまま印を組んで術を女神にぶつけたが、それはいとも簡単に薙ぎ払われた。まるで飛んできた虫を払いのけるかのような、そんな仕草だった。二度、三度と攻撃を重ねても、力の一欠片さえ彼女に届くことはない。彼女は「神」で自分は「人」である、ということを再認識させられて、葛良は悔しさに唇を噛んだ。


「まだ立てるとは、強い娘じゃの。あんな父親に囚われなければ、幸せな人生を歩めたろうに」

「すべての元凶はお前だ。お前を倒さねば、私は不幸なままだ……!!」

「恨む相手を間違っておるな。そなたの不幸を生み出したのは父親であってわらわではない。思考まで身の内の悪鬼に操られてしまっておるのかの?」


 ふわり、と袖を翻して女神が一歩踏み出した。反撃されるのかと身構えた葛良に向かって、女神は静かに首を振った。私の不幸を生んだのは父だ、という声と。そんなものは認めたくない、という声が葛良のうちでせめぎ合う。


 ふと『神を憎め。そうすれば内なる力は満ちるだろう』という父の言葉が脳裏をよぎった。あれはもしかして、葛良の憎しみが自分に向かないようにするためだったのだろうか。渦巻く疑問はどんどん大きくなり、四肢にみなぎる力が少しずつ抜けていく。再び膝をついた葛良に、再度攻撃をする力は残っていなかった。


「わらわと血を同じくする娘よ。呪いを打ち砕き、幸せを掴み取る覚悟はあるか」

「あなたの命を狙った私に慈悲をかける、と?」

「わらわにできるのは、ただ二つ。その悪鬼を体からつまみ出し、禁術を体の奥深く封じること。その後どうするかは、そなた次第じゃ」


 全てを育む豊かな大地の色を宿した瞳がじっと葛良をのぞき込む。都に連れ去られたときからもう、自分の手で幸せを掴み取ることは諦めていた。せめて地獄からは抜け出したいと血の滲むような努力を重ねたが、結局どこまで行っても地獄のままだった。最後にほんの一ヶ月だけ、想い人の融ともう一度過ごす事ができた。それだけでもう自分には十分だと思ったけれど。もし、彼女の言うとおり自分を縛る戒めから解き放たれて、自由の身になれるのなら――そう期待してしまう自分がいた。


(でも、そんな事をすればこの村はすぐ都からの軍勢に滅ぼされてしまう)


 淡い期待を打ち砕くように、父の言葉が蘇る。『お前が裏切るか、もしくは任務に失敗した場合、村もろとも帝に反意ありと見なし、総攻撃を開始する』そう言われ、葛良はすべての退路を立たれてこの村へやってきた。ここで自分が任務を果たさねば、村は焼け野原になってしまうのだ。


「そなたが任務に成功しても失敗しても、あの男は山一体を焼き滅ぼす気でおるぞ」

「嘘だ! 任務に成功すれば、ここに手出しはしないっていってたもの……!!」

「ならばこれを見てみよ。この旗頭がそなたの父であろう?」


 袖をひとふりし、そばにある池へ女神が映したのは、村からほど近い街道だった。道を埋め尽くす大軍が、神木村に向かって進んできている。その中でひときわ目立つ旗印があるのをみつけて、葛良は思わず息を呑んだ。騎馬にまたがり軍を率いるのは、黒の衣装に銀糸で刺繍された月を身にまとう一人の男だ。ひと目見て、それが女神の言うとおり葛良の父だとわかった。


「そんな……どうして……」


 唇をわななかせて食い入るように池の光景を見つめる葛良に、あやつはそういう男だと女神は吐き捨てた。幾重にも策略を張り巡らせて、己の望む結果を引き寄せる。決して誰も信用することなく、人を人とも思わず、平気で人を捨て駒として扱う。それが葛良の知る父の姿だ。そのことを誰よりも知っていたし、覚悟していたはずだったが、どこかで親子だからという信頼があったのかもしれない。あの男はそんな葛良の一欠片の情ですらも利用し、あざ笑うかのような作戦を立てていたのだ。最後の砦としてしがみついていた場所があっけなく崩れていく。


 ぱたり、と耐えきれずこぼした涙で水面の景色が揺れた。


 この男は自分を地獄に落とすだけでは飽き足らず、すべてを根こそぎ奪っていくのか。言葉にならない慟哭どうこくが喉から溢れ出る。胸のうちをひたひたと満たす絶望に、乾いた笑いがこぼれた。葛良の手のひらにほんの小さく残された最後の幸せだけでも守れたら、と思ったのに。それすらも守れないほどに自分は無力で愚かだった。


「……心は決まったか」


 葛良が胸のうちの感情をすべて吐き出してしまうまで、女神は何も言わず見守ってくれていた。こんなぼろぼろの身体の人ひとりを殺すことなど容易いはずなのに、彼女はそれをせず、あまつさえこの身に巣食う悪鬼と禁術を封じてやろうと言う。なぜそんなにも慈悲をかけるのだと問うと、女神は寂寥せきりょうの色を浮かべながらそっと目を伏せた。


「わらわも昔……おなじように許嫁と引き離され、添い遂げられなかったのじゃ」


 だからそなたには幸せになってほしい。そう零した彼女は、すこしこころもとなく微笑むひとりの少女のようだった。

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