第七章 ゆれる天秤が傾く先は白か青か 2

 瑞希が葛良と一緒に談笑している――その事実に必死に混乱する頭を落ち着かせ、思考する。瑞季を奪還するにはどうすればいい。何と声をかければいい。今でていって葛良の取り巻きと戦えば、確実に市伊の方が悪者になってしまう。寝ていてさえくれれば、力にものを言わせて奪うことも出来るのに。


『臆するな、市伊。瑞季が信を置くのはどちらだ』


 びゅう、と風が一つ吹いた。熱くなっていた頭がすうっと冷えていく。この声は、天狗の声だ。いつも見守ってくれていた天狗たちの一人。何度か言葉を交わしたことのある彼の声が、なぜかひどく懐かしい響きをしていることに今更ながら市伊は気づいた。


『ゆけ。我が援護する。雑魚は捨て置き、ただ瑞季を取り戻すことだけに念を置け』

「……わかった、そのとおりにやってみよう!」


 小さなつむじ風がいくつも渦巻き、ごうっと音を立てる。どうやら天狗の秘宝で取り巻きたちを吹き飛ばすらしい、と気付いたときには、ひときわ強い風がうなりを上げて吹き荒れていた。


『ふせろ!』


 市伊もその風に巻き込まれるのをすんでの所で避け、体勢を立て直す。瑞季は何も気付かず大きな風にびっくりした顔をしていたが、葛良は悔しげな表情で周囲を確認していた。何を仕掛けられたのか、気付いたようだ。間髪入れず、市伊はたまたま通りがかった風を装い、二人の前に姿を現した。


「瑞季、奇遇だな。何でこんな所にいるんだ?」

「あら、兄さんこそ。こんなところで会うなんて。あのね、新しく機織り所で仲良くなった子なの。香乃さん、ていうのよ」

「そうか。香乃さん、はじめまして。うちの妹がお世話になっているね」


 とびきりの作り笑いを貼り付けて、紹介された葛良のほうへと向く。彼女のほうも瑞季の友達と言う役目を演じることにしたらしい。ぺこりと一つ頭を下げて小さく挨拶したあと、うつむいたまま瑞季の影へと隠れる。全く手が込んでいる、と心の底で悪態をついて、市伊は言葉を続けた。


「瑞季、村を出るとき榎木さんに聞かなかったか。いま大規模な山の捜索をしていることを」

「捜索? そうなの、気付かなかったわ」

「村に来たお偉いさんの手伝いをしてるっていっただろ。もうすぐここにも人が来る。危ないから、早く山を下りるんだ」

「そんな……せっかく香乃さんとここまで来たのに。ね、少しくらい大丈夫でしょう?」


 お願い見逃してちょうだい、と舌足らずな猫撫で声で瑞季は市伊を見上げた。じり、と胸を焼く『警告』がひときわ強くなる。その二つで確信した。瑞季は市伊に危険だといわれれば絶対に村へ帰るし、気持ち悪い媚びた声も出さない。これも含めて、全部葛良が仕組んだ罠なのだ。


「葛良、おまえ瑞季を操っているな……?」

「おや、もう知らない人のふりは止めたんですか? おにーさん」

「気持ち悪い猫なで声のおかげでわかったよ。あいつはあんな声出さない」

「へぇ……やっぱり手強いですね、あなた。融のいったとおりだ」


 くすくす、と葛良が笑った。すいっと人差し指がなにもない空間を切る。その瞬間、まるで操り糸を切られた人形のように瑞季はくたりと力を失い、葛良の腕の中へと倒れ込んだ。


「神域への行き方を教えなさい。そうすればあなたの妹さんは返してあげましょう」

「……断る、といったら?」

「おや、そんなにあの女神さまが大事ですか? 大切な大切な妹さんよりも?」


 勝ち誇った顔で、葛良は瑞季の喉元に手をかけた。市伊が瑞季を選ぶのをわかっていて、あえてそう聞いてくるところに余裕が感じられる。まるで獲物をなぶり殺しにするのを楽しむ獣のようだ。


「お前、柚良さまが何なのかわかっていてなお、退治しに来たのか」

「ええ、それが何ですか。民を庇護する役目は、帝お一人だけで良い。統べるものが増えれば、それだけ反乱の芽も増えます。大きく育ってしまわぬうちに、摘んでしまわなければ」

「帝が俺たちにどんな庇護を与えてくれると? こんな辺境の地の民など、捨て置けば良いだろう」

「ほら、それが反乱の芽なのです。あなたたちは帝に従わず、人外のものを崇め奉る邪教の民。私は道を外れた者たちをもう一度正しく導くために、ここへ来ました」


 まるで話が通じない。己の正義を信じきっているものは、えてして反する意見を聞き入れようとしないものだ。柚良の守護がいったいどれだけこの村を守ってきたかなんて見ようともせず「人間に従わない邪教の民を導く存在」だから殺せ、という。


「……神域に入って、どうするつもりだ」

「あの山神が大人しくこの山から出て行くというのなら見逃しましょう。ただし、抵抗するならば容赦はしません。私は帝から『神殺し』の許可をもらっていますから」


 迷いなく葛良はそう言いきった。抵抗すれば殺す。その言葉通り、柚良が嫌だと言えば彼女は迷いなく「神殺し」をやってのけるだろう。それだけの覚悟を滲ませた言葉だった。


 どうにも説得するのは無理そうだ、と市伊は悟る。とうとう自分の口で、柚良の居場所を明かさねばならないときが来てしまった。完敗だ、と呟いて肩を落とす。そのとき、ふわりと金色の影が横切った。


「──あなたが葛良、という方かしら?」


 玲瓏れいろうたる声が響く。しゃらり、と簪が涼しげな音を立てた。葛良は闖入者ちんにゅうしゃに少し驚きつつも、彼女が神獣であることをすぐに悟ったらしい。勝ち気そうな微笑みを浮かべ、すっと金狐の前へ進み出た。


「私が葛良ですが、あなたは?」

「わたくしは大城山を統べる山神の御遣いです。主の命により、あなたを迎えに来ました」

「話が早いですね。ならば、さっさと案内して下さい」


 ふん、と鼻をならして、葛良は瑞季を抱えたまま歩き出そうとする。それを紫金は一瞥いちべつして、そっと頭を下げた。


「承知しました。ですが一つだけ。無辜の民は巻き込まないでいただきたい。それが主の願い故、どうかその少女はお連れなさいませんよう」

「ほう……そんなにこの少女が──いや、この男が大事なんですね。よもや懸想でもしているのですか」

「人間と同じ物差しで物事を測らないで下さるかしら。我らにとって、交情など取るに足らぬもの。主には神木村の民たちを護る義務がある。ただそれだけのことよ」


 丁寧だが有無を言わさぬ紫金の物言いに、葛良も流石に言いすぎたと思ったらしい。機嫌を損ねてもいけないと思ったのか、紫金の方にひとつ頭を下げてからつかつかと市伊の方へと歩み寄る。差し出された少女をそっと受け取ると、瑞季は静かに寝息を立てていた。


「ただ眠らせているだけです。体に負担はかけていません。あなたの大事な方を人質に取るようなまねをして、すみませんでした」


 今更どの面を下げてそんなことを、と市伊は葛良を睨み付けた。その視線を彼女は真正面から受け止めて、深々と頭を下げる。そうして紫金の後に続き、葛良は神域へと姿を消したのだった。




「柚良様……どうして」


 二人の姿を見送ったあと、市伊は呆然とその場にたっていた。柚良が大と紫金を使わした意味。それは、市伊がただ彼女の手で護られたのだと言うことに他ならなかった。


 彼女はきっと知っていたのだろう。瑞季と柚良を選ばなければならない時が来ることを。そして、そうなった時に市伊が罪悪感を感じなくてすむよう、紫金に案内させたのだ。柚良が自ら招き入れたのであれば、それは市伊の過失ではない。そう言われているようでただただ苦しかった。


(護りたかった……護ってみせると、決めたのに)


 あなたはもっと人を頼りなさい。そう言い諭すような紫金の声が蘇る。何が正解だったのか。どの道が間違いではなかったのか。考えてみても答えは出ない。そこにあるのはただ、葛良を神域に入れてしまったという事実だけだった。


『──後を追わなくて良いのか』


 その場から動けないでいる市伊にそう声をかけたのは、先ほど風で援護をしてくれた山伏天狗だった。その言葉に市伊は弾かれたように振り返る。彼の姿は見えないが、胸が詰まりそうなほどの懐かしさを覚える声だった。それは、市伊の胸の奥深くでくゆる記憶と一致するものだ。


「……なあ、あんた。父さん、だろ」


 精一杯震える声を絞り出して、見えない姿に問う。長い沈黙のあと、深いため息と共に返された言葉は苦悩と悲哀に満ちた肯定だった。やはりそうだったのかという脱力感と、どうして家族を置いていったのか、という怒りが市伊の胸の中でい交ぜになる。それと同時に、父がいなくなっても母が探さなかった理由をやっと理解した。


「……我ら御遣いの役目は柚良さまの手足となり、大城山を護ること。八年前、この山は今と同じく危機にあった。都から来た人間に攻められたのだ」

「……まさか、葛良の父親が……?!」

「そうだ。大勢の月士とやらを引き連れて、柚良様の首を狙ったのだ。あいにくあの男には神木村の人間の血が流れておらぬ故、神域は侵されることなく山は護られた」


 それは初めて聞く事実だった。八年前にも同じように侵攻があったのだ。葛良の父親はその戦いに敗れ、彼女を連れて都に戻った。神木村の血をひく人間を月士に仕立て、もう一度この山を攻めるために。


「戦いが終わった後、戻ろうとは思わなかったのか」

「いつまたあやつらが攻めてくるかわからぬ。加えて、御遣いに家族がいると知れれば真っ先に狙われる的となろう。今回、銀星が狙われたように」

「だから……俺たちを置いて山に戻ったのか」


 二度と家族の元へ戻らないこと。それがきっと父なりの家族を守る方法だったのだと、市伊には理解できた。それでもせめて事実を伝え、時折姿だけでも見せてくれていたらと思わずにはいられなかった。父がいなくなった二年後に母親を流行病で亡くし、幼い瑞季と二人で生きていかねばならなかった心細さを、市伊は今でも鮮明に覚えている。


『……特にお前には世話をかけた。大きくなったな、市伊』


 ざあ、と風が吹いた。ぽんぽん、とあやすように頭を撫でられて、市伊は一粒、二粒と涙をこぼす。朱面に隠れて顔は見えないが、その大きな手と優しい声は昔のままだ。会いたかった。涙をごしごし拭いながらぽつりと零すと、寂しい思いをさせてすまなかった、と言葉が返ってくる。それでもう、十分だった。


『──瑞季は私が預かろう。お前は柚良様の元へ行け』

「俺は……柚良様の元へ行く資格がまだあるのか……?」

『お前でなければ務まらぬ。やり始めたことは最後までやり抜け』


 覚悟が決めきれない市伊を勇気づけるように、大天狗はばしんと背中を叩く。ほんと山伏天狗って乱暴だよなあ、と笑って、市伊はぐっと顔を上げた。


「行ってくる」


 お前なら大丈夫だ、という言葉に見送られて、市伊は神域へ向かって歩き出した。今の自分に出来ることは何なのか、今でもわからない。それでも彼女の傍であの笑顔を守りたいと願う。それだけは今も変わらぬまま、胸の内にずっとあった。

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