第四章 西方より黒月は来る 2

「しかし、いったいなぜ今になってここへ戻ってきたのですか?」

「それがなあ……」

「――じじさま。ここにいらっしゃるのですか?」


 事情を説明しようと口を開いたじじの声を遮ったのは、柔らかな女性の声だった。それがだれかを認識する前に、肌をぴりりと刺すような感覚が襲う。何かとしれぬ予感に、ひどく胸の中がざわめいた。やはり、この「予感」の正体は彼女で間違いない。そう確信して、市伊は声のする方に目を向けた。


「葛良。来客があるから出てくるなといったろう」

「じじさま、昔の私とはもう違うのです。私は『月士げっし』の陰陽師。正式な任務でここに来ました。人様の前に出てもおかしくない身分のはずです」

「人前に出ていい身分かどうかと、来客の話を妨げるのは、また別の話じゃ。まったく、行儀の悪い……」


 戸口のそばに立っていたのは、白い小袖に緋袴をまとい、胸のあたりまで伸ばした長髪を後ろで一つに束ねた娘だった。大人ぶってはいるがまだ少女っぽさが抜けきらず、瑞季とそう年のかわらない風に見える。渡に行儀が悪いとたしなめられた娘はわかりやすく不服そうな表情を浮かべ、唇をとがらせて食い下がった。


「私の話をしていたのでしょう。ならば、私自身が説明した方がよいのでは?」

「盗み聞きまでしとったのか……よいか、ここはわしが統括する神社であって、そなたの家ではない。あまりに奔放なふるまいをするならば、こちらにも考えがあるぞ」

「私は、帝の勅許をいただいた月士です。どう行動するかは私が決めます。その行動を妨げると言われるのであれば、それは帝に叛意ありということになりますが」

「ぬぅ……」


 葛良の語気が強まるのに合わせて、肌を刺す痛みが増す。これほどわかりやすい威嚇は初めてである。妖退治を専門とする『月士』とやらがどれほどの集団なのかはわからないが、気を引き締めたほうがよさそうだ、とは思った。どこまで感づいているのかはわからないが、この娘は明らかに市伊を警戒している。そうでなければ、わざわざ会話を妨げたりはしないはずだ。


「改めまして、市伊さん。お会いするのは、お久しぶりですね。帝直属の『月士』十五番、葛良と申します」

「元気そうでなにより。ここには任務できたと耳に挟みましたが……」

「ええ。帝の依頼で、この山に棲む邪な妖を退治に来ました」


 ぺこり、と葛良が改まったように頭を下げる。噂通りの自己紹介だ。きっと会う人会う人に同じことを言って回っているのだろう。さて、どこまで探ってみようか。市伊は慎重に言葉を選びながら、返答をする。


「それはまた恐ろしいことで。俺も薬草を取りに山へ入るが、そんな気配は感じたことはなかったな。よほど狡猾な妖なのだろうか」

「ええ、とても狡猾で力の強い妖ですよ。先日も罠を仕掛けて手下の妖を捕らえたのですが、なぜかすっかり逃げられてしまいました。罠には呪がかけてあったのですが……」


 くすり、と葛良が笑う。同時に、先日罠にかけられていたしゅによってけがを負った手がずきりと痛んだ。熟練した術者は、己のかけた呪がだれにかかったのか、感知することができるという。紫金に大見得を切って見せたが、なかなかこれは手ごわい相手かもしれない。あからさまな挑発に顔色を変えないようぐっとこらえながら、市伊は素知らぬ顔でさらに言葉を重ねた。


「あなたほどの術者の呪を打ち破るとは、なかなかの妖だ。きっと神木村……いや、この国全体を脅かすようになるかもしれないな。何か、あなたの助けになれればいいのだが」

「ほう……市伊どのが手助けをしてくれるとなれば、心強い。ご協力をお願いしても?」

「もちろん。俺の協力があなたと帝の助けになるならば、喜んで」


 にこり、と市伊が微笑んでみせると、張りつめていた葛良の表情が少しだけ緩む。どうやら、確信をもってこちらを警戒していたわけではなさそうだ。敵を知るにはまず、懐に入り込み、信頼を得なければならない。彼女の言う「狡猾で力の強い妖」がだれのことを指すのか。帝の依頼とは、一体なんなのか。それを知らなければ、対抗手段は講じられない。


「では、市伊どの。あらためてご協力いただける内容についてお話したいので、明日改めて神社に足を運んでもらえないだろうか」

「わかった。では明日、昼過ぎにうかがおう」


 ここらが潮時だろう。これ以上渡とは話せそうにもないので、市伊は素直に葛良の言葉に従い、腰を上げる。何か物言いたげな渡の視線をかわし、二人に短く別れの言葉を継げて神社を出た。平和な村の中で必要のない駆け引きの術を使うのは、いつも以上に頭が疲れる。はやく家に帰ってゆっくり休みたかった。


 どっと疲れを自覚した体をもうひと頑張り、と奮い立たせて鳥居をくぐる。だが、後ろからかすかに砂利を踏みしめる音が追いかけてくるのに気づき、足を止めて振り返った。そこにいたのは、市伊が神社にきた時に案内を頼んだ青年だった。


「市伊さま。渡様から、これを預かって参りました」

「じじから?」


 手渡されたのは、滑らかな触り心地の布に包まれた、手のひらに乗るぐらいの小さな箱。いぶかしみながらその布を開き、市伊はその中身に目を見開いて絶句した。


「ちょっと待った。こんなもの受け取れるわけないだろ」

「いいえ。これは必ず市伊さまにお渡しするようにと、厳命されておりますので」

「そうは言ってもな……」


 包みを返そうとした手をそっと押し戻されて、市伊は困惑の声を上げる。包みの中に入れてあったものは、本来神社から持ち出してよいものではない。常に神社とともにあり、その結界地を護るための、神聖なる物だ。代々神社の神事をつかさどる者にのみ受け継がれ、正しく神に選ばれたことを証明する証。それがいま、なぜ市伊に届けられるのか。


「渡さまは、『狐の数珠』をお持ちの市伊さまにしかこれを護れない、とおっしゃっておりました」

「どういう意味だ……?」

「『狐の数珠』とは、相手にその心のうちを気取らせず、術をもって身を改められることを防ぐものです。弱い呪であれば跳ね返し、命に関わる強い呪から一度だけ身を護ってくれる。あなたは今、この村で一番強力な加護をお持ちなのですよ」


 青年の口から語られる数珠の効果は、市伊の想像をはるかに超えるものだった。紫金はこれを授けてくれはしたものの、効果については一切口にしていなかった。きっと、市伊が数珠頼みの危険な行動を取ることを予測してのことだったのだろう。しかしそれを聞いても、まだこれを受け取る決心はつかなかった。


「それは解った。だが、もしこれを俺がもっていることがばれたら、今度こそ本気でとおるに命を狙われかねない。俺の手には余る」

「そこはまあ何とか上手くやってくれ、とのことでした……」

「押し付け方が雑すぎるだろ……」


 じじらしい、とげっそりした顔で市伊はつぶやく。昔からこうなのだ。彼は市伊の力を過信しすぎているのでは、と多々思う場面がある。だが、なんだかんだどうにかしてしまう自分も自分で悪いのかもしれない。このまま青年に包みを持たせて帰らせれば、葛良に気取られ奪われる可能性がある。そのことに市伊が気付き、渋々受け取ることまでじじは計算しているはずだ。本当にいい性格してるよな、と恨めしげな声で呟きながら、市伊はそうっと包みを受け取った。


 両手で包むように持つと、ほんのりと温かみを感じる小さな布の塊。滑らかな手触りの布に包まれた小さな小箱に、水城神社のご神体が収められている。その正体は、大昔に大城山に生えていた桜の古木から切り出した勾玉だ。その古木は、柚良の前に大城山を治めていた桜の精だ、という話を昔じじから聞いたことがある。朽ちて亡くなってもなお、水城神社と大城山を守ってくれている愛情深き古木。その守護はまるで春の日差しのように暖かく、咲き誇る満開の花のように凛と澄みきっていた。


「これの処遇は俺のほうで何とかしよう。届けに来たあんたもどうか気取られぬよう、身を守っていてくれ」

「ありがとうございます。お互い、無事でいられますよう」


 そういって、青年と市伊は別れた。名も知らぬ青年ではあったが、危険を承知でじじがよこしたのであれば、ある程度の実力と才能を持つ者にちがいない。きっと、身を守るすべも学んでいるだろう。そう自身を納得させて、市伊は神社から立ち去る足をさらに速めた。一刻も早く、懐にあるご神体を安全な場所へ届けなければ。目指すは狐の祠。智謀と策略に長けた紫金のもとを訪れるべく、市伊は大城山へと向かったのだった。

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