第三章 紫紺の闇に浮かぶ星は揺れて 3

 子狐を助けた日の夜。


 珍しく寝付けないでいた市伊は外の風に当たろうと、家を抜け出すことにした。妹を起こさないように足をしのばせて土間へ下り、ゆっくり扉を開ける。新鮮な空気を深呼吸して吸い込むと、重たい頭がすっきりする感じがした。


 扉を閉める前にもう一度妹がしっかり寝ていることを確認してから、音を出来るだけ立てないように引き戸を引く。もし、目が覚めて市伊がいないことに気付いたら、心配してあたりを探すことになるのは容易に想像がついた。まあ、そんなに遠くまで行かないからたぶん大丈夫だろうけど、と市伊は一人ごちて、心地好い初夏の風を受けながら歩き出した。


 聞きなれたせせらぎの音をたどって、村近くを流れる川の辺の方へと足を伸ばす。川に近づくにつれてひとつ、またひとつと明るい黄緑色の光が現れ始めた。そういえばちょうど蛍の時期だったか、と最近はめっきり見る機会が減った光景に目を細め、その光景を眺める。


「……?」


 しばらく蛍があたりを舞う様子を見つめていた市伊は、ふとその中に見慣れないものが混じっているのを見つけ、首をかしげた。蛍のものとは明らかに違う、青白い光。人魂ひとだまとも狐火とも取れるその光の揺らめきは、どちらかというと焔に近い。


「俺を……呼んでるのか?」


 興味本位で近寄ってみると、焔はふっと消えて別の場所に現れる。始めは逃げているのか呼んでいるのか分からなかったのだが、こちらが足を止めて見せると向こうも止まるので、どうやら市伊をどこかに連れて行きたいらしい。


(怪し火には近づくな。黄泉の国へ連れて行かれるぞ)


 昔、市伊が人とは異なるものが見えることを知っていた村の神主のじじは、何かにつけてそういっていたっけ。一瞬そんなことも頭をよぎったが、もしこれが狐火だったとしたら、昼間の出来事と何か関係があるかもしれない。 そう思った市伊はその忠告を無視して、焔についていくことに決めた。


 近づいては離れ、近づいては離れ。 いったい何度それを繰り返しただろう。気付けば市伊は森の中で小さな社と対面していた。


「……稲荷神社……?」


 かすかにあたりを照らす月の光を頼りに目を凝らしてみれば、両脇には狐の像が二体ある。 この山に稲荷神社なんかあったのか、と少し驚き半分に社を眺めていると、ここへと導いた狐火が突然掻き消えた。かわりに現れたのは、紫色と金色の光。


「――あなたが市伊?」


 まるで鈴を鳴らすように零された音が言葉だと頭で理解できるまで、少し時間が掛かった。 この世のものとは思えぬ声にかろうじて頷くと、光は淡く煌めいて人の形を取る。流れ落ちるような白金の髪に紫色の瞳。 藤色の着物に身を包んだ女人は頭にさした簪をしゃらりと涼しげに鳴らし、目を細めて笑みを浮かべた。


「わたくしの名前が分かる? 市伊とやら」


 彼女の名前。昼間、天狗たちは彼女をなんと呼んでいたのだったか。けれど、それを思い出そうとする前に、するりと勝手に言葉が滑り出た。


「天かける大狐、紫金さま……?」

「ご名答。わたくしが紫金よ」


 市伊の言葉へ満足そうに紫金が頷く。どうやら第一関門は合格らしい。ほっと息を吐いて様子を伺っていると、彼女はすっと面を下げた。


「昼間は愚息が世話になりました。心からお礼を申しあげます」

「……かなり天狗に助けてもらったので俺一人の力ではありませんが、助けられて良かったと思います」


 一言一言かみ締めるように言われた言葉に、少しばかり戸惑いながら答える。天狗たちの力添えがなければ、自分一人の力では到底助けられなかった。 そう思って言ったのだが、紫金はその言葉に少し押し黙ったあと、ゆっくりと口を開いた。


「天狗、とはどの天狗たちのことかしら?」

「えーと、赤い面に高下駄の……」

「ああ、山伏天狗ね。それなら合点もいくわ。どうも、木の葉天狗や烏天狗があなたに力添えするようには思えなかったものだから」


 それを聞いたとたん渋面になったのを見て、紫金はいたずらっぽく笑った。 どうやら市伊がどのような目に合わされたのか、想像がついたらしい。


「ところで、彼らがあなたにした手助けとは何かしら?」

「天狗の扇で罠の場所まで送ってもらったのと、罠にかけられていた術のとき方を教えてもらいました。直接罠に手をかけたり術を解いたりしたのは俺ですけど……」

「では、天狗たちが直接手を下したわけではない、というわけね?」


 確認するように返された言葉に、市伊は大きく頷く。万が一、天狗たちが今回のことで罰を下されるのは嫌だった。市伊が質問の意図を感じ取ったことはどうやら彼女にも分かったのか、真剣な目つきで問いかけていた表情が少し緩む。


「その様子からすると、山の掟も知っているみたいね」

「今日、天狗たちから聞かされました」

「そう……」


 答えに考え込むようなしぐさをした紫金を見て、少しばかり不安がよぎる。 何か、掟に触れる部分があったのだろうか。しばらく表情を曇らせたまま紫金と向き合っていたのだが、彼女は不意に相好を崩し手を打って笑い出した。


「山伏天狗たちの勝ちね! ほら、そろそろ観念して姿を現しなさいな」


 手にはめられた細い腕輪がしゃらしゃら鳴らされるのと同時に、もうひとつ闇の中に人の姿が浮かび上がる。それを見て、市伊は見事に仰天した。


「柚良さま?!」

「三日ぶりじゃの、市伊。元気にしとったか」

「ええ、おかげさまで」


 苦りきった顔をして滑るように出てきた少女を見て、先ほどの驚きは完全に引っ込んだ。 そっけない様子で元気かとたずねる柚良はふてくされているのが丸分かりで、驚きの表情から一転苦笑が浮かぶ。 今日の女神さまはかなりご機嫌斜めらしい。


「山伏天狗たちもこの人間をうまく使ったものだこと。これでは罰しようがないわ」

「罰する、罰さないの問題ではない! ただの人間をあんな危険な目に合わせて、術師の真似事までさせたのじゃぞ!!」

「ただの人間? わたくしにはそのようには見えないわね。あなたが山へ市伊を呼びつけているからこそ、このような目にあったといっても過言ではないのよ」


 自分を従える山神だからといってけっして下に出るようなことはせず、あくまで対等に話を進める紫金の姿は他の神獣たちとは違うものだった。しかもそれを柚良も受け容れているらしく、大と接していたときのような癇癪を起こすこともない。 艶やかに微笑む大狐の意見は正論以外のなにものでもなく、言い返す言葉がなくなったらしい柚良は悔しそうに唇を噛んだ。


「そのようなちっぽけなことでかりかり怒るようでは、まだまだね」

「う、うるさいぞ、紫金! いらんことは言わんでよいっ」


 やがて茶化すように言われた言葉にくわっと噛み付いた柚良はすねたようにそっぽを向いた。そういうところが「まだまだ」なのだと市伊も思うのだが、言ったらもっとすねるだろうことは分かっていたので言わないことにした。


(ちゃんと、妖と話していても年相応の人間らしい表情をするんだな。)


 今までどちらかというと神らしく高圧的に接する姿しか見てこなかったので、こんな顔は見たことがなかった。なんと言えばいいのだろうか――そう、気心知れた友達とじゃれあうような表情だ。柚良もまだそういう顔ができるのだということに、市伊はなんだか少しほっとしたのだった。

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