第三章 紫紺の闇に浮かぶ星は揺れて

第三章 紫紺の闇に浮かぶ星は揺れて 1

 山の新緑がすっかり夏の濃い緑に変わったころ。柚良と出会ってからは単独で山へ入ることが多かった市伊は、久しぶりに村の仲間と狩りに行くことになった。


 山に分け入り、いつも通り獲物を探していると、どこかでけーん、けーん、という音が聞こえた。最初は風のそよぎか何かだと思っていたのだが、何度も繰り返されるうちに、狐の声であることに気付く。大方、仕掛けた罠に狐でも掛かったのだろう。そう思って納得していると、不意にさわさわと頭の上の木々が揺れ、生い茂る木の葉の間からいくつか紅いものがちらりと覗いた。


紫金しこんのせがれが罠に掛かった」

 ――掛かった、掛かった。

「逃げようと泣き叫んでいるが、あれでは逃げられまい」

 ――逃げられまい、逃げられまい。


「山伏天狗……に木霊たちか?」


 ひそやかに風に混じって聞こえてくる言葉に耳を傾けると、どうやら木々の上にいるのは山伏天狗と木霊たちらしい。一度会ったときから割と気に入られたようで、ときおりまわりに現れてはひとしきり市伊をかまい、満足して去っていく。いつもなら他愛のない雑談や、からかいの言葉を残していくだけの彼らだったが、今日はどうも様子が違った。焦っている様子からすると、一大事らしい。山伏天狗たちと会話を交わすため、市伊は少し歩調を落としてしんがりへと回る。木の精霊である木霊たちは常人の目に見えないが、元が人間である山伏天狗たちは、少しばかり人の目に映りやすいのだ。


「紫金のせがれ……というのは?」

「天翔ける大狐、紫金のせがれだ」

 ――せがれだ、せがれだ。

「大狐か。大鹿と大鼬には会ったが、大狐にはまだ会ったことがないな……」


 天翔ける大狐のせがれ。確か、先ほど天狗たちはせがれが罠に掛かった、とか言っていなかっただろうか。


「まだ生まれて数年ほどしかたっておらんのだが、人の仕掛けた罠に掛かった」

 ――掛かった、掛かった。

「いくら柚良様の使いの神獣とはいえ、人の作った罠には触れられない。だから、せがれを助けられない」

 ――助けられない、助けられない。


 彼らの言葉を要約すれば、つまりは大狐の息子が罠にかかったのだという。行動力が増し、好奇心の強い子狐にはよくある話だ。ただ、罠にかかったのであれば、壊して助ければ良いだけである。ここまで彼らが焦る理由が、一体どこにあるのだろうか。


「人の作った罠に触れられない……? それはなぜだ。神獣なら、罠を壊すことぐらい簡単だろう」

「人間と共存するために作られた森の掟だ」

「罠に掛かった獣が逃げる手助けは誰もしてはならない。ただひとつ、助かる手立てはその獣が自力で罠から逃げ出すことだけ」

「そうか……神獣が眷族を助けて回ってたら、人間は森で狩りが出来なくなってしまうからか。それで、お前らが俺に知らせに来たってことは……」

「お前は森の掟に縛られておらん。だから、好きに動ける」

「せがれを助けてやって欲しいってか……」


 正直、困ったことになったと思った。自分たちは助けてやれない代わりに市伊の手で、という天狗たちの願いも分かる。助けてやれるなら、もちろん助けてやりたいと思う。いたいけな子狐が人の手に掛かって殺されるのは、あまり気持ちのいいものではない。


 ただ、同時に市伊には人側の気持ちも痛いほどに分かった。獣の皮は貴重だ。子狐の毛皮は柔らかくて手触りがよい。神獣の子供であれば、毛皮の質は飛びぬけてよいだろうし、並みの狐の成獣分ぐらいの大きさはあるだろう。普段自給自足の貧しい暮らしをする自分たちにとって、獣の毛皮は貴重な収入源になるのだ。


(――どうしたものか)


 しばらく迷いの色を浮かべて黙り込んだ市伊を見て、天狗たちもまた同じように黙り込んでしまった。元は同じ人であった身として、おそらく市伊がなぜ悩んでいるのかも分かっているのだろう。木霊たちの方は生粋の妖らしく、せかすように周りを駆け回っている。同じ森に住む妖でも種族が違えばえらく違うもんだな、と妙に感心しつつ、市伊は歩き続けていた。


 けーん、けーんと、助けを求めて物哀しく泣き叫ぶ声は、少しずつ近づいてくる。もうすぐ、仲間たちもこの声に気付くだろう。助けるか、見殺しにするか。すぐに答えを出さなくてはならない。


「なあ……お前たち、俺を運べるか」

「運べるとも。天狗の扇を使えば、ひとっ飛びよ」

 ――ひとっ飛び、ひとっ飛び。


 木霊たちが天狗の言葉尻をつかまえて繰り返す。もし助けるとしたら、どうやって助けに行くか。返ってきた答えは「天狗の扇」だった。ひとあおぎで大風を起こすことができ、その風に乗ればどんなところにも行けるという、天狗の秘宝だ。


「ひとつ聞いておくが、俺を飛ばすことは子狐を逃がしてやるのを手伝ったことにはならないのか?」

「直接手を触れなければ、手助けしたことにはならぬ」

「そうか。それなら――」


 天狗たちの答えを聞いて、市伊は心を決めた。


「そこまで運んでいってくれ。紫金のせがれとやらを、助けよう」


 仲間たちの列が歩く山道を左にそれ、山の中に分け入って進む。仲間たちの姿がすっかり見えなくなったところで、市伊は天狗たちへ向けて合図した。彼らに罠のところまで一気に運んでもらうためには、人間たちに気づかれないところまで行く必要があったのだ。


「もうここなら見つかる心配は無い。さあ、運んでくれ」

「分かった――が、仲間に一言告げなくても良かったのか?」

「俺はいつも薬草を取るといっては勝手にふらふら離れてるからな。姿が見えなくなっても、大方またそんなところだろうと納得してくれてるよ」


 心配そうな天狗たちに笑ってそう返すと、不安そうな彼らの面持ちは元に戻った。やはり随所随所で彼らには人間くささが残っていて、彼らといるとあまり妖と一緒にいるという感じがしない。


「それではいくぞ」

 ――いくぞ、いくぞ。


 天狗の一人が懐からきらびやかな扇を取り出し、ぱらりと広げる。木霊たちは風に巻き込まれないようにするためか、少しはなれたところでひとつに固まってその動作を見守っていた。


「我らがひと煽ぎ、しかと受け止めよ』」

 ――受け止めよ、受け止めよ。


 その掛け声と共に、扇を持つ手がひらめいた。耳元で風が唸り声を上げ、身体の周りで渦を巻く。四方八方から身体を引っ張られて、ばらばらにちぎれてしまいそうだ。そのうち一際大きな力が体を押し流す感覚を最後に、天狗たちの朱面と木霊たちの残像が掻き消えた。

 

 いったいそれは一瞬だったか、それとも長い時間だったのか。時間間隔すら狂わせる大風に運ばれて、気付けば市伊は地面の上に転がっていた。

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