第二章 青空に映る森は美しく 2

 その後二人でしばらく雑談を楽しんだ後、市伊は柚良に連れられて山の色々なところを回った。出会った中には大や佐井のような獣の主もいたが、何より驚かされたのは「あやかし」と呼ばれる類の者たちの多さである。それまでにも彼らの姿を見たことはあったし、ちょっかいをかけられそうになったことも何回かある。だが一度にたくさんわらわら現れて、見世物のように眺められたりするのは初めてだった。それどころか、物珍しげにみるだけではなく、触るわ引っ張るわもみくちゃにされるわ、それはもう大騒ぎになった。


 中でも一番大変だったのは、天狗たちのもとへ連れていかれた時だった。


「おぉ、てめぇ良い魂の色してんじゃねーか! こいつぁいい天狗になれるぞ。もうちっとばかり、細っこい体は鍛えんといけねぇけどな!」

「気に入ったぞ小童こわっぱぁ!」

「ちょっくら空飛ばせてやるから我等と来い!」

「ええぇ?! いやそれは丁重におこと……わああぁッ!!」


 柚良に呼ばれてどやどやと現れたと思ったら、何人かに頭をかいぐりまわされ、背中を思い切りたたかれ、危うく窒息死するところだった。おまけには空を飛ばせてやる、と有無を言わさず襟首をつかまれ空へと放り投げられた。突然の出来事に市伊が出来たことといえば、目を白黒させて柚良に助けを求めることだけだったのだが。


「ちょ……柚良さま、笑ってないで助けてください……っ!!」

「いやあ、天狗たちには気に入られるじゃろうと思うとったが、ほんに気に入られるとはの。なに、天狗と共に空を飛ぶなどめったに出来ぬ経験じゃ。楽しんで行ってくるがよい」


 空でもみくちゃにされて必死で叫ぶ市伊を見上げ、くふくふと笑う女神は涼しげな顔でそうのたまった。その一言で、天狗たちは許可が取れたと思ったのだろう。青空に吸い込まれるかのような強い力で、一気に空高く引っ張り上げられた。びゅうびゅうと耳元でうなる風の音に、思わず身を固くし目をつぶってしまう。


「小童! さっさと目を開けてみんか!」

「今日はいい天気だから景色も良くみえるぞ!」


 恐ろしさになかなか目を開けられないでいると、天狗たちにそうはやされる。仕方なく市伊が固く下ろしていたまぶたを上げると、見下ろす視界は一面の濃い緑で埋め尽くされていた。


 しっかり腕をつかまれているので落ちないことはわかっているのだが、何も無い足元は今にも落っこちていきそうで怖い。空気の抵抗に逆らいながらどうにか首を上げると、まぶしいばかりに輝く太陽と、抜けるように青い空が目に飛び込んできた。大城山以外の他の山まで遠くに見え、それに続く薄黄緑色の裾野がある。ぽつぽつと黒いのはおそらく集落だろう。ゆっくりと見渡してみれば、峠や山の頂上から下界を見下ろすのとはまた違う景色が目の前に広がっていた。


(なんて、綺麗なんだろう――)


 吹き付ける風は強く顔は痛いし、飛びなれない所為で少しばかりみぞおちの辺りがむかむかする。だがそれを帳消しにしてしまえるほどに、空からの景色は美しかった。


「どうだ、気持ちが良いだろう!」

「人間のうちにこれを見られるなんてお前が初めてだぞ、小童!」


 わははは、と豪快に笑いながら、赤ら顔の面をつけた天狗たちは口々にのたまう。確かに、天狗と空を飛べることなど普通の人間は体験できないだろう。市伊のどこが気に入ったのかはよくわからないが、とりあえずこれは彼ら流の歓迎の仕方なのだ、と納得することにした。


 一度振り切ってしまえば、もう後は彼らに身をゆだねるばかりである。そうして俺はひとしきり天狗たちと共に空をあちこち飛び回ることになり、もう一度柚良の前に姿を現したときにはすっかり疲れきっていたのだった。


「……体が痛い……」

「何じゃ、たったあれしきのことで疲れたのか。情けないことよのう……」


 太陽が西に少し傾いたころ、ようやく天狗たちから解放された市伊は岩の上で見事に伸びていた。持てる体力を使い果たしてしまったため、柚良の力で山の西にある大岩の上に運んでもらったのだ。日陰になっている大岩の上は火照った体にはとても心地好く、吹いてくる風も気持ちいい。二度と空なんか飛ぶものか、と固く心に誓いながら、力の入らない四肢を広げて横になる。そんな市伊に呆れ顔の柚良は「人間の男衆のくせになんと弱い」とか何とか言っていた。


「誰だって二時間以上空を引っ張りまわされたらこうなります。まったく……」

「ま、あれは洗礼みたいなものじゃ。良い体験が出来たと思っておくがよかろう」

「確かにいい体験ですけど、一応俺は人間だということを考慮して欲しいですね……」


 体力が戻るのを待つしかない市伊は深々とため息をついた。日が暮れるまでには山を降りると妹に約束して出てきたが、もしかしたら無理かもしれない。また瑞季に心配をかけたと筑芭に怒られるかな、などと思考を巡らせながら、全身の倦怠感に任せて市伊はゆっくり目を閉じた。


「……すまなかったな」

「えっ?」

「あやつらも悪気があったわけではないのだ。わらわと同じで……きっと自分たちが見える人間に会えたことが嬉しかったのじゃろう」


 不意にそばで零された言葉に、思わず目を開ける。柚良と同じ、ということはどういうことだろう。いまいち理解できていない市伊を見て、彼女は少しだけ笑った。


「そうか、市伊は知らぬのか。あやつらはな、山伏天狗やまぶしてんぐと呼ばれるものたちじゃ」

「山伏……天狗?」

「みな一様に紅き顔の面をかぶり、腰に見事な獣の毛皮をつけていたであろう? あれは修行を積んで天狗になった者の証じゃ。並みの人間では一日で根を上げてしまうほど厳しい苦行を積み、空を飛ぶ力と法術を手に入れた者たちがあやつらじゃ。ゆえに、元から妖である天狗とは区別して、山伏天狗と名乗る」

「元は人間なのですか?」

「いかにも、その通りじゃ。だから――だから、悪く思わんでくれぬか」


 言い募る柚良の言葉は、他人事とは思えないほどに真剣だった。どうしてそんなに、と考えてから、彼女は彼らに自分を重ねているのだと思い当たる。山伏天狗たちも彼女も、元はただの人間だ。きっと人間から人ならざるものになったもの同士として、共感できるところがあるのだろう。


「そこまで怒ってはいませんよ。ただ疲れただけで、危害を加えられたわけではないですし。だから、柚良さまが謝る必要はありません」

「じゃが、山の者がかけた迷惑はわらわがかけたも同じこと……」

「――あなたは、俺がもうここへ来たくなくなるかも、と心配なのでしょう?」

「そ……ういうわけでは……っ」


 必死になる彼女を見て、つい思ったことを口に出してしまった。予想どおり柚良はうろたえ、継ぐ言葉なく口をつぐんでしまう。あえてとりなすことなく市伊が黙っていると、柚良の表情はだんだん泣きそうなものに変わっていった。ああしまったやりすぎた、と後悔をしたのは、ぱたりと涙の落ちた音がしたときのことだ。


「……柚良さま?! ……っぅ……」


 さすがにもうやめておこうと思って身を起こすと、途端体の節々が痛む。だがそんなことにはかまわず、市伊ははらはらと涙をこぼす少女の目元へと手を伸ばした。


「すみません、言い過ぎました……そんなことぐらいで俺はここへ来なくなったりしませんよ。約束したでしょう? ずっと傍に居ることは出来ないけれど、 あなたの顔を見るためにこの山を訪ねてきます、と」

「……本当、に……っ?」

「神に誓った俺の言葉を疑うんですか」


 次々に目端からこぼれる涙を指でぬぐってやりながら、優しく問いかける。瞳いっぱいに涙をためた柚良は、勢いよくぶんぶんと首を振った。歳は見た目以上にとっているくせに、振る舞いは見た目相応だ。少し苦笑しながら、少女の涙が落ち着くまで背中をゆっくりさすってやる。するとさすがに子ども扱いされたことがわかったのか、瞳を潤ませたまま、柚良は思いっきり頬を膨らませた。


「市伊、そなたわらわを子ども扱いしておるじゃろう……っ」

「目の前でぐずるがいたら、誰だってこうしたくなりますよ。泣かせてしまったのは俺の責任ですし」

「わ、わらわは泣いてなどおらぬ……! 断じて泣いてなどおらぬのだ……っ!!」

「おや、そうでしたか。それは申し訳ありませんでした。では、俺の手や服が濡れているのは、きっとにわか雨でも振った所為ですね」


 まるで言い訳も子供のそれだ。少しばかり面白くなって、助け舟を出してみる。すると、柚良はぶんぶんと頭を縦に振り、市伊の言葉を全力で肯定した。


「そ、その通りじゃ! にわか雨の所為に決まっておる!」

「よほど柚良さまのことを好いている雨雲なんでしょう。なにせ、柚良さまのまわりにだけ雨を降らす雲ですから」

「それは、その……っ」


 必死ににわか雨の所為だと言い張る柚良が可愛くて、ついからかい口調になってしまう。とうとう言い返す言葉がなくなってしまった少女は苦し紛れにぷいっ、とそっぽを向き、膝を抱えて小さくなってしまった。これでは、まるっきり駄々をこねる子供と変わらない。そろそろ潮時だろう。抑えても出てくる笑いを必死にこらえつつ、市伊はお姫様の機嫌をとることにした。


「過ぎた真似をして申し訳ありませんでした。どうか、機嫌を直してはくださいませんか?」

「……二度と、わらわを子ども扱いするでないぞ!」

「わかりました。もうしないと誓いましょう、柚良さま――」


 まだ顔を見せようとしない彼女の手をとって、うやうやしく跪く。その行動に驚いたようにこっちを向いた柚良を見上げて、小さく柔らかな手を両手で包み込む。そういう風に扱われたのは、はじめてだったのだろう。少女は真っ赤になった顔を隠すように、慌ててもう一度そっぽを向いた。


「……市伊っ、そなたそろそろ帰る時間じゃろう……! 特別に今日は我の力で峠まで送ってやるゆえ、手を放さぬようしっかりつかまっておれ!」

「はい。ありがとうございます、柚良さま」


 ぶっきらぼうに風を織る言霊を紡ぐ柚良に礼を言うと、桃色に染まった頬がさらに色を増した。もしそれを口に出したら、間違いなく彼女は夕日の所為だといって怒るだろうな、と思った。市伊は天狗と空を飛んだときとはずいぶん違う優しい風に身を委ね、ゆっくりと峠へ向かったのだった。

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