(21)

 赤くないちんちくりんのポインセチアを横目で見ながら、三人で夕食を食べ、ビールやワインを飲んだ。まあ、状況が状況だから陽気にわいわいとは行かないが、それでも落ち着いてクリスマスオードブルを味わえたと思う。

 まだ酒を飲む気にはならなかったのか、美春は食べることだけに集中していたが、千秋はハイピッチでワインを空けていた。


「おいおい、千秋。そんなに飲んで大丈夫か?」

「大丈夫よう。へへ」


 ワイングラスを高々と掲げた千秋は、残っていたワインを勢いよくあおって、へらっと笑った。


「あのさあ」

「うん?」

「わたしにとってぇ、これは初めてのクリパなの」

「あ……」


 思わず美春と顔を見合わせ、そのあと慌てて顔を逸らした。


「クリスマスにぃ、パパとママが家に揃ってたことなんか一回もないよぅ」

「う……」


 返す言葉が……ない。


「だから、うれしい。言いたいことはいろいろあったけどさー。もういいわ」


 真っ赤な顔で特上の笑顔を見せた千秋は、そのあとテーブルに突っ伏し、大きな声を上げて泣いた。


「あひいっ! あああっ! あひいーっ!」


 独りにされないとわからない孤独の辛さ。家族なんか厄介なだけだと思い込んでいた美春だけでなく、千秋が抱え続けていた寂しさに寄り添い切れなかった俺も、孤独の恐ろしさをずっと甘く見ていたんだ。そしてずっと孤独だった千秋は、感情を乾かすことでしか孤独をさばけなかったんだろう。俺は……無神経に千秋を傷つけてきた咎を負わなければならない。


「済まん……な。甲斐性がなくて」


 肩を揺らして泣き崩れる千秋に……それしか言えなかった。そして美春は、ずっと無言だった。俯いたまま黙りこくっていた。


◇ ◇ ◇


 開けて25日。前夜深酒した千秋はしんどそうだったが、休むわけにはいかないと、ちゃんとバイトに来た。俺も、昨日のことは昨日のことと割り切らなければならない。


 昨日の店長の宣言を受けて、普段の忙しさとは別の意味でスタッフが慌ただしくなっていた。

 変化は来る。それは予感ではなく、すでに確定事項だ。さのやの終点。その日を境に何もかもが変わる。変わってしまう。その変化をこなせなければ、結局退場になってしまうんだ。根性を据えて変化に挑もう。その決意が、スタッフそれぞれの所作からくっきりと滲み出ていた。


「お?」


 店の制服を着た市原さんが、一つ一つの売り場を丁寧にチェックし始めた。変わると言っても、今うまく行ってる部分まで無理に変える必要はない。俺はそう思うし、市原さんもそう考えてくれるだろう。その上で彼女が何を見て、どう思い、どんな提案をしてくれるのかが今からすごく楽しみだ。


「主任! おはようございます!」


 背中に田村さんの弾んだ声がぽんと当たった。


「ああ、田村さん。おはよう」

「あのポインセチアですけど」

「ふっふっふ。新芽が出たでしょう?」

「はいっ! だめかなあと思ったんですけど、暖かい場所に置いたらもりもりと。息子が大喜びで、全部の芽に名前つけてます!」


 わはははっ! そりゃあいいや。楽しいクリスマスになったかな。


「早くに新芽が動き出したってことは、田村さんの部屋を気に入ったんですよ」

「わあ! うれしいです!」

「そいつはこれから暴れますよー」

「え?」


 ぽかんと口を開けて、俺を見る田村さん。


「息を吹き返すとね、よっしゃこれででかくなれると好き放題に伸びるんです」

「えええっ」

「冬の間はまだおとなしくしてますけど、成長期に入ったらがんがん暴れます。上手に剪定して整えてください」

「そっかあ……」

「田村さんも、ポインセチアに負けないようにね」


 ぱちんとウインクして、青果の売り場を離れた。俺の持ち場の在庫チェックと品出しをさっと済ませて佐藤くんの手伝いをしないと、納品がてんこ盛りだ。今日のうちにクリスマスの気配はさっと消える。これから店内の商品が一斉に年末年始のものに切り替わるからな。


「残念。一つだけ残ったか」


 ただ一鉢売れ残った生花コーナーのポインセチアを見て、思わず苦笑する。俺たちは、ほんの一瞬のクリスマスのためにどれほど多くの労力を割かなければならないのだろう。

 だがクリスマスには大勢の家族、恋人、友人たちがたくさんのごちそうに舌鼓を打つ。おいしいものを食べて豊かになった心で、得難いプレゼントのやり取りをするんだ。俺らは少しでもその手伝いがしたいなと思うし、それは銭金とは別次元のことだろう。特別な一日を全力で応援する。そういう心構えで、これからも商品に向き合いたいなと思う。俺の手にしているのが、四角四面で無口な豆腐であってもね。


「よし、と」


 クリップボードのクリップをぱちんと鳴らしたら、それが合図だったみたいに店長が駆け寄ってきた。


「ああ、店長。おはようございます」

「奥さん、落ち着いた?」

「昨日の今日ですからねえ。まだどつぼですけど。少しましにはなりました。今日はうちで休んでます」

「お? よりを戻すの?」

「それは無理ですよ。でも、あいつが落ち着くまで家をシェアすることはできる。そうします」

「なるほどなあ。横井さんも本当に懐が深いわ」

「いやいや。誰にでもどん底の時はありますから。その時には、誰かが手を貸さなければならないでしょう。私はどん底の時に店長に手を貸してもらいました。あの日のことは……一生忘れません」


 照れ笑いした店長からばしんと背中を張られた。そんなんじゃないよというように。


「あ、店長。最後に残ってるポインセチアですけど」

「ああ、あれね。彼女が欲しいって言ってる」

「奥さんが、ですか」


 奥さんという言葉に顔を真っ赤にした店長が、頷きながらそそくさと離れていった。


「くくくっ。店長があんなに照れ屋だとは思わなかったなあ」


◇ ◇ ◇


 今日はさすがに早くには帰れなかった。商品はごっそり入れ替えになるし、棚のアレンジも大幅に変更になる。久しぶりの肉体労働モード全開で、くったくたになって帰宅した。


「ん?」


 ドアを開けた途端にいい匂いが漂ってきて、腹がぐうっと鳴った。昨日のオードブルの残りでもつまもうと思ったんだが。


「あ、パパ。お疲れー」

「夕食作ってくれたのか?」

「まあね。ママと一緒に」


 ぶすっと膨れていた美春が放り出すように言った。


「することなくて、暇だから」

「まあ、いいけど」


 昨日千秋が泣いたことが俺の脳裏から離れない。クリスマスどころか、普段の食事ですら三人で卓を囲むことなんかほとんどなかったんだ。どうにも気が張るなあと思いながら、配膳されたおかずに箸を伸ばした。


「ん?」

「口に合わない?」


 心配そうに千秋が身を乗り出す。


「いや、おいしいよ。でも、この味付け……」

「あはは。さすが、パパ。気づいたかー」

「これ、高村さんのお惣菜の味付けだろ」

「そう。作り方教わったの」

「うーん、すごいなあ。こうやって味が伝わっていくのか」

「来年は持ち場が変わっちゃうけど、高村さんには大事なことをいっぱい教えてもらったの。それはこれからずっと活かしたい」

「ふうん。大事なこと……か」

「そう」


 ちらっと美春を見た千秋が、ストレートに言った。


「それは特別なことじゃないの。料理を作る時は、食べてくれる人の顔を思い浮かべながら作りなさいって。最初、そんなの当たり前じゃんって思ったけど。毎日毎日なんだよね」

「ああ、そうだな」

「ちゃんと毎日自分に言い聞かせないと忘れる。忘れちゃう。それ、怖いなと思ったんだ」

「ふふ。千秋の作るパンは、いつでも愛情たっぷりになりそうだな」

「がんばるっ!」


 それは。本来なら、千秋と美春との会話になるのが自然なんだろう。だが、今はいい。相手が俺でいい。ただ……これからどこかで、千秋の欠けた心をおまえも埋めてやって欲しい。


 俯いたまま黙々と箸を動かし続ける美春をちらっと見やって。俺はでかい溜息を一つついた。


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