十四、 追憶の石

1.

 今の自分にできること。

 今の彼女にしてやれること。




 ヴァールは湖のほとりで意を決した。

「これがイキャクのみずうみか! キレイな水だな。ところでワタシの石はどこにある? なあ、なあ」

 着くなりまくしたてるビルカを尻目に、ヴァールは靴を脱ぎ、上着を大きな岩の上に放った。

「なあ!」

 返事をねだるビルカと、しっかり目が合った。

 何も言わない。

 大きな目が二つ瞬きをしたところで、ヴァールはビルカの体を担ぎ上げた。

 一歩、二歩と前進する。

 何が起きるかと期待いっぱいにはしゃいでいたビルカだったが、ヴァールが向かう先に何があるのかを理解すると、一気に顔をこわばらせた。

「何をするのだ」

 ヴァールの体を小突き、

「おい! 聞いているのか?!」

 これでもかと声を荒げる。

「これはイキャクのみずうみというやつなのだろ? 入ったら忘れてしまうんだろ?」

 ヴァールの回答を待たずに、逃げだそうと暴れるビルカ。

「なあ、ヴァール。進んではダメだ。みずうみに入ってはダメだ! ぜんぶ忘れてしまうではないか!」

 力いっぱいにヴァールの体を叩く。

 だがヴァールは耳を貸さなかった。ビルカが暴れようが叫ぼうが、しっかりとした足どりで水のふちに迫った。

 いつもと同じ。右足を湖面へと―

「イヤだ! イヤだぞ、ヴァール!!」

 涙の混じる少女の叫びを、弾けた水音が奪い去った。

 湖の水に触れたのはヴァール一人だった。

 ビルカは抱え上げられたまま、どうすることもできずにヴァールの言葉を待っていた。時々嗚咽をもらしながら、次にヴァールが何と言うのかを待っていた。

「恐いか」

 一声でヴァールであることを理解したのだろう。ビルカはまず安堵した。しかしなぜヴァールのままなのかと驚き、そしてヴァールがとった行動に激しい怒りをぶつけた。

 目まぐるしく表情を展開させて、最後に見せたのは恐れ。ヴァールの問いに静かに頷いた。

「本当に、忘れてしまうのかと思ったぞ」

 声は弱々しい。

「忘れてしまうかと思ったら、心がぎゅうっとなったのだ。カムラたちや、村の人や石のキラキラや……。いっぱいいっぱい浮かんできて、でもそれがぜんぶなくなってしまうかと思ったら、こわくてこわくて」

「そうだな」

「それなのに、どうしてヴァールは……『私』は記憶を捨てたのだ」

 悲痛な叫びだった。

 きっと理由を聞きたいのではない。ヴァールを、かつての自分を責めずにはいられないのだ。

 ヴァールはビルカを岸に下ろした。すがるような眼差しに、目をそらさず向かい合う。

 あまり良くないセリフが飛び出すのだと察知したのだろうか。ビルカは残っていた涙をぐっと手の甲で拭き身構えた。

「今、恐かったろ? 苦しかったろ?」

 早く終わらせたいからこそ、ヴァールは一言一言を確認するように話した。

「それと同じくらいか、それ以上の恐怖や苦しみや悲しみが心を蝕んでいて、それから逃げたくて人は湖にすがるんだ」

「どういうことだ」

「お前が失った記憶は、キラキラなんかじゃないってことだ」

 ヴァールの言葉にビルカは激高した。

「どうしてそんなヒドイこと言うんだ!」

「わかるんだ」

「なにがわかる! ワタシにだってわからないのに! 『私』がなぜ記憶を捨てたかなんて、石を見てみなければわからないのに!」

「わかるんだ!」

 大人げなく、声を荒げた。

 怒りによるものではない。ただビルカに教えるてやるためだ。その耳に一言一句、余さず聞かせるために、ヴァールは怒鳴りビルカを黙らせた。

「わかるものか」

「わかるんだ。俺は忘れられずに、今も抱えているから」

 まだ受け入れようとしないビルカに向かって静かに言った。

 湖に入ってどれだけ清々しい気持ちになれるのか、それはわからなくとも、最後の希望を胸にこの地にたどり着き、湖と対峙した者の気持ちなら痛いほどにわかる。目をそらしたくなるほど鮮明に思い出せる。

 少女には受け入れがたいことだというのはよくわかる。

 名も知らぬ少女から『ビルカ』になり、それからはまだ打ちひしがれるほどの思いなど経験していないのだから。大事なものを得て、ようやく記憶を失うことの恐さを知ったばかりなのだから。

 だからこそ少女には許せなかったのだろう。

「ヴァールも全部忘れていいと思っているのか」

「そう思ったから、ここに来た」

「……今でもそう思うのか」

「ああ」

 考える間もなく言い切ったその言葉に、ビルカは口を真一文字に結んだ。

 ぐっとこらえる。

 だがこらえ切れずにまず涙がふき出した。それから、感情の全てをその一言に放り込む。

「ヴァールの……ヴァールなんて……ううっ、この。バカもん!」

 思いの丈をうまく出し切れなかったという自覚があるのか、足もとに転がる石を幾つかヴァールに投げつけて脱兎のごとく逃げ出した。

「おい」

 呼びかけると、意外なことに足を止めた。

 しかし振り返っても怒りはおさまっておらず、「ついてくるな」と付け加えただけで、今度こそヴァールを置き去りにしてしまった。

「……くそっ」

 数日を過ごしたとはいえビルカにとっては不案内な土地だ。怒りにまかせて走ったところで、山道で迷うのがオチではないか。自分の前から立ち去って欲しいと願いはしたが、そんな結末は望んでいない。

 慌てて後を追いかけようとしたが、脱ぎ捨ててあった靴やら上着やらを拾っている間に、ビルカの背中は遠ざかる、そしてその背中を追うなと言わんばかりに、二人の間に神獣カラカルが現れた。

 カラカルはゆっくりヴァールに歩み寄ると、牽制するように、ぐるりとまわりを一周した。鋭い視線でヴァールを足止めさせると、自らは踵を返し少女を追って走り出す。

「俺は行くなということか?」

 まるまる納得した上で、追いかけるのをやめたわけではない。

 今はこれ以上、ビルカにかける言葉を見つけられない気がして、ヴァールは山の守り神に従った。

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