第25話 大団円のその前に

 冷たい空気と、布の感触と、何より身体の重みを感じて、セシルは深々と息をついた。

 瞼をひくひくと何度も動かして、目をゆっくりと開ける。意識が目覚めたばかりだからか、視界はかすみがちだ。それどころか、瞼が重い。このまま目を瞑っていたいくらいだ。


「セシル殿!」


 名を呼ぶ声と駆けてくる足音がする。無理やりに目を開け、ぼんやりとそちらを見ると、駆け寄って来た男が膝をつき、壁にもたれていたセシルの顔を覗き込むところだった。どうやら自分は床に座り込んでいるらしいと、セシルはようやく気づく。


「セシル殿、無事か?」

「……は、い……ユーサー、さん……?」


 何度も瞬きをしながら、まだ動きたがらない思考でセシルは男の名を呼ぶ。この濃紺の髪と瞳、何より生真面目そうな顔は、実直が服を着たような青薔薇騎士団副団長に違いない。


「なんで、ユーサーさんが…………」


 安堵の表情をするユーサーに、セシルは思いつくままに問う。昨日あんなことがあったとはいえ、ここへ来るような理由はないはずだ。他に何か、伝えなければならないことでもあったのだろうか。

 問われたユーサーは瞳を揺らした。どう言うべきか、と視線が数拍さまよう。


「……マクシミリアンがエルデバランの間者だという証拠が見つかったのだ。それで、貴女が狙われるかもしれないと思い、探していた」

「マクシミリアンさんが…………っ!」


 人の名を繰り返した途端、セシルの頭は情景を浮かべて覚醒した。怒りの表情や侮蔑の言葉、身の内に沸いた感情が鮮やかに思い出され、セシルは目を見開く。


「シガはっ? それにマクシミリアンさんも……っ!」


 身を乗り出し、ユーサーの肩越しに玄関ホールを見回したセシルは、そこで言葉を失った。

 玄関ホールを我が身で埋め尽くすようにして、見たことのない生き物がとぐろを巻いていたのだ。


 宙に浮く身は黒い鱗に覆われて長大、蛇のようであるが、背にはところどころ青白くきらめく銀の毛並みが生えていた。真珠色にきらめく五本の鋭い爪を持った足が四本あり、そのうち前足の片方には、漆黒の美しい宝玉が握られている。

 顔はどこか狼に似て精悍で、長い髭が生えていて、背の毛並みと同色の鬣がある。大きな口から覗く歯は爪同様鋭く、どんなものでも噛み切ってしまいそうだ。


 その周囲に漂う燐光で浮かびあがる姿も放つ空気も、すべてが威厳と力強さと美しさを兼ね備えている。異形であることを抜きにして、ただそこに存在するだけで、人の心を惹きつけずにはおかない。セシルは彼から視線を逸らせなくなった。


 ――――振り返ってはならぬ。


「鎖の向こうの人…………?」


 脳裏に響いた過去の言葉に導かれるように、思い浮かんだ言葉をセシルはそのまま呟く。すると、生き物は大きな目を瞬かせた後、嬉しそうに表情をゆがめた。


「そなたは私をそのように呼んでいたのか……いかにも。そなたの願いに応じ、鎖の向こうより参った」


 そう喜ぶ声は脳に直接刻まれるものではなく、鼓膜に響いてくるもの。年齢がよくわからない男性の声にはやはり力があり、こんな親しみを漂わせる言葉でも人を従わせる響きを失うことがない。

 半身をひねり、生き物とセシルの顔を見比べて、ユーサーは困惑した。


「セシル殿、どういうことだ? 貴女があの生き物を呼んだとは……」

「っ……」


 疑念の目が注がれ、セシルは言葉を詰まらせた。

 今更隠すことなどできないが、どう言えばいいのかわからない。まさか精神だけがあの宝石の向こうの世界に吸われ、そこでセシルが八年前に閉ざしていた鎖を解いたなんて、信じてもらえることではない。


「それについては後回しにしようよ、副団長殿」


 視線をさまよわせるセシルを助けるように、獣の側にいるシガが割り込んできた。


「副団長殿、そろそろセシルのそばから離れてもいいんじゃないかな? 近すぎやしないかい?」

「は? シガ何い……っ」


 突然の珍妙な言いがかりに、セシルは反論しようとする。が、目が合ったユーサーとの距離の近さ――彼の腕の長さよりも近い距離を認識した途端、その先を続けられなくなった。確かにこれは、近い。恋愛ものの舞台の、主人公とヒロインの距離ではないか。

 そう理解したのはセシルだけでなくユーサーも同じで、顔を赤らめるや、セシルから離れた。


「す、すまない……」

「い、いえ……」


 互いに顔を赤くして、セシルとユーサーは謝りあう。なんだか恥ずかしくて気まずくて、セシルはユーサーの顔を見ていられず、視線を逸らした。言うんじゃなかった、と何故か不穏な響きがするシガの呟きが聞こえたのは、きっと気のせいだ。

 その色を濃く残した長息をつき、シガは気を取り直すためか首を振った。


「……副官殿の正体がわかったということは、青薔薇騎士団ももうすぐここへ来るんだろう? だったらもう時間がない。こうなったら、君にも口裏合わせに付き合ってもらうよ」

「なっ」

「言っておくけど、拒否はできないよ。君だってセシルの力やこの石のことを、騎士団やあちこちの魔術研究所に知られたくはないだろう? ひとまず、この場は全部ごまかすのが得策だよ」


 シガはややきつい口調で言う。生真面目さゆえに気色ばんでいたユーサーは、シガの一言で表情を変えた。シガを睨みつける目に、迷いが浮かぶ。

 ユーサーが目を閉じて思いを巡らせたのは、わずか数拍だった。


「……わかった。だが後日、その宝石を回収させてもらうぞ。その宝石の由来がどうであれ、今はデュジャルダン氏の所有であることには変わりないのだからな」

「…………仕方ないね。セシルもそれでいいかい?」


 シガは短く息をついて頷くと、セシルに目を向けてくる。マクシミリアンに語ったように、シガはあくまでもセシルを正当な所有者として考えているらしい。

 突然話の決定権を向けられ、セシルはうろたえた。シガ、ユーサー、そして異形の獣の順番に視線を巡らせる。

 しかし、迷っている暇はないのだ。セシルはぐっと拳を握り、頷いた。

 セシルの意思を確認したシガは、背後で見守っていた異形の獣を見上げた。


「というわけで黒龍、証拠隠滅はよろしく頼むよ」

「ふん、わしに命令するでないわ小童」


 異形の獣――黒龍はふんと鼻を鳴らした。それでも、とぐろを巻いていた身をいくらか立ち上げると、前足に持つ宝玉をマクシミリアンたちの頭上にかざす。

 にわかに宝玉が輝きだした。光はマクシミリアンたちに降り注ぎ、それに呼応し引きずり出されるかのように、三人の男たちの頭から七色にきらめく白い紐のようなものが出てきた。紐はぐんぐんと伸びていき、黒龍が持つ宝玉の中へ吸われていく。


「何、あれ…………」

「彼らの記憶だよ。君の力のことと、ここでのことは綺麗さっぱり忘れてもらわないと」


 無意識のうちにこぼれたセシルの呟きを、シガは拾って説明する。

 セシルは目を見開き、息を飲んだ。

 どうしても思い出せないのだ。八年前から以前、あの闇の中で目覚めるよりも前の記憶が。傭兵隊にいた頃、何度思い出そうとしても無理で、諦めるしかなかった。

 それはもしかしなくても、惨劇の後を見たからではなく――――――――


「……ああ、そうじゃ。わしがそなたの記憶を奪った」


 三人の記憶を吸い終え、宝玉の力を収束させた黒龍は、セシルのほうへと身を伸ばして事実を告げた。


「黒龍、それは後で話してあげなよ。今は時間がないし」

「……そうじゃな。ではな、セシル。後で会おう」


 シガに促された黒龍は名残惜しそうに瞳を揺らすと、床に転がる黒い宝石の中へと躊躇いもせず飛び込んでいった。長大な身が、己が持つ宝玉よりもはるかに小さな宝石の中へ吸い込まれるように消えていく。

 青銀の尾までもが黒い宝石の中に消えてしまうと、彼が放っていた強烈な存在感がやっと薄れた。後は残滓が残るばかりだ。


 それを見届けたシガは黒い宝石をひょいと拾うと、セシルの近くで床に倒れている男の手から巾着にしまって無造作に放り投げた。狙いはあやまたずセシルの手のひらに落ち、巾着にしまわれた黒い宝石の重みがセシルの両手にかかる。セシルの頬は自然と緩み、薄れかけた記憶のものと同じぬくもりを放つ、かつての宝物を胸に抱きしめた。


 不意に、騒動の前よりもいくらかましになった雨の中から、いくつもの声が聞こえてきた。こんな雨の中では、この辺りのよろしくない連中も仕事に張りきったりしないものなのに。


「おやおや、副団長殿の部下たちが来たようだね? こんなに遅いなんて、もしかして副団長殿は彼らに、見当違いの方向を教えたのかな?」

「違う。……私一人で来たが、部下に指示はしていない。団長の指示で、無法者が隠れていそうなところを探していたんだろう」

「なるほどね。……さあセシル、石を隠して。特別公演の時間だよ」

「わかってる。――――シガ」


 頷き、セシルはゆっくりと立ち上がった。


「黒龍さんから色々と聞くけど、あんたも後でちゃんと話せよな」

「…………わかってるよ」


 シガは観念したとばかりに瞼を閉じ、了承する。セシルはそれが、何かを諦めたように見えた。

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