第19話 甘い男・1

 拾ったばかりの子供に血まみれの服を脱がせて少年ではなく少女だと理解したルネが、少年と断定していたブノワに呆れた後。記憶も名もない子供は、ルネに『セシル』と名づけられた。後から聞いたところ、西大陸では国によって男の名だったり女の名だったりするからだという。少女らしくない性質と容姿を念頭に置いての命名であるのは、間違いない。

 ルネとブノワは西大陸最東端にあたるその地域の領主に雇われた傭兵隊で、戦争の主力軍の敗戦により撤退している途中、黒煙が上がっている村を見つけたため立ち寄ったのだという。軍の統制下にない敗残兵や傭兵が力なき者や廃墟から略奪することは珍しいことではなく、残念なことに、ルネたちが属する傭兵隊の隊長はそうした輩の典型例だった。

 すさんだ日々を送る傭兵隊と共に暮らすことになったセシルは、傭兵隊の者たちに大層可愛がられた。故郷に子供を残している者も何人かいたし、セシルは哀れな身の上だったのだから当然だ。セシルが失くしていた感情や言葉を取り戻していったのは、彼らが惜しみなく注いでくれた愛情のおかげだろう。

 そして二年戦争が終わり、ルネが傭兵を辞めてブリギットにいる夫のもとへ戻ったときに、セシルは正式に彼女の養女となった。かくして、セシル・カロンはこの世に誕生したのだった。


「――――なんであたしがあそこにいたのかはわかんない。あの村に住んでたんだろうけど、あたし、母さんに拾われる直前から記憶が全然ないからさ。……多分、人がたくさん死んでいくのを見たせいだろうって周りの人たちは言ってたけど」


 というより、それしかないだろう。あの部屋でセシルが見た光景は、凄惨の一言に尽きる。当時のセシルは、感情が麻痺していたから平然としていられただけだ。ごくまれに夢に見るあの日のことは、今のセシルにとっては最悪な記憶でしかない。


 黙ってセシルの話を聞いていたシガは、膝の上に置いていたセシルの手に自分のそれを重ねた。突然の触れあいに、セシルの鼓動は跳ねる。

 セシルを見るシガの目は、あの日の傭兵たちのように、痛ましそうな色を浮かべていた。


「……君は、あの戦争の被害者なんだね」

「それ言ったら、誰だってそうだろ。自分が戦争に行ったか、身内の誰かが戦争で死んだりしてるんだから。この辺りの孤児や退役軍人なんて皆そうだし。……シガだって、そうなんじゃないのか?」

「……まあ、ね。でも、俺自身が君みたいにひどいものを見て、心が麻痺したり記憶がなくなったことはないよ。あの頃はまだ国から出てなかったし」


 ちらりとセシルがシガを見ると、彼はそう緩く首を振る。セシルはシガのそんな優しい扱いにこそ、戸惑いを覚えた。


 戦乱に巻き込まれた記憶と実感がなくても、二年戦争が人々の身と心に深い傷を残していることをセシルは知っている。この地域に住む孤児や退役軍人たちだけではない。シガと普通に話しているカイルとて、戦争による心身の疲弊から母親を亡くしているのだ。リヴィイールの他の俳優や職員にも、身内を戦争で亡くした者はいる。

 そんな悲運の者たちに比べれば、自分はよほど恵まれた環境にいる。確かに家族も故郷も失くしはしたが、その悲しみを欠片も覚えておらず、何もわからないまま新しい家族と故郷を得られたのだから。記憶を失くし、戦争の悲惨さを我が身のものとして実感できないだけに、セシルはより強くそう思うのだ。


「……それで、その宝石はどうしたんだい? 話からすると、君が持ってたのはあの黒い宝石みたいだけど」

「…………傭兵隊の隊長に盗まれたんだよ」


 尋ねられ、両腕を組み苦い顔でセシルは答えた。


「火事場泥棒するような奴だからって母さんに言われて、一応隠してたんだけどさ。でもばれて、あたしと母さんが気づいたときにはもうどっかへ逃げた後で……どうしようもなかった」

「なるほど……それじゃあ、宝石展であの宝石を見たとき、君はさぞ驚いただろうね」

「そりゃね。『なんでこんなとこにあんの?』って思ったよホント。あの隊長が売り飛ばして、あちこちに流れたんだろうけど……まさか、もう一度見ることになるとは思わなかった」

「まああれ、君以外にはただの魔力を持った宝石にしか見えないみたいだからね。デュジャルダン氏はただの宝石と思って仕入れたけど、魔力があると子飼いの魔術師に言われたから研究するついでに展示もした。そしたら盗まれた……ってところだろうね」


 おそらくはその流れだろう。デュジャルダンは、その豊かな資産で魔術研究所を設立するような人物なのである。自分が抱える魔術師の実験に宝石を提供するのは、当たり前のことだ。

 シガは長椅子の背もたれに肘をついた。


「セシルはあの黒い宝石を見て、取り戻そうと思った?」

「…………どうだろ、わかんない」


 静かな問いに、セシルは目を伏せて答えた。

 赤いビロードが敷き詰められた台座に飾られた黒い宝石を見て、胸がざわついたのは事実だ。だが、セシルはこの八年間、黒い宝石のことをまったくと言っていいほど思い出さなかったのである。セシルにとって黒い宝石はもう、失くしてしまった過去の宝物だった。苦い気持ちと懐かしさが同居するこの複雑な感情は、どちらに寄っているのか、セシル自身にもわからない。

 だがあの夜、路上で黒い宝石を見つけてから、平穏なセシルの世界が大きく揺らぎ、崩れようとしている。昨日知ってしまった事実――――自分にしかない異能は、とどめと言っていい。セシル・カロンはもう、自分がどんな場所に立っていて、どんな姿をしているのかも確信することができない。


 ――――振り返ってはならぬ。


 あの声はそう望んだのに――――――――

 一度瞑目し、ぎゅっと両の拳を握ったセシルは、それにしても、とい話題を変えた。


「シガは信じるのか? その、宝石にあたしにしか見えないものがあるって……」


 魔術師も持たない異能を有する者はごくまれにいるとマクシミリアンは言っていたが、魔術に詳しくないセシルにはその真偽はわからない。魔術師ではない奇跡の使い手なんて、そんな物語の登場人物のような話、簡単に信じられるわけがない。

 だというのに、目を瞬かせたシガは、何を言っているのかと言わんばかりに即答した。


「君は、そういう冗談なんて言わないだろう? あの副団長殿ほどじゃないにしろ、結構真面目だから。それに俺は、人間が世の中のすべてを知ることなんてできないって思ってるし。魔術師じゃなくても変わった力を持った人が現実にいても、不思議はないんじゃないかな」


 というかさ、とさらにシガは続ける。


「俺は、君がどんな力を持ってたってどうでもいいんだよ。俺にとって君は、お転婆で男のふりをするのが上手いだけの、普通の女の子だから。君が俺のことを、東大陸出身というだけで嫌わないようにね。実は変わった力を持ってましたなんて言われても、だからどうしたとしか言いようがないよ」


 普段は使いものにならない力なら尚更ねえ、とシガは笑う。その声と表情はからりとしていて、含みは一切感じられない。笑い飛ばす、という言葉がぴたりと当てはまる。

 シガのあまりにあっさりした、いつもと変わらない態度に、セシルは拍子抜けしてしまった。はああ、と大きな息をついてしまう。


「なんだい、そんなに疲れた顔をして」

「あんたが普通にあたしのことを信じるって言うから、気が抜けたんだよ……カイルやあんたにまで珍獣扱いされるのはちょっときついし、疑われるかもってびくびくしてたのにさあ……」

「ひどいなあ、俺が君を突き放すわけがないじゃないか。君と一緒にいるのが好きなのに」

「はいはい、そりゃどうも」


 女を口説くかのようなシガの言葉を聞き流し、セシルは頭をがりがりと掻く。彼は息を吐くようにセシルをからかうのだ。一々構っていると身がもたない。

 シガはくすりと笑った。


「……なんかすっきりしたって顔だね。ちょっとは役に立てたかな?」

「うん。なんか、色々考えてたのが馬鹿らしくなってきた。……話聞いてくれてありがと」


 少しだけ笑んで、セシルはシガに礼を言った。

 シガの冗談のおかげで、昨夜からセシルの胸に溜まっていた憂鬱は随分薄れていた。マクシミリアンの言葉をきっかけに揺らいでいた、自分は女優のセシル・カロンなのだという実感が少しばかり強くなるのを自覚する。


 そう、あの黒い宝石の中におかしなものを見るからと言って、それがどうしたというのだ。母に拾われてからずっと、セシルはセシル・カロンとして生きてきた。周囲の大人たちに愛され、同年代の悪ガキたちとやんちゃをし、リヴィイールの人々と共に舞台を作りあげて。それは揺るぎようのない、セシルが自分で手に入れた記憶であり、世界だ。何を動揺することがあるのか。


 ――――振り返ってはならぬ。


 己の姿もわからない闇の中から聞こえた声は正しい。過去なんて忘れて生きていけばいい。セシルは、今までそうしてきたようにこれからもするべきなのだ。

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