第一章 風変わりな人気役者

第1話 人気役者の悩み事

「あ、これデーミッシュじゃん。趣味いいなー」


 終演後の興奮冷めやらぬ舞台裏の廊下にずらりと並ぶ楽屋の一つ。役者は一人、楽屋に運び込まれた瓶から漂うかすかな匂いにつられて包み紙を覗き込み、意匠のように品良く記された有名菓子店の名を見て感心の声をあげた。


 そばに置いてある、今夜の公演前に中身がなくなってしまった大きなガラス瓶には、背の半ばに届く栗色の髪と深緑の目をした子供の顔が映っている。化粧を落として素のままになった、程よく日に焼けた頬を上気させた顔立ちは凛々しくも幼さが抜けきっていない。無邪気な表情とあいまって、漂うほのかな色香を半ば打ち消している。

 セシル・カロン。ラディスタ王国の首都ブリギットに所在するシエラ劇場を本拠とする劇団、リヴィイールに所属する役者の一人である。先月、十七になったばかり。一ヶ月前から二日に一度公演をしている今回の演目では、主役の青年を演じている。


 さっそく包み紙を破いて瓶を開けると、さっきよりも甘い匂いが強く漂ってくる。クッキーにたっぷりとかけられた蜂蜜の匂いだ。一口食べてみればほど良い甘さと果実の酸味が口の中に広がり、セシルは思わず顔をほころばせた。そのまま一つ二つと、一仕事終えて疲れた身体が求めるままに口へ運ぶ。

 絶品クッキーに舌鼓を打ちながら、セシルは残りの箱をざっと見た。全部で五つ。形状や振ってみた感じからすると、全部服か装飾品だろう。


「服だの装飾品だのより、お菓子か肉くれないかなあ。庶民にゃ高級品なんて買えないんだし……ああ、シュヴェーヌマン伯爵がくれた肉はほんとに美味しかったなあ……」


 実家に直接届けられた牛肉の味を思い出し、セシルはうっとりと息をつく。かの洒落者の貴族が領地からわざわざセシルのため取り寄せたという特産品は、その高名に恥じぬ美味だったのだ。あれほど高級でなくていいから、珍しい果物か肉を贈ってもらえたら心底感謝するのに。服飾に興味のないセシルにとっては、食欲を満たすものこそがご褒美だ。


 セシルが贅沢な注文を心の中で呟いていると、不意に扉が叩かれた。空想に夢中のセシルは、何も考えずに返事をする。

 それを受けて、遠慮なく扉は開かれた。


「っちょ、何やってんだお前!」


 セシルが振り返ると、最初に入ってきた粗末な身なりの青年は顔をぎょっとさせた。続いて入ってきた青年も、おやおやと片方の眉を軽く上げて素早く扉を閉める。

 粗末な身なりの青年は、カイル・ゲルシェ。焦げ茶色の髪と瞳、端整というよりはやんちゃそうな印象が先立つ、いかにも年頃の若者らしい青年だ。


 続いて入ってきた青年は、シガ・キョウという。肩にかからない程度で切り揃えた漆黒の髪に、同じ色の瞳。セシルたちとは違った雰囲気の白い造作は優しく端整で、しなやかな痩身と合わせて、異国の優男だと一目でわかる。それゆえに人々の敵意を誘うこともしばしばあるものの、女の熱い視線を集める要素しかない外見だ。


 俳優仲間でもある幼馴染みの悲鳴ともつかない問いに、ああ、と箱を見回してセシルは肩をすくめた。


「箱の中身改め。んでカイル、その箱どうしたんだ? シガは誰かの同行?」

「ああ。さっき、はぐれたふりをしてこっちへ来たんだ。とりあえずセシル、シャツのボタンを留めたほうがいいんじゃないかな。カイルが目のやり場に困ってるよ」

「……あ」


 目を瞬かせたセシルは、自分の中途半端な格好にようやく気づいた。

 舞台衣装の上着は椅子の背にかけ、白いシャツはボタンを腹の辺りまで外したまま。薄く色づいた肌の胸元が、惜しげもなく覗いている。


「忘れてた」

「忘れるなよ!」

「脱いでたわけじゃないんだから、いいじゃん別に」


 と、シャツのボタンを留めながら、がなるカイルにセシルは口を尖らせる。胸が丸見えだったわけではないのだ。そんなに怒ることないだろうに。

 セシルがそんなものだから、カイルは隣に助けを求めた。


「シガ! お前も何か言ってやれよ!」

「うーん、まあ、俺たちが入るときくらいはいいんじゃない? 眼福だったし」

「お世辞はいいよシガ。眼福っていうのは、カルロッタさんとかユーリエさんみたいなのだろ」

「そういう問題じゃねえだろお前ら! 特にセシル、そこで平然としてんなよ!」


 再びカイルのつっこみが二発続けて入る。が、セシルもシガも、そう言われてもなあと顔を見合わせるばかりだ。

 ああもう、とカイルはがっくりと肩を下ろし、疲れたと言わんばかりの息をついた。


「……頼むからセシル、自分の名前は忘れても、せめて性別くらいらいは覚えててくれよ」

「忘れるわけないだろ。だからこうしてボタン留めたんじゃないか」

「今すぐ恥じらいって言葉の意味を辞書で調べてこい。そしてどっかで買ってこい。ただでさえ女に見えねえ見た目なのに、挙句これじゃ、おじさんが泣くぞ」


 幼馴染みにそう説教しながら、カイルは持っていた木箱を扉の脇に置く。セシルはいつものことながら、余計なお世話、と言っておいた。

 そう、セシルはこれでも女だ。背は女性にしては高く、顔は男とも女ともつかず、声も低め。性格も口調も荒っぽければ、立ち居振る舞いや身なりも男そのもの。舞台でも、配役は男役ばかり。リヴィイールで、セシルを女として優しく扱う者はほとんどいない。

 それでも、セシルは男ではない。れっきとした十七歳の少女なのだ。


 カイルは職員を手伝って劇団の出資者からの差し入れを配って歩いているらしく、セシルにワインを渡すとさっさと部屋を出ていった。彼の帰り際の忠告に従い、セシルはシガを外に待たせて素早く着替える。

 楽屋前の廊下は、先ほどと比べると静かになっていた。公演前後に楽屋前へ立ち入る特典を得ている有料会員たちが去り、役者や裏方たちだけになっているのだ。その関係者たちも、それぞれ着替えたり後片付けを始めたりしている。


「お待たせ、シガ」

「うん。じゃあ行こうか」


 シガは壁から背を離して微笑むと、のんびりと歩きだす。セシルはその後ろをついていった。


「シガ、連れてってくれる店、どこにあんの?」

「セガール通りの端のほうだよ。最近、あっちのほうによく行くんだ」


 買い物にちょうどいいからねえ、とシガは笑った。

 天気が良ければラディスタの東端から西端の大地が見える東大陸の国から来たこの俳優は、よく外食に誘ってくれる。入団のきっかけとなった年下の先輩が、リヴィイールで一番声をかけやすいらしい。彼が連れて行ってくれる店はどこも美味なので、セシルは毎回楽しみにしていた。

 裏口が近づいてくると、常駐していた顔馴染みの若い警備員が駆け寄ってきた。


「セシル、シガ。今から帰るなら、覚悟したほうがいいぞ」

「……そんなにいるんすか?」

「ああ、まだな。今夜は成り上がりの一見客が多かったみたいでな。まだこんな時間だし、裏口で出待ちをしてみる気になったんだろう。さっきもジュリアスさんが捕まりかけていたよ」


 と若い警備員は苦笑する。裏口周辺に女性たちを中心とした観客たちが待機している様子が容易に想像でき、セシルはうわあ、と口の中でうめいた。


 劇場の有料会員のように楽屋裏で贔屓の俳優を待つことができない一般客の中には、ならばと俳優たちが出入りする裏口で待つ者が少なからずいる。もちろん警備員たちは排除しようとするのだが、怪我をされると面倒だから注意で済ませるしかない。強制的に排除することはなかなか難しいのが現状である。

 そして幸か不幸か、容姿端麗なシガは言うまでもないが、何故かセシルも女性客に人気がある。とち狂った金持ちの夫人に『もう男でも女でも構わない!』と押し倒されかけたのは、一週間前に追加されたセシルの黒歴史だ。大笑いしたカイルや先輩俳優の腹に拳を一発くれてやったのも、記憶に新しい。

 舞台の上で青年を演じることはあっても、その正体は十七歳の小娘なのである。贔屓にしてもらえるのはありがたいことなのだが、せめて節度を忘れないでほしい。セシルはそう、贔屓筋の人たちに願ってやまない。


 警備員が持ち場へ戻った後、セシルはシガを振り仰いだ。


「シガ、どうする? これじゃ表も似たようなもんだろうし……いつもみたいに、どっかの部屋の窓から逃げるか?」

「大丈夫、今日はこういうときのための術具を用意してあるんだ。ほら」


 シガはそう言うと、鞄から銀色の細い腕輪を二つ取り出した。


「これ、つけたら一時的に姿が見えなくなるんだ。一言でもしゃべったり腕輪に触られたりしたら、効果が消えてしまうんだけど。この状況にぴったりだろう?」

「……………………シガ。念のために聞いておくけど、市販品だよな?」


 半眼になってセシルが問うと、シガは平気だよ、と首を傾けた。


「あくまでも試作品だから。試しに使ってみるのは、違法じゃないだろう?」

「…………」


 それを人は屁理屈と呼ぶのではないだろうか。予想と違わない答えに、セシルは頭が痛くなった。


 シガが持っているのは、魔術の術式と魔力を予め込めておくことで、魔術師の素質がなくても魔術を使うことができる、術具という文明の利器だ。照明に料理に掃除に護身。今や日々の生活を豊かに便利にするものとして欠かせない。セシルの家でも、数多くの術具が生活と両親の仕事を助けてくれている。

 しかしこの文明の利器は、あまりにも幅広い用途――――暴力的なことでも用いることができるために、大抵の国では民間での研究や利用、市販品の改造が制限されている。ラディスタでもそれは同じだ。違法な術具を売ったために捕まった魔術師や商人の話は、いくらでもある。


 確かに、自作した術具の試作品の効果を確かめるだけなら違法ではないだろう。が、姿が見えなくなるなんて効果、法が許す民間人の一般利用の範囲をどう考えても逸脱している。役人にばれたら絶対まずい。


 容姿端麗かつ物腰柔らか、演技力も抜群と三拍子揃ったシガの、数少ない欠点がこの趣味だった。ぎりぎり合法、もしくは完全に違法な術具を収集したり、あるいは自ら市販の術具を改造するのが好きなのだ。セガール通りの店に詳しいのも、その近くに術具店、それも少々危険なものを揃えていると噂の店が建ち並ぶ小路があるからに違いない。

 そのことは知り合ってすぐに把握済みだから、セシルは今更驚かない。それよりもつっこむべきは、他にある。


「それとシガ、なんで二つ持ってるのかも不思議なんだけど」

「もちろん、いつでも君を食事に誘えるようにするために決まってるじゃないか」


 にっこりと笑みを浮かべ、シガは臆面もなくのたまう。こんな男女をからかうのなら、もっとましな科白を思いつけばいいものを。聞いた自分が馬鹿だった、とセシルはため息をついた。

 セシルが悩んでいる時間は短かった。幕間の楽屋でクッキーをつまんでいたとはいえ、空腹なのだ。


 かくして二人は、法的には限りなく黒な術具の力で、裏口に待機する人々に気づかれることなくシエラ劇場を後にした。自分たちは空気にでもなったのかと思うほど、誰も二人に気づかない。今夜の舞台や贔屓にしている俳優について、そばにいる者と語ることに夢中だ。

 シエラ劇場の姿が見えなくなった辺りで小路にもぐりこんでから腕輪を外し、セシルは手のひらの腕輪を見下ろした。


「……これ、認可下りないよな絶対」

「だろうね。でも、俺たちにはこういうのが必要だろう?」

「……まあな」


 肩をすくめるシガの言い分に、セシルは苦い顔で同意した。

 今夜の出待ちの客はまだ比較的大人しかったからいいものの、観客である立場を笠に着た輩に出くわすと非常に厄介だ。それに、いいほうの興奮で俳優との交流を求めてくる観客だけではないのである。悪意を持つ者はどこにでもいるし、特にシガは、東大陸人だからというだけで負の感情を持たれることが少なくない。だから、我が身を守る手段を確保しておくのも役者の基本と、リヴィイールの監督は口を酸っぱくして言っているのだ。――――ただしその自衛手段は、こんな法的に危うい手段を指していたのではないはずだが。


 役人に捕まらないよう改めて祈ったセシルは腕輪をシガに返すと、そうだ、と声をあげた。


「なあシガ。術具に反応する体質って、どうにかなんないのか?」

「術具に反応? いきなりどうしたんだい」


 突然を話題を振られたシガは目を丸くする。

 いやあ実はさ、と頭をかきながら、セシルは話を切りだした。

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