第13話 クレイート

 ダスクに誘導されるまま、彼らの部屋に入ってしばらくした頃、クレイートは周囲が騒がしくなったことに気付いた。ただそれは一瞬のことで、すぐにまた静まりかえったが――そのせいか、どこか緊張が漂っている、そんな気がした。


「船の速度が上がりましたね」

「そうなのか?」

 ええ、とクレイートは窓を見た。早くなったというのは体感に過ぎなくて、外を見ても分からない。ただ、そこから見える護衛船の一隻が、妙に速度を上げているように見えた。何かあって距離を縮めるつもりか、そう思って見ていると、その船が泡のような薄い膜に包まれた。それでいて速度は落ちず、――むしろ、上がった。まるでこの船を追い抜こうとするかのように。


「――え?」

 あれは、最後尾を守る護衛船のはずだ。前方で何かあったら待機し、必要なら護衛対象を誘導して海域を離脱する、その役目を負う重要な殿軍だ。それがどうして、この船を追い抜いていくのか。船乗りは海の上では仲間だと、海賊に襲われたそのときにはとにかく号砲と信号弾でそれを周囲に知らせ、他の船団からの応援を頼み、無理なら逃げろと合図を出すのだと教えられたことがある。

 そうでなくとも、あれはない。


「……まあ、何かあっても”ハヤブサ号”が逃げ切れない相手なんて、まずいないでしょうけど」

 ”隼号”は、高速輸送船として有名だ。フランツィーオ共和国からブリティーオ王国までの航路で、彼らと競るなら、それこそ軍の使う連絡用高速船くらいしか、勝ち目がないと聞く。その分、引き受ける荷は限られるが、船団を組まないからその分輸送費が安く、自分たちのような商人も乗せてくれるので人気も高い。

 揺れがきつくなってきて、クレイートは窓から目を離した。子供たちはきゃっきゃとはしゃいでおり、ダスクが必死に捕まえている。娘たちに取ってはこれもただのアトラクションAltirojかと苦笑しつつ、抜け出した一人を捕まえる。そして彼に声をかけようとした、その瞬間だった。

 周囲から何かがなくなった――そんな緊張に、一瞬だけ身体が支配される。子供たちもまた笑い声が停まり、ダスクもまた、身体を硬直させていた。


(魔素が――消えた……!?)

 魔法の――魔力の源となる魔素が、根こそぎで消えたとクレイートは理解した。魔法を使えない彼だったが、その代償であるかのように、魔素を感じ取ることが出来る。その感覚が正しいかどうかなど証明する手段はないが、彼自身は知っていた。

 誰かが魔法を使えば、当然のように魔素が消費される。けれどそれは、魔法に見合った消費量だ。魔法を使うには、魔素を取り込んで己の気力と融合し、魔力に昇華させる必要がある。だが、人間が魔力を生み出す程度のことでは、魔素を根こそぎにすることはない――よほど、規模の大きな魔法でなければ。

 この船の乗員は、元から全て知っている。少なくとも、ここまでの魔素を消費出来るような人員はいない。乗客はそのほとんどが商人で、護衛もどちらかと言えば武力系だった。――いや、そんなことを考えなくてもいい。この規模の魔力を扱うことなど、人間に出来ることではないのだから。


「っ!?」

 どれほどの時間を考えていたのか、ガクンと身体が揺れて、硬直から解き放たれる。船はさらに速度を上げていて、その衝撃だということにクレイートは気がついた。


「何があったんでしょう……ね……? え? ……犬?」

 こぼれた声のその通り、そこには犬がいた。正確には、壁に激突しかけた姉娘――シェリーをその身を挺して守ってくれたらしい、大きくもふもふした犬がいた。

 目を瞬かせながら、クレイートは犬を観る。体長は、己に匹敵するかも知れない大きさだ。もふもふした毛皮は、よい艶をしている。よほどに手入れされているのだろう。その身も引き締まっている。猟犬としても十分な力を発揮出来そうだ。無駄吠えをせぬ良い犬だ。惜しむらくは、その首に掛かる”従魔の首輪”だろう。つまりはただの犬ではなく、魔獣ということになる。


「ワンちゃんだーっ」

「きゃーっ」

 腕の中にいた妹娘――ジェニファーが嬉鳴をあげて、犬に飛びつく。元から庇われていたシェリーも、一緒になって犬の首ったけにしがみついてしまい、つい微笑ましさに笑ってしまう。


『父! 己の娘たちだろう、何とかしろ! まだ揺れて「きゃ「きゅっ』

 犬の悲鳴のような警告は間に合わず、船の揺れに子供たちが床を転がった。壁にぶつかりかけたシェリーを前足で止め、床に転がりかけたジェニファーをその腹で受け止め、犬はぐふぅと呻きを漏らす。


「え。あ。ありがとうございます――、あの、……ダスク、さん?」

 そこでようやく、クレイートはそこにいるのがダスクであると理解した。何をどう言えばと空回りしつつ、腹にしがみついて嬉しそうなジェニファーを引き剥がす。シェリーは自力で起き上がったが、すぐに体勢を崩してまた、ダスクに捕まえられていた。


『……片方は面倒を見てやる。そちらは手放すな』

「あ…、はい」

 ありがとうございますと消え入るような声で呟いて、しばし沈黙が落ちた。……とは言え、船は揺れるし子供たちははしゃぐしで、クレイートが喋ったら舌を噛んでいただろう。若しかしたら、ダスクも同様に舌を噛んだかもしれない。その後は二人、無言のままにひたすら子供たちを抱えていた。


『お…、落ち着いたか……?』

「まだ、船は揺れています、が……まあとりあえず、子供たちは落ち着いた、かと……」

 ヘロヘロになった二人が、互いに確認し合う。とりあえず、室内を転がったり、壁に押しつけられるようなことはなくなったと、ダスクはシェリーを離して自分の寝台に寝転がろうとした――が。シェリーが離れない。


「やー。わんちゃんとねるのー……」

『……』

「いや、ダメですよシェリー。ダスクさんはお疲れですから、部屋へ戻りましょう。ああ、ほらジェニファーも眠いみたいだし……」

 目を擦り始めた子供たちに苦笑して、クレイートは二人を呼んだ。とりあえず落ち着きだしたようだし、部屋へ戻ることはダスクに伝えて貰えればいいだろうと考えたのだ。


「やー」

「やだー」

 シェリーがいきなりダスクを枕にしたと思ったら、ジェニファーもそれに倣った。こらこらと慌てるクレイートを睨むダスクの尻尾が、何故かパタパタと振られる。


「……ダスクさん?」

『……主が戻ったぞ』

 その言と同時に戸が開き、部屋の主が姿を見せた。


「――え?」

 寝そべるダスクを見て、クレイートを見て、ダスクを枕にする子供たちを見て、セラスはもういちどクレイートを見た。

 どうして自分にと思わなくはなかったが、子供たちは眠っているし、ダスクは我関せずの気配だし、消去法で己になるのは仕方がないかとクレイートも苦笑した。


『主。いきなり犬の姿に戻ってしまったが、何があった? 船は揺れるし子供たちははしゃぐしで、大変だったのだが』

「……はしゃいだのか、あの中で。頼もしいな」

 頼もしい、とクレイートが呟く。まあ確かに、あの揺れの中で泣かれなかったというのは有難いし、今もぐっすりと眠っているようだし、そういう意味では頼もしいと言えるかもしれない。船に慣れているということもあるだろうが、……ただ。


「――この子たちは、恐怖を知りませんから」

 呟いた声は、自分でも驚くほど平坦だった。ダスクとセラス、その両方が彼を凝視する中で、言葉が続く。


「何もないところから、試行錯誤で育ててきました。人との別れは”悲しい”、出会いは”楽しい”。そこはどうにか覚えてくれたんですが、……”怖い”という感情が、どうしても育たないんです」

 膝をつき、子供たちの頭を撫でる。完璧な双子は、彼の宝物だ。


「かといって、危険な目に遭わせるわけにもいかないですし。下手をするとそれすらも楽しんでしまいそうですし。おかげでこちらは戦々恐々ですよ」

 笑って見せると、セラスは黙って子供たちを抱き上げた。解放されたダスクはやれやれと自分の寝台に戻るが、……セラスがそこへ子供たちを押し込める。


『主!?』

「どうせ寝るだけだろう。しばらく一緒にいてやれ」

 ダスクを真ん中に川の字を作り、シーツを掛ける。毛布をどうするかと示されたクレイートは首を横に振った。部屋の中はそこそこ暖かいから、そこまでは必要ないだろうが、いいのだろうかとダスクを見て、セラスを見上げる。


「――騒がないでくれた礼だ」

 その言葉で、諦めたかのようにダスクは目を閉じた。


「騒ぎませんよ」

 商人として世界を巡るようになり、そこそこの時間が過ぎている。だからクレイート自身も、様々な物事を目にしてきている。変身魔法の使い手もいたし、使い魔に人の姿を与える魔法使いもいた。だからこの程度、――魔獣が人の姿を取る、程度の話は。


「……ちょっと珍しいとは、思いますが」

「ちょっとじゃないだろうこれ!?」

 思わずこぼれたらしき彼の叫びに、その背後から恨めしげな声がした。”これ”はないのではないか、と。だがセラスは一顧だにせず切り捨てた。


「己の姿を制御出来ないうちはそれで十分だ。――眠れDormante

 ふわり、と魔素が動いて、ダスクが眠りにつく。いつの間にか、消滅していた魔素は満たされていたようだ。


「あれだけの魔素が……?」

 思わず言葉がこぼれ落ちる。魔素は何処にでもあって、常に一定の割合を保つとされている。魔法によって消滅しても、まずは周囲から流れ込み、その割合が保たれる。けれどあれだけはっきりと分かる空白地帯となったら、そう簡単には復元されない。下手をすれば数日がかかっても不思議はない。けれど今、確かに魔素は平常通りに満たされている。


「どうした?」

「あ、いえ……さきほど、魔素が消失して――そう言えば、ダスクさんが犬の姿になったのは、そのときですね」

「魔素が? ……いつの話だ?」

 あれは、記憶を辿る。そう、あれは船が大きく揺れる、その少し前のことだ。


「……ああ、障壁統括魔法を仕掛けたときか。道理で消耗が少ないはずだ……」

「障壁統括魔法…ですか? あの、軍船で使われるという……?」

「ああ、それだ。傭兵団にもけっこうな使い手がいるからな」

 いやいやいや、とクレイートは目を剥いた。そもそも障壁統括魔法は使い手が非常に少なく、使えれば一生食いはぐれないとされている。確かに著名な傭兵団には使い手がいると聞くが、その大半はどこかの私兵であり、ほとんどの使い手は、好待遇で各国の軍に徴兵され、生涯を捧げることになる。習得も困難で、そもそも大前提となる障壁魔法自体が自在に扱えなければ話にならない、そんな魔法だ。弓手である彼が、そんな魔法を――いや、逆だ。障壁魔法の使い手が単なる弓手と名乗ることが信じられなかった。


「……放浪旅団にいたころ、障壁魔法が使えるなら覚えろと言われてな。奴らの無茶振りがここでまさか役に立つとはな……」

 何を思い出したのか、セラスの視線は遙か遠くを見ているようだった。それが「他人の障壁魔法を支配してこその放浪旅団だ!」と同意なき障壁を従えられるようになるまで特訓が続いたためだと、クレイートが知るはずもない。セラスもまた、明かすつもりはないだろう。


「――いたころ、ですか?」

「ああ、奴らはアメイジア大陸の東側が行動範囲だからな。西方を見て回りたくなった。まだ所属はしてるが、特に連絡を取ったりはしてないな。なんだ、放浪旅団に何か用か?」

「いえ、そういうわけでは。――ああ、いや。そういう手もありますね……」

 ふとクレイートが真面目な顔になり、会話は途切れた。セラスは特に促したりもせず、窓を見る。海原の後方に、小さくなりつつある帆船が見えただろうか。

 波の音だけが聞こえる部屋になって、しばらくした頃――クレイートが顔を上げると同時に、セラスが扉に目を向けた。


「おぉぃセラの旦那ぁっ! クレイートさんがいないんだがここ「黙れmutigi

 魔法を叩きつけつつ動いたセラスが扉を押さえ、音が響くことは回避した。飛び込んできたガルドは声を奪われた事に気付かず、ただ寝台で眠る犬と子供たち、それから目の前で額を押さえるクレイートには気付いて、目を瞬かせた。


「……セラさん。この魔法、どれくらい続きます?」

「ただの単音詠唱だからなぁ……持って数分だと思うが」

 鍵をかけ忘れたのはセラスのミスだが、了承もなしに他人の部屋へ飛び込んだのはガルドの責なので、セラスに詫びる気は無い。子供たちが目を覚まさなかったのは幸いだ。……寝起きの子供はとても大変だから。


「十分ですね。ガルド、しばらく黙っていなさい。子供たちが起きたらどうするんです――」

 クレイートの説教は、セラスの単音詠唱が切れてもしばらく、延々と続いたのである。

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