第7話

アパートから大学へ、大学からバイト先へ、バイト先からアパートへ。入学してから変わらないルーティンを繰り返す。


漫画の新刊を調達しに本屋へ寄ったり、墓場太郎たちと飲みに行ったり、日常を彩るものはそう多くない。


統計基礎学IIはたいていぼっち受講だ。晃太郎と謙太郎は同じサークルの面々と集まって、いつも入り口近くに陣取っている。

一年の統計基礎学Iの頃から一緒に座らないかと誘われているが、いかにもなリア充の集いに混ざる方が、孤独感は大きいだろう。ならばいっそ、窓際の席をひとりで独占した方が気が楽だった。


学部共通の講義は受講人数が多い。キャンパス内で最も大きな大講義室を使用しているくらいだ。

誰が欠席しているかなんて、教授にも分かりっこないだろう。


欠席者が目視で分からないということは、異物が混入していても分からないということ。


軽音サークルで固まった中に、一年生のカナちゃんが混ざっているのが見えた。謙太郎の隣でスマートフォンの画面をチカチカ光らせていた。


授業開始の合図と同時にノモト教授が立ち上がる。神経質そうなあの男は授業開始前から教壇横のパイプ椅子に座って待っているのだ。遅れてくることも、早めに終わらせることも、時間をオーバーすることもない。

ノモットの時計はいつだって正確だ。


大講義室の照明が落とされるのを確認してから、持参したパソコンのエクセルを立ち上げる。前方から出席カードが回ってきた。このタイミングも同じ。


「あの、隣いいですか?」

「……どうぞ」


机に置いていたカバンとカーディガンをこちらに寄せて、ついでに出席カードも2枚確保してやる。

あ、なんか裏面に番号振ってある。なるほど、偽造防止というやつか。


「はい」

「ありがとう」


「あ」


無駄に大きなオレンジのリュック。スノーボードのウェアやギアを取り扱うそのブランドは、カラーリングが可愛いという理由で謙太郎も好んで使っている。


昨年、彼らのサークルに混ざってスノボ合宿とやらに参加した時に、ビビットピンクと黒のウェアを自慢された。


「先週、ありがとう」

「どういたしまして?」


ノモト教授の指示通りに教科書を開く。

カバンとカーディガンの山をくぐって、するりと小さな箱が滑り込んできた。


「あの、これ……お礼」

「え、別にいいのに」


わざわざ狙って隣に座ったのだろう盗撮魔に目を向けると、ふるふると首を振った。緩くウェーブのかかった髪が揺れる。


「チョコ、食べれる?」

「好き」


盗撮魔が変な顔をした。


「よ、良かった。迷惑かけてるお詫び、食べて」

「……じゃあ、貰う。高そうだし。ありがとね」


ぶんぶんと首を振って、でかいリュックからパソコンと教科書、ルーズリーフとバインダーを取り出す。オレンジ色のバインダーにはカメラのシールが貼られていた。


「えー、対応がない二標本のT検定では……」


昨年から学び続けてなお、統計というのはさっぱり意味がわからない。講義では電卓と計算式を使って自力で計算させられたりもするが、試験ではエクセルを使用しての計算が許される。本当は細部まで理解していなければいけないのだろうが、ぼんやりとやり方を覚えているだけでなんとなく乗り切れてしまった。


「ここで用いるのが、えー、自由度…………えー、ですが、帰無仮説の…………二標本の普遍分散を…………ですから…………」


あー、何言ってるかさっぱり分からない。


教科書を読んでも理解できない。私の頭は根っからの文系である。

言われた通りに教科書を見ながらエクセルに数字を打ち込んでいく。なんだよ、帰無仮説って。


エックスだとかルートだとか、今後の人生で関わり合いにもなりたくない記号に思考放棄して、なんとなく隣の盗撮魔に目を向けた。


「……どうかした?」


同じタイミングか、それとも私が顔を上げるより先にこちらを見ていたのか。丸い目とバッチリ視線が噛み合った。


「なん、でも……ごめんなさい」


目を逸らされた。

瞳の中に液晶の光が写っている。うーん、これはまつ毛エクステンション。マスカラしなくてもいいの、楽だよね。


「ねぇ」

「う、うん、はい。なんでしょう」


なんでそんなに挙動不審なの、と笑ってから、左手で頬杖をついた。

そりゃ、盗撮相手から普通に話しかけられたら挙動不審にもなるか。責めたりしないのに。


「リップ、どこの使ってるの?」

「え」

「いや、発色良いし、色も可愛いなーって思ってたから」


瞳がキョロキョロと宙を彷徨ってから、リュックをゴソゴソと漁る。

あちらこちらでヒソヒソと喋る音のなかに、私たちの声も混じる。ノモト教授は大きな声で騒ぎ立てない限り、講義中の談笑を注意しない。度が過ぎた学生は学生番号を控えられて単位に響くという噂だが、今のところそんな場面に遭遇したことはない。


「今日のはこれ」

「見ていい?」

「うん」


渡されたリップグロスを眺める。中身が半分ほど減ったピンクのそれは、フェミニンな女の子らしさが特徴のブランドだった。


「あと、こっちが無色のラメ入りで……これと合わせてる」

「ふーん。ジル好きなの?」

「あ、うん。高くないし」


無色のグロスは先ほど渡されたものと同じ。もうひとつは安価で高校生御用達とも言えるブランド。


かくいう私も、眉毛だけはその安価なブランドのものを愛用している。アイブロウペンシルはとにかく消耗が激しいのだ。ウン千円もするものを使っていたら眉毛だけで破産する。


「ポーチ見たい」

「あ、いいよ」


渡されたそれはそこまで重たくもなく、それでいてカチャカチャと無数の化粧品たちが音を立てていた。


「私のも見る?」

「いいの?」

「いいよー」


ケイトスペードの愛用バッグから猫ちゃん柄のポーチを取り出して、盗撮魔ちゃんに渡してやる。持った感じ、私のほうが無駄に重たい。重さの原因は鏡だと分かっている。


「ポルジョ……好きなの?」

「うん、猫が好きだから」

「可愛いよね。私も限定のコラボとか使わないのに買っちゃったりする」


私のポーチは外見も中身も猫柄が特徴のコスメブランドで埋め尽くされている。好きなのだ、猫。実家にも三匹いるし、許されるなら一人暮らしのアパートでも飼いたい。


ふたりしてお互いのポーチの中身を漁っては眺める。

墓場太郎たちとつるむのも気が楽で好きだが、化粧品の話なんかは理解してくれない。私もあえて話題を振るようなことはしない。

カナちゃんへの貢物で相談されるくらいだ。


「あ」

「あ」


同時に小さな声を上げ、手にしたそれを見て揃って理解する。

黒いコンパクト型のファンデーション。


「これ、いいよね」

「う、うん。高いけど」

「あはは、高いけど」


ジルスチュアートもポール&ジョーも、ブランド品とはいえそこまで高価なものではない。それぞれ二、三千円も出せば手に入る。ただ、化粧品というものはひとつだけ買えばいい、というわけにいかないから厄介なのだ。スキンケアも合わせると、いかに安価なものを集めてもびゅんびゅん金が飛んでいく。

私のポーチの中身も、彼女のポーチの中身も、総額はたいして変わらない値段になるはずだ。


お揃いのファンデはコスメブランドの中でも高級品であり、ぎりぎり一万円しないもの。


「リップとかチークは色が可愛ければ正直どれでもいいかなって思うけど、ファンデだけは違う」

「飲み会の翌日とかノリが違うよね」

「ね。安いやつだと夏とかドロドロにならない?」


なるなる、と頷いた彼女にポーチを返しながら笑ってみせる。帰ってきた猫柄のそれは、やはりずっしりと重たい。


「飲み会とか行くんだ?」

「あ、うん。あんまり行かないけど……友だち少ないし」

「あはは。私も」


相変わらず何を言っているのかちんぷんかんな統計学を適当に聞き流しながら、私は盗撮魔と楽しくおしゃべりしていたのだった。



大講義室の照明が元に戻ったのを機に、安いノートパソコンと教科書をカバンに放り込んだ。


「じゃね。チョコありがと」

「あ、あ、待っ!」

「あ、痛……」


デジャヴ。


立ち上がった瞬間、硬い椅子に逆戻り。先週も同じようなことしたなぁと思いながら、バッグから盗撮魔ちゃんの指をさりげなく外した。


「こ!こ、こ!」

「こ?」


「こんど、あの、お昼とか!どうでしょう……?」


講義室の薄暗がりの中では楽しく会話していたのに、盗撮魔ちゃんは挙動不審に戻っていた。普通の女の子だなと思えば挙動不審、挙動不審かと思えば普通の女の子。


「ナンパ?」

「なッ!?」

「いやいや、冗談。いいよ、いつが良い?」


飲みに行こう、ではなく、昼食を誘ってくるあたりに好感が持てる。大学生という生き物は、バカのひとつ覚えみたいに飲み会を開くから。


世の中にはアルコールで騒ぐ以外にも親交を深める方法があるのだと知って欲しい。


「明日、とか」

「明日ね、いいよ。一限しかないし、連絡する」

「う、うん!うん!」


スマートフォンをひらひら振って、立ち上がる。



後ろから、「やったぁ」と聞こえた。悪い気はしない、とそう思った。

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