第7話

(形なんか、どうでも良かったはずなのに)


 二人で一緒にいられれば、何の問題もなかった。

 視線を合わせて、お互いの温もりを感じる程側にいて。

 幸せだったはずなのに。


(二度と会う事のない、ひと……)


 自分から望んで決別した。


(後悔なんて、していないはずなのに)


 強く握りしめた手から、血の気が引いていく。体の奥から、何かが込み上げてくる。


紫杏しあん!)

「落ち着け。大丈夫だ。俺はここにいる」


 背後からふわりと抱きしめられ、直接耳に声が届いた。

 震える白い手は、今しっかりと紫杏の手の中にある。壊れそうな程早鐘を打っていた胸は、次第に落ち着きを取り戻していった。


「……申し訳ありません」


 突然のライラの異変に心配するヴァイネルとシュスレイアに向けられたものだ。


「大丈夫ですか?王妃陛下」


 シュスレイアは知らない。その呼び名がどれだけライラにとって大きな意味を持っていたのかを。

 かつて、幸せだった頃の呼び名。自分自身の勝手な望みの為に、ぶち壊してきた幸せの。


「シュスレイア様……いいえ、シュア様。私は王妃陛下ではありません。今も、この先もずっと。そんな資格など無いのです」


 ここで王妃になるのなら、あのままで良かったのだ。わざわざ捨ててきた地位に、今更戻る資格も意味もない。


「わたくしは」


 俯くライラの手を取り、シュスレイアは真摯な様子で言葉を紡ぐ。


「あなたに王妃になる資格がないとは思いません。先程のトゥーラ姫とのやり取りを見ていて、この方なら大丈夫だと、そう確信しました。それに何より、あなたは王が気に入った方」


 ここまで言われて嬉しくないはずがない。しかも国王の妃であるシュスレイアにだ。


「……ありがとうございます」


 でも。

 今にも泣き出しそうに顔を歪め、それでも顔を上げた。そしてすうっと息を吸い、毅然と背筋を伸ばし、きちんと瞳を合わせて言う。


「私は本当に王妃になるつもりはないのです」


 何の為に此処にいるのか忘れるわけにはいかない。


「王妃になる事よりも大事な、願いがありますから……」


 その言葉に宿る強さは、そこにいた全ての者達から言葉を奪った。

 さり気なく手を引く紫杏に気付いて、ライラは有り難く思う。


「失礼します」


 静かに立ち去る背中は、声を掛けられる事を拒否していた。





「ヴァイネル」


 宴が終わってすぐ、庭を歩いていたヴァイネルはシュスレイアに呼び止められた。


「あの子を正妃にするのはやめましょうね」


 あの子とはもちろんライラの事だ。


「もともと本気でそうするつもりではなかったのでしょう?あの子がそのつもりなら別でしょうけど」


 さすがにヴァイネルの妃である。彼の事は誰よりもわかっていた。

 最初は何故ライラを正妃にしようとするのか全くわからなかったけれど、今ならわかる。直接ライラに会って話をした今なら。


「幸せになって欲しかったのでしょう?同じ位の年齢だものね」

「───あぁ」


 望む通りにしてやりたかった。初めて会った時から、深い哀しみを抱いているのを知っていたから。

 何とかして取り除いてやりたかった。けれどどうして良いかわからずに。

 だからせめて、何不自由ない生活を、と。

 幸い他の妃も気の良い者達ばかりだ。いつか哀しみは消してやれると思った。

 現実は違ったけれど。余計に哀しくさせたけれど。

 本当はそうじゃなかった。


「苦しんで、それでも負けないと、強くあろうと胸を張っている。同じだったんだ。妹と」


 九つ離れた、現在十五歳の妹がいる。

 産まれた時から目も耳も口も、全てが働かなかった、暗闇に閉じこめられた妹。今も、彼女は光を知らない。言葉も、音さえ知らない。

 何をする事も出来ず、森の奥深くの別邸で静かに暮らしている。

 遠く森に想いを馳せ、ヴァイネルは瞳を閉じた。


「幸せになって欲しい」


 それが望み。

 叶えてやれない望み。


「シストも」


 心から願う。


「私の妹とか、他の誰かの代わりではなく。シスト自身が幸せになって欲しい。今は、そう思う」


 ほんの数日の付き合いだけれど、彼女は人にそう思わせるだけの魅力がある。

 美しさと、知性と。そこから想像も付かない程の強さと。

 人の上に立つ器。

 守られたい。守ってやりたい。そう思わずにはいられない女性。



 書簡が届いたのは、それから一週間後の事だった。





◆◇◆◇◆◇◆


 中庭の噴水が見えるバルコニー。今日もライラはそこにいた。もはや定位置だ。

 たまにどこかの貴族の姫がやって来て、皮肉を言っては逆に言い負かされて帰っていくが、それ以外は本当に心落ち着く場所だった。

 昼を少し過ぎた頃になると、政務を一段落させたヴァイネルがやってくる。女官達にお茶の用意をさせ、ライラと話をするのだ。

 彼にとっても、それは日課となりつつあった。


「いつも噴水ばかり見ていて飽きないか?」


 長い目で見れば様々な変化があるのだろうが、こう毎日見ていては大した変化など無いに等しい。


「だって、暑いんだもん。それに、ここの方が落ち着ける」


 涼しげな水の音は、ふとすると沸き上がる想いを鎮めてくれる。この王宮で唯一の精神安定剤だ。

 この王宮に来てからというもの、言いようのないもやもやが体の底で蠢いている。同じ『おうきゅう』という場所が、彼女にそれを強要するのだ。


「そんなに暑いか?ここはハリシュアでも北に位置するんだが」


 ハリシュア王宮の存在する場所は、この国でもまだ涼しい方なのだという。


「なんか、魂抜けそう……」


 ライラはぺしゃりとへしゃげてしまった。

 これで涼しいなんて間違っているぞ、と思う。


「という事は、だ。お前達はもっと北に住んでいたって事だな。ジェイズは……まぁ確かにここよりは涼しいが、そんなに変わらないし。エンジか、キャンウェイか───ギルア、か」


 ハリシュアの北に隣接するのがギルア藩属のジェイズ王国。面積も横向き長方形のような形も、ハリシュア王国とほぼ同じである。そして更にその北にはギルア帝国本土。エンジ国とキャンウェイ国はその東に位置し、共にギルア藩属国である。ハリシュアよりもかなり涼しい。


「我々はギルア帝国出身ですよ」

「紫杏!」


 慌てて振り返るが、紫杏は素知らぬ顔だ。下手に隠すよりその方が良いと思ったのである。


「そうか、やはりな」


 何に気付いた様子もなく、ヴァイネルは納得顔だ。ライラのあまりの暑がりようが、北方育ちのためだから、とそれだけを素直に思っているようである。

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