第二話 迫りくるコサック軍団、その数一万

この前年の明治37年。

日本とロシアの間で戦いの火蓋が切って落とされた。


日露戦争である。


朝鮮半島、満州の勢力争いに端を発したこの戦いは、

後世の人間から見ると、いや、当時においても無謀以外のなにものでもなかった。


ユーラシアに跨る巨大帝国と近代化したばかりの極東の弱小国。


人口は、

ロシア1億2000万人に対し、日本は4600万人。


陸軍兵力は、

ロシア200万人に対し日本は100万人。


海軍力は、

ロシア80万トンに対し日本は25万トン。


火砲は、

ロシア2260門に対し日本は636門。


これら数値をみても分かるように、すべてにおいて日本はロシアに劣っていたのだ。


一説では、工業力、生産力、などを含めた総合国力差は、

日露で20倍もあったという学者もいるほどである。



またロシア皇帝ニコライ2世は、それより10年近く前、日本の滋賀県大津において、日本人警察官に暗殺されかけたことがあった。


世にいう大津事件である。


その恨みもあってか、彼は黄色人種である日本人を「マカーキ(猿)」と侮蔑し、


「朕が望まない限り戦争は起きない」


「日本ごときに戦争をする選択肢は無い」


と舐め切り、

様々な軍事力を展開させ日本へ圧力をかけ続けていたのだ。


「日本など少し脅せば屈服する。10年前、日本が清から手に入れた遼東半島も、ちょっと脅したら日本は手放した。おかげでロシアは遼東半島の大連と旅順を手に入れることができた。今回も脅せば意のままだ」


こういった考えがニコライ2世をはじめ、ロシア帝国上層部には蔓延していた。



だが明治37年2月6日。


ついに日本は動いた。


佐世保を出航した日本連合艦隊の内、第一艦隊はロシア主力艦隊を叩くため旅順へ向かい、第二艦隊は陸軍先遣部隊約2200人を朝鮮半島の仁川に上陸させたのである。


当時中立港であった仁川(現・大韓民国の都市)には、様々な国の軍艦が停泊していたため、第二艦隊はロシア艦隊へ挑戦状を送りつけると、港外へ誘い込み砲撃戦を開始。

ロシア軍艦ワリャーグを撃沈させ、コレーツを自沈に追い詰めた。


一方、旅順へ向かった第一艦隊はロシア旅順艦隊を港へ閉じ込め、制海権を確保した。


まさかの奇襲に驚くロシア軍であったが、日本軍は陸海軍の連携で瞬く間に陸軍を進撃させ、この先制攻撃により補給路を南満州まで延ばすことに成功したのだ。


ここにきてついに戦争ははじまったのである。


だが世界は驚き呆れた。


「愚かな弱小アジア人が強国ロシアにたてついた。どうせ勝利もはじめだけだ。すぐにでも敗北して終わるであろう」


こういった考えが世界を覆っていたのである。


しかし世界の予想に反し、

仁川上陸作戦、鴨緑江渡河作戦、南山の戦い、遼陽の戦い、

とこれらのすべてに勝利し、日本は善戦を続けた。


日本軍は着実に歩を進め、朝鮮半島を北上、満州に居座るロシア軍に迫っていったのである。


また、日本の勝利に沸き立ったのは、日本本国だけではなかった。


特に当時、西洋列強に植民地とされていた有色人種の民族は、白人による長年の支配や圧力に苦しめられ、反旗を翻す者たちもいたが、そのいずれもが武力で鎮圧されていた。


インド、インドネシア、ベトナム、フィリピン、エジプト、アフガニスタン、トルコ…



そんな彼らが、極東の弱小国の善戦に「自分達も頑張れば戦えるかもしれない」と自らの独立の夢を日本の勝利に重ねたのは当然の成り行きであったであろう。


だが、この勝利は決して日本軍の強さだけで説明できるものではなかった。


一つに、忘れてはいけないのが、当時、世界最強の海洋国家イギリスとの同盟「日英同盟」である。


彼らイギリスはこの同盟により、ロシアに味方する第三国の参戦を防ぎ、また様々な面でロシアに圧力をかけたのだ。この同盟の効力も忘れてはならない。


そして最も最大の要因は、


「まだロシアが本気を出していない」


これが一番であった。



当初、連勝を重ねていた日本軍であったが、その被害は日を追うごとに大きくなっていた。


一方のロシアは負けながらも奥へ奥へと日本を誘い出し、被害も最小限に抑えている。


実はロシアは「撤退作戦」を採用していたのだ。


これは兵の損失を最小に抑え、負けたつもりでじわじわと敵を内部へ誘い込み、敵の戦線が伸びきり疲れ切ったところに、大兵力をもって反撃にでて、敵を粉砕するという作戦である。


事実、ロシアは歴史上この戦略で、何度も強敵を撃破してきた。


さかのぼること100年前。

西から攻めてきた皇帝ナポレオン率いる50万のフランス軍をを奥へ奥へと誘い込み、戦線が伸び切ったところで反撃に転進。

飢えと寒さ弱体化した最強の50万のフランス兵を撃滅し、その兵力を5000にまで壊滅させ、国を守ったのである。


また、日露戦争より40年後の話となるが、ドイツのヒトラーもこのロシアの撤退作戦の前に敗北している。



そう「撤退作戦」はロシアのお家芸でもあった。





日露が開戦し既に一年近くが経過した。

たびかさなる激戦に日本の兵力は消耗、資金は枯渇、国力の限界は目の前にきていた。


確かに表面的な勝利は続いている。

だが日本に戦う力は残されていない。

一瞬のほころびが崩壊を招き、大敗北につながるかもしれない。

そう予断は全く許されていないのだ。




「鈴得中尉!ただ今、内田兵長が帰還しました!」


ここは鈴得小隊67名が陣を張る自家窩棚。


タバコの煙を燻らし、一人執務室で作戦を練る鈴得の下に、斥候として単騎敵地に潜入していた内田兵長の帰還であった。

知らせを聞いた瞬間、顔には出さないが鈴得は部下の無事を心より喜んだ。


俊敏な内田兵長の密偵としての能力は小隊一であるが、密偵の任務は非常に重い。


通常、戦時におけるスパイ行為というものは、見つかれば問答無用で処刑されるのが常だからだ。




「内田兵長。敵情視察の任務、ご苦労であった」

「ハッ」

「怪我はなかったか?」

「ハッ。ありません」



報告を聞くや鈴得は黙って煙草を差し出した。

内田は一礼し煙草を咥えると、鈴得はすかさずマッチで内田の煙草に火をつけた。

内田は上官の心配りに心より感謝した。


このような鈴得の細かな配慮は、小隊全員に行き届いており、

これこそが、部下たちが鈴得に絶対的な信頼を置く理由でもあった。



「敵の様子はどうだった?」

「そ、それが…」


ためらう内田であったが、無理もない。

その報告は驚くべきものであった。



「ここより30キロ先の牛荘市街地及び村々が、コサック軍団に襲われました。物資は奪い焼き払われ、鉄道線路は破壊されました」

「牛荘守備隊はどうした?」


「来襲したコサック騎兵団の出現に全滅。応援に急行した安原中隊も中隊長以下ほとんどが戦死。後備歩兵第四十九連隊第六中隊の宇野大尉以下全滅しました」

「そうか・・・・・・」


同じ中隊の戦友達の全滅。

悔しさと悲しさがこみあげてくる。

だが事実は事実。

皆、内田の報告を黙って聞く以外に無かった。


続けて鈴得は内田に尋ねる。

「その後、コサックはどうした?」

「一旦の休息の後、進軍を開始しました」

一同、息をのむ。


「奴らの数は?」

「コサック騎兵大集団。数は・・・」


「どうした、言え」

「45個中隊、約1万騎。奴らはこちら自家窩棚に進撃中であります」


「1万だと!」


下士官達は思わず声を荒げた。

だが鈴得は目を閉じたまま静かに内田の報告を聞いている。


「装備は?」

「野砲、機関銃の装備も充実。大騎兵団であります」


鈴得は静かに目を開く。

「敵を率いる将は?」

「ミスチェンコ将軍であります」


「何だと!」


この時ばかりは鈴得も驚きを隠せなかった。




ミスチェンコ将軍。


ロシアコサック騎兵の猛将中の猛将である。


1877年の露土戦争、1900年の義和団事件において精鋭のコサック騎兵団を率い出陣し、数多くの敵を屠りその武名を世界に知らしめた。


前年1903年にコサック旅団長に就任し、今次の戦いでも大いに奮戦。


数多くの会戦で暴れ回り、日本騎兵の父と呼ばれる秋山騎兵団を大いに苦しめた、まさにロシア軍最強の騎兵指揮官であった。



そのミスチェンコ将軍が1万の騎兵を率いて攻めてくる。


対する自家窩棚を守る日本軍は、鈴得中尉含めた67名。


67対10000。


最早、戦とはいえないであろう。


だが、彼ら鈴得小隊は何があっても、ここ自家窩棚を死守せねばならない理由があったのだ。

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