第3話

 絵が下手でも、努力すればと思っていた。実際、奏江の勧めで、中二の頃から模写を始め、中三の頃から手や足のクロッキーを始めた。

 次第に、前とは違う感覚を覚えていった。上手くなったかはわからないが、前より思うように手が動くような感じがした。手や足にしても、爪の形、骨格、肉付き、皺、動きが、前よりよく見えるようになった。

 鉛筆が手に馴染んでいく感覚が好きだ。ケースを開けた時の、鉛筆の芯の匂いが好きだ。カッターで削る時の音も。練り消しとぐにょぐにょした感触も。触るたび手が黒く汚れるのさえも、好き。

 画塾の体験に行くまでは、今は下手でも、今から上手くなっていくんだと、思っていた。

 それを見た時、私は絶望よりも、自分に落胆した。様々な人たちが描く絵にも、凄いとは思った。落胆した原因は、奏江の絵だった。いや、自分の絵か。それとも、奏江との差か。私は確かにその時、「才能」というものを突きつけられた。


 描き溜めた絵も、画材も、結局捨てれなかった。

 やりたいことがないんじゃない。やりたいことをやる勇気がない。弱い私が、あの進路希望調査者を紙切れにした。

 絵で食っていける人は一握り。よく言われてることだ。結局、才能がある人、ない人で分けられる世界なのだ。

「コンコン」

 母だろうか。ご飯を呼びに?でもそうならわざわざ部屋に来たりしないはず……。

「入るぞー」

 カタリという音と共に入ってきたのは、兄だった。私より7歳年上で、地元の市役所の何とか科に勤めているとか。

 母から聞くところによると、小学一年生の頃から、「僕の将来の夢は公務員になって安定した生活を送ること」と言ってたらしい。

 今までは、なんて夢のない、と笑っていられたかが、将来を何か決めないといけないこの時期になってくると、夢があろうがなかろうが、兄はちゃんとしていたんだと気づく。

 兄は私の返事も聞かずにずかずかと部屋に入ってくる。こういうところはちゃんとしてない。まぁ別にいいのだけど。

「進路に迷ってるんだって?」

 母から聞いたのか。

「別に。てか兄ちゃんはなんで帰って来てるの?」

「母さんから葵が進路に迷ってるって聞いてな。話でも聞こうと思って。すぐ帰って来れる距離だしな」

 話を逸らそうとしたが、逆効果だったようだ。

「兄ちゃんには関係ないでしょ」 

「てゆうかお前、何、絵とか鉛筆とか撒き散らしてんだよ、全く……」

 そう言いながら、兄は乱雑に床に置かれた紙やら鉛筆やらを拾い上げた。

 何も知らない人に、絵を見られることも、触られることも嫌だったが、なんだか止める気力もなかった。だから、止めない代わりに、一言。

「片付けるなら、ついでに捨てといてよ、それ」

 兄は固まっているように感じた。同時に、何を言おうか迷ってもいるような気配もした。

 トントンと紙束を整える音がする。数十秒後、兄は言った。

「わかった」

 ホッとした。

 ドキリとした。

 よかったと、思った。


 数分後には、私の部屋から絵に関する全てのものがなくなった。

 机には、進路希望調査者だけが残った。何も書けそうになかった。

 ただただ、眠りたかった。寝ていないと、よくわからない感情が湧き上がって、お腹の中でぐるぐるとしているものが、溢れてきそうだったから。

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