第三十二話 呪いの終焉。

 アルテュールが差し出した〝時戻りの衣〟がふわりと広がり、袖を鳥のように羽ばたかせて魔女の方へと飛んで空中で静止した。


『ほう。これは期待してもよいかのう』

 魔女の手に曲がりくねった木で出来た杖が現れて、衣を確認するように撫でまわす。


『……今回は本物だのう。織ったのは、その娘か?』

 魔女の問いにアルテュールは答えない。


『では、直接聞くかのう』

 機嫌の良い笑顔で魔女が指を鳴らすと、私を包んでいたガラス状の壁が消えた。

「やめろ! 彼女には手を出すな!」

 駆け寄って来たアルテュールが私を背に隠す。


『安心せい。願いを叶えてもろうたのだから、害したりはせぬ』

 魔女は杖を手放し、衣を胸に抱きしめた。杖はゆっくりと沼の底へと沈んでいく。


『娘、これを織ったのはお前かえ?』

「はい」

 魔女はとても優しい表情で私に問いかける。この女性が呪ったとは信じられなくなってきた。

 

『そうか。この衣からアルトを深く愛しておるのが伝わってくるのう』

 自覚はしていても、他者から指摘されると恥ずかしい。頬が熱くなっていく。


『アルトの呪いを解こう。……すまなかった。すべては我の妄執が原因じゃ。わかってはおったのだが、認めることは難しゅうてのう』


 魔女の指が空中に黒い星を描き、その爪で星を切り裂いた。


「!」

 アルテュールの仮面が割れて、地面に落ちる。その顔から黒い鱗は消え、蛇の瞳は人のものへと戻っていた。

「鱗が消えた!」

 思わず喜びの声を上げた私を青い瞳が捕らえる。恐る恐る伸ばされたアルテュールの手が、自らの顔を確認するように触れた。


「……本当だ…………イヴェット、ありがとう!」

 アルテュールと抱き合いながら、嬉しくて涙が溢れる。呪いが解けて本当に良かった。


 少しして、アルテュールの腕が緩んだ。

「レプティール、〝時戻りの衣〟をどう使うのか、訪ねてもいいだろうか」


『……時を戻り、蛇に戻る。それだけのことよのう』

「蛇?」

 思わず漏れた私の不躾な言葉に、魔女は笑う。


『そう。蛇であった我は千年のよわいを重ね、魔力を得て人の姿と思考を持った。…………そうして叶わぬ恋の苦しさを知った。知らなければ良かったのだ。人を愛し、愛されることの喜びを』

 魔女は衣に頬を寄せ、溜息を吐いた。


『ああ、その娘は知らぬのよな。我は昔、アルトの曾祖父アロイスと恋仲でのう。あの男が王子であった頃は、その家で共に住んでおったのじゃ』


『だが兄王子が病に倒れ、あの男が王になってからは姿を見せなくなってのう。それでも我は毎日待っておったが二度と会うことなく、数十年経って死んだという知らせを聞いた』


『……忘れようと何度も思った。過ぎ去りし思い出にしようと、この森を訪れた何人もの男を愛し、愛されたが、それでも結局は心があの男に戻る。騙されたのだと我に言い聞かせておるのに、向けられた優しい笑顔は本物であったと信じて疑うことができぬ』

 魔女は溜息を吐きながら笑う。


「蛇に戻ると、どうなるのですか?」

『人の姿で見聞きしたこと、感じた想い、すべてを忘れる。蛇の思考は切り刻まれ、留めおくことはできぬからのう』

「そんな……」


『心配せずともよい。我は死ぬわけではないのじゃ。元の蛇に戻り、この妄執を捨てるだけ。長年の苦しみから解放されるのだから、これは我にとっての幸せだ』

 私に話し掛けていた魔女は、アルテュールへと目を移した。


『アルト、日記は燃やしてくれたかのう?』

「ああ。私の手で焼却した」


『そうか。これで何も心残りはない。……さらばじゃ』

 魔女は〝時戻りの衣〟に袖を通し、胸元で手を組み合わせた。


 透き通る衣が七色に光り輝き、どこからか吹く風で魔女の黒髪と、長く垂れた袖と裾が舞う。沼の水面が渦巻き、森が泣いているようにざわめく。……沼と森は、魔女との別れを惜しんでいるのかもしれない。


 魔女の姿が、大蛇へと変化した。人よりも大きな黒い蛇が徐々に小さくなって、ついには私でも捕らえることができそうな小さな蛇になってしまった。


 水面に広がった衣が光の粒になって霧散すると、小さな蛇は私たちに驚くような仕草をした後、逃げるように沼の奥へと泳いで姿を消した。


「……忘れたいと願う程の恋を、あの方はしてしまったのね……」

「ああ」


 〝王子妃の指輪〟が無ければ、私も同じ状況に置かれていたかもしれないと想像すると胸が痛む。愛する人が訪れるのを待つだけの日々は、きっと私には耐えられない。 


 森のざわめきは消え、沼は静寂を取り戻した。


「……館に帰ろう」

 静かなアルテュールの言葉に、私は頷いた。


      ◆


 館に戻ると夕方近くになっていた。呪いが解けたことをノーマと一緒に喜び、夕食を食べた後、女主人の部屋の長椅子でアルテュールと並んで花茶を飲んでいた。


「視界が明るすぎて落ち着かないな。……イヴェットの可愛い顔がはっきり見えるのは嬉しいが」

 そう言って笑うアルテュールは、ロブの面影を残していた。


「……まずは私が呪われた話からしようか。……曽祖父は、私が生まれる十五日前に八十歳で亡くなった。他者よりも遥かに長寿だったので葬儀も静かに行われたらしい。葬儀が終わり、私が生まれた日に魔女が王城の最深部の結界を破って侵入してきた」


「魔女は曾祖父は本当に死んだのかと曾祖母に尋ね、死んだと答えると魔女は怒って私に呪いを掛けた。私の魔力属性は火と光。魔力光の色は違うが、曾祖父と属性が同じだったのが理由だろう」


「呪われた私は隠されるように育てられ、公式の場にもあまり顔を見せなかった。夏の社交の時期には別荘で隔離されて、時間を持て余していた私は転移魔法であちこちをふらついていた。外国へ行ってみようと試した時、イヴェットと出会ったんだ」


 ロブがそんな寂しい環境にいたなんて、全くわからなかった。いつも優しくて、楽しいことを沢山知っていて。私はいつも安心に包まれていた。


「……昔、イヴェットに口づけただろう? あの後、私はイヴェットの家に王子として正式に求婚するつもりでいたんだ。でも、出来なかった」


「君が口づけを許してくれたことで浮かれた私は、吟遊詩人が持ち込んだ〝時戻りの衣〟を買った。その衣は君が織った程の美しい布ではなかったものの、白く輝く美しい布で出来ていた。神々しい力に満ちていて、本物だと信じてしまった」


「大金を支払うと吟遊詩人は姿を消した。そこで疑うべきだったのだが、私はそれを持って魔女に会いに行き、それが偽物だと知った」

「あの方は、それで怒ってしまわれたのですか?」


「いや。魔女を怒らせたのは別のことだ。……私は魔法で隠されていた曾祖父の日記を見つけて読んでしまっていた。日記には、魔女への愛と曾祖母への愛が綴られていたんだ。曽祖父は間違いなく二人の女性を愛していた。王という身分に縛られて、魔女と会うことを自ら封じたものの心では愛し続けていた」


「私には今でも理解できないが、曾祖父は同時に二人の女性を違う形で愛していた。私は愚かにも、魔女にそのことを伝えた。ずっと愛していたと知れば喜ぶのではないかという子供らしい浅はかな考えで」


「偽物の衣を見て笑っていた魔女が激怒したのは、その時だ。いつでも呪いを忘れないようにと鱗を嫌でも見る場所に移されてしまった」


「何故、お怒りになってしまったのでしょうか」

「わからない。隠された日記を見たことなのか、曾祖母も愛していたことを知ったことなのか、今でもよくわからないんだ」


「……二人の方を同時に愛するということが私にはわかりません」

 ロブとアルテュールと、どちらかを選ぶ為に諦めなければと悩んでいたこともあった。同一人物だったからよかったものの、もしも別人だったら、二人への想いの間で悩み続けていたかもしれない。


「私にもわからない。私はずっとイヴェットだけを愛し続けていた」

「私はロブを愛し、そうしてアルテュールを愛するようになりました」


 見上げると青い瞳が微笑んでいる。仮面があっても平気だと思っていたけれど、見つめ合うことがこれ程嬉しいことだとは知らなかった。


「イヴェット、私の呪いを解いてくれてありがとう」

「アルテュール、私を助けてくれてありがとう」


 ロブと別れてからの七年間は苦しかった。笑うことも泣くこともできずに、すべてを諦めて人形のように過ごしていた。それが辛いことだと気が付けないままだった私を、アルテュールが助け出してくれた。


 額を合わせると体温が伝わってくる。青い瞳に映るのは私だけ。


「イヴェット、口づけていいかな?」

「はい」

 目を閉じると、そっと優しい温かさが唇に触れる。


「……困ったな。やせ我慢がさらに厳しくなる」

「やせ我慢?」

「これまでは、呪いのお陰でイヴェットに触れることを我慢できた。呪いが無くなると、深く触れ合いたくてたまらない」


「口づけなら、いつでも構いません」

「……今は、それだけで我慢しよう」

 何度も何度も、アルテュールは私に口づける。熱くなる頬にも口づけられた。


 くすぐったくて笑うとアルテュールも笑う。

「品行方正な王子の仮面は、まだ外せないな」 

「呪いは消えたのだから、仮面は外してもいいでしょう?」


「……いや。まだ仮面は外せない。結婚式まで付けたままでいるよ」

 アルテュールは優しい口づけを再開し、私は嬉しくて笑い続けた。

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