第十五話 湖に映る空と森。

 私の新しい生活が始まった。貴族だった頃には知らなかった洗濯や掃除が楽しくてしかたない。ノーマとマリーに教えを受け、これまでは指示するだけだった仕事の大変さを学んでいる。


 マリーが館に来てから、王子は度々転移するようになった。私の祖国やフリーレル王国に出掛けて、お土産を買って帰ってくる。


 シーツを洗い、マリーと日当たりの良い庭の一角で干しながら、会話を交わす。

「王子は、とてもお忙しい方なのですね」

 それなのに私の隣にいてくれる。何故と疑問はあっても、その温かさが嬉しい。


「この案件が片付けば、しばらく休みを取られると思いますから、ゆっくり過ごせますよ」

 二人の会話に出てくる『案件』が何なのか、私には説明されていない。国家の機密事項なので、終わってから説明するとだけ言われている。


 機密事項に私はどう関わっているのか、私の救出計画とは何だったのか。いつか聞かせてもらえるだろうか。


「王子の顔のアザは酷いものなのですか?」

 常に仮面をつけているけれど、この館の中だけでも外していてもいいと思う。


「一度、仮面が外れてしまった時に見てしまいましたが、酷いアザでした。ご本人が他者に見られたくないと思うのも無理はありません」

「そうですか……」

 良かった。外してはどうかと本人に言う所だった。


「イヴェットが見たいと言えば見せてくれるかもしれません」

「それは……ご気分を害してしまうのではないでしょうか。ご自身で外されるまで待ちます」


「王子が気になりますか?」

 マリーが笑う。

「……どうしてこんなに優しくしてくださるのか、わからないのです」

 隣にいても過度に触れ合うこともなく、私が不安になった時に手を握るだけ。愛人にしようというのではないのだろう。


「それは私も聞いてはいません。舞踏会の後に突然、イヴェットを護衛してほしいと仰っただけなのです」

「やはり護衛だったのですね。ありがとうございます」


「今では友人と思っていますが、どうですか?」

「はい。私もそう思っています」

 マリーが友人と言ってくれて嬉しい。


「よかった。私は変わり者と言われ続けていましたから、王女以外の友人が出来なかったのです」

 私もロブ以外、一人の友人もいなかった。


 二人で笑い合い、私たちは洗濯物を干し終えた。


      ◆


 毎日体を動かすと、夜はしっかりと眠れる。嫌な記憶がよみがえっても王子の楽しい話を思い出すと不安が消えた。


 目が覚めると夜明け前。もう一度眠るのが惜しくて、着替えてテラスへと出た。空は徐々に明るくなりつつあり、湖が美しく明けていく空と森を映している。


 この館に来てから一カ月が過ぎ、夏が終わろうとしていることを感じる。湖から吹く風の寒さにショールを持ってくれば良かったと考えた時、そっと肩に大きな上着が掛けられた。


「湖の朝は寒いぞ」

 そう言って笑う王子は、白い夜着のまま。上質な長いシャツ状の上着と幅広のズボン。私が何も言わずに出たので、慌てて追いかけてきたのかもしれない。それでも顔の上半分は仮面にしっかりと覆われている。

「申し訳……」

 謝る私の唇にそっと王子の指が触れると、どきどきと心臓が音を立て始める。


「謝る必要はない。何を見ていたんだ?」

 優しく微笑む王子が、私の背中から包むようにして抱きしめた。……心臓の音が聞こえてしまうかもしれない。


「湖に映る空と森を見ていました。……私は……まるで違う世界に来たようです。もしかしたら、湖に映っている世界から、この世界に来たのかもしれません」


「元の世界に戻りたいか?」

「いいえ。もし可能なら、ずっとこの世界にいたいと思っています」

 優しい貴方の隣にいたい。その願いは口にはできなかった。たった一月しか経っていないのに、ロブとの思い出がすっかり王子と重なってしまった。


 愛人を求めていない王子に、愛を求めて寄り掛かってはいけないと思う。


「イヴェットが望むなら、いつまでもこの世界にいていい。もしも……この館から出て行きたくなったら言ってくれ」

 そう言いながら、私を抱きしめる王子の腕の力が強くなる。まるで引き留められているよう。


 出て行きたいなんて言う訳がない。私にはどこにも行くあてもない。


「自立したいのなら援助する。町に住みたいのなら家も手配する。イヴェットの居場所はどこにでも作ることができる」

 私の不安が伝わってしまったのだろうか。

「ありがとうございます。……私はこの館にいたいと思います。ここを私の居場所にしてもいいですか?」


 私の言葉を聞いて、王子が安堵の息を吐いた。

「もちろんだ。……イヴェット、そろそろ私の名前を呼んではくれないか?」

「……あ、あの……何とお呼びすればよろしいでしょうか」

 マリーやノーマのようにアルトと呼んでいいのか、いつも迷って名前を呼べずにいた。


「敬称なしでアルテュールと呼んで欲しい。皆がアルトと呼ぶので、そろそろ自分の名前を忘れそうだ。長すぎるか?」

「……アルテュールさ……」

 様と続けそうになって口ごもると王子が笑う。


「言いにくいか? 昔は短い名に憧れていたが、皆が略して呼ぶようになると反発する心が生まれてしまうのは何故だろうな」

 笑う王子の腕の中は温かい。振り返って見上げると、その顔の近さにどきりとした。


「……どうした?」

「何でもありません」

 ロブとの口づけを思い出したとは言えない。目を伏せると王子がそっと額に口づけた。


「……っ!」

 驚きで体が硬直した。心臓はもう壊れそうなくらいに早鐘を打っている。

「す、すまない。嫌だったか?」

「そ、そうではなくて! あ、あの、その……」

 耳を赤くした王子の慌てた声を聞きながら、頬に羞恥が集まっていく。


「あ、あの、事前に一言をお願いします」

 そうではない。断るべきだと思っても口から出てしまった言葉は取り戻せない。

「わ、わかった。……もう一度、額に口づけていいか?」

「は、は、はい」


 恥ずかしさに目を閉じると、額にそっと口づけられて強く抱きしめられた。


      ◆


 あの口づけから、私は王子を意識してしまうようになってしまった。隣に座るだけでも頬が熱くなっていく。二人きりになると、王子は私の肩を抱き寄せて額に口付ける。それが恥ずかしくて、なるべくマリーやノーマと行動を共にしていた。


 避けていることを勘付いてしまったのか、マリーが就寝した後に王子が部屋へ入って来た。初めてのことに戸惑いながらお茶を淹れ、並んで長椅子に座る。


「イヴェット、私が嫌なら嫌と言ってくれ」

「そ、その……アルテュール……は、恥ずかしいのです……」

 額への口づけが、いつ唇になるのかと期待する自分の浅ましい心が恥ずかしい。


 そもそも、私は王子を好きだとも言っていないし、王子も私を好きだと言っていない。……そういえば、ロブの時もそうだった。


「どうすれば、恥ずかしくなくなる? 慣れるまで繰り返せばいいのか?」

 抱き寄せられて懇願されると、もうどうしたらいいのかわからない。

「わ、わかりません……」

 恥ずかしくて震えると、王子が優しく笑う。


「イヴェット、口づ……!」

 王子が突然顔をのけぞらせ、横からの素早い拳を避けた。長椅子の後ろから王子を殴ろうとしたのは夜着姿のマリーだった。男性と同じ夜着は凛々しい。


「イヴェットの様子がおかしいと思っていました。アルト、イヴェットの気持ちが落ち着くまで時間を掛けると言っていませんでしたか?」

 腕を組み、王子を見下ろすマリーは恐ろしくて頼もしい。


「そ、それは……だな……」

 王子の腕から私を引き剥がし、マリーは私と寝室へと入った。


「イヴェット、嫌なら嫌と言っていいのです」

「マ、マリー、い、嫌ではないの……」

 私の答えでマリーが目を丸くした。


「おや。私は二人の邪魔をしてしまったのですか?」

「いいえ。とても恥ずかしかったから、助けてくれてありがとう」

 あのまま流されていたら、身を任せてしまっていたかもしれない。マリーは考える機会を与えてくれた。


「……私、アルテュールが好きになり始めていて。でも、それで本当にいいのか迷っているの」

「イヴェット、時間はいくらでもあります。ゆっくりと考えて下さい。……今日は一緒に寝ましょうか」

 マリーの笑顔は温かくて優しい。


「ええ。ありがとう」

 その日の夜は遅くまで、恋について話を交わした。

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