第九話 食事の誘い。

 侯爵家の屋敷の中は、私の意見が取り入れられて徐々に明るく心地良くなり始めていた。もっと早く自分が妻として出来ることに気が付けば良かったと後悔している。


 家令や侍女、従僕とも気兼ねなく会話を交わすようになり、女主人である自覚と自信も出来つつある。


 穏やかな日々の中、夫が時々帰ってきては菓子を贈ってくれるようになっていた。布を織っている最中に視線を感じて振り向くと、外出着のままの夫が扉にもたれて立っている光景にも驚きは無くなり、少しずつ慣れてきた。


「お帰りなさいませ」

 夫の顔を見ると心臓が嫌な音を立てるのは変わらなくても、迎えの挨拶も、すっと口から自然に出てくる。


「……これを」

 静かに置かれたのは、白い紙箱。今日はどんな菓子だろうかと考えた時、夫は私に背を向けて扉に手を掛けた。


「あ、ありがとうございます。お、お茶はいかがですか?」

 いつも菓子は二個。二人分の茶器をテーブルに用意して、今日こそはお茶に誘ってみようと思っていた。


「……出掛ける」

「……はい。……いってらっしゃいませ」

 落胆と安堵と。複雑な気持ちが入り混じる。俯きかけた時、夫の言葉が続いた。


「今度、一緒に食事に行かないか。……嫌ならいい」

「い、いいえ。よろしければご一緒します」

 自分の耳を疑った。とうとう幻聴が聞こえたのかと。

 夫からの返答はなく、振り返りもせずに扉を開けて出て行った。


      ◆

 

 夫に食事に誘われても、どうしたらいいのかわからない。マリーと共に買い物をしながら、何を用意するべきなのか考える。


「イヴェット、どうしたのです? 今日は何か心配事があるのですか?」

 マリーは鋭い。夫が愛人の元へ入り浸っていることは隠して、食事に誘われたことを話すと笑われてしまった。


「それは誘った方がすべて考えているでしょうから、誘われた方は体調を整えて、服装を考えるだけですよ」

「……話題が……何を話したらいいのかわからなくて……」

 夫と何を話せばいいのか、全くわからない。


「夫婦の間で話題が無い時は、無理をして話さなくてもいいんです。ただ、一緒に食事をして、同じ物を見ているだけでも意味があります」

「そういうものかしら……」

 結婚して二年が経つマリーは、一日一緒にいても話をしないこともあると笑う。


「何か話題が無ければ居づらいのは、相手に慣れていないからです。一緒にいる時間が長くなれば、慣れるでしょう」

 マリーの言葉は優しい。これまで、夫と向かい合う時間は無かった。少しずつ時間を増やせたら、いつか本当の夫婦になれるだろうか。


 話しながら道を歩いていると、人が並んでいる店が見えてきた。どこかの貴族の下級使用人と思われる者もいれば、平民もいる。二十人程と把握した所で、店の角を曲がった道にも列が続いていることに気が付いた。


「あれは何のお店でしょうか」

 屋根は赤く、丸みを帯びたクリーム色のレンガで作られた可愛らしい外観。下げられた看板に書かれた店の名前は聞いたこともない。


「ああ、きっとチョコレート専門店ですね。フリーレル王国にある店と同じ名前ですから支店なのでしょう。チョコレートがお好きなのですか?」

「いえ。先日、初めて食べまして、苦くて甘い不思議な味だと思っておりました」

 夫から貰ったチョコレートはすべて食べてしまった。もう一度食べたいと思っていても、どこに売っているか聞くことも、ねだることもできずにいた。


「チョコレートはこれから流行ると思います」

「どうしてですか?」


「チョコレートの輸入で財を成した商人が、先日長年の恋を実らせたので、それにあやかりたい人々がこぞって買い求めていると聞いています」

「それは素敵なお話ですね」


「私は知らなかったのですが、王立劇場の有名女優が馬車の事故で舞台に立てない程の酷い怪我をして、劇場から追い出される所を長年の信奉者だった商人が身請けしたそうです。来年、女優の怪我が治ったら結婚式を挙げると聞きました」

 王立劇場の有名女優といえば、夫の愛人タティアーナしか思い浮かばなかった。……夫が私に渡したチョコレートは、もしかしたら商人が女優に贈った物だったのかもしれない。


 それは想像でしかなくても不快なものでしかなかった。私は、何も知らずに夫に感謝しながら食べてしまった。


 女優が商人に身請けされてしまったから、夫は帰って来て、そして新しい愛人を作ったのか。最近渡される菓子は、新しい愛人が誰かに贈られた物なのかもしれない。


「イヴェット? チョコレートを買ってくるように従僕に指示しますか?」

「いいえ。今日は辞めておきます。長く待つことになりそうですし。他の菓子を買いましょう」

 不快な気持ちを隠して、私はマリーに明るい声で提案した。


      ◆


 私が部屋で布を織っていると、珍しくルイーズが入ってきた。朝と夜にしか顔を合わせないので、何の仕事をしているのか把握していない。


「どうしたの? 何かあった?」

「旦那様から、伝言をお預かりしております」

「伝言?」

 昨夜も戻ってこなかったはずなのに。それとも、ルイーズだけには連絡をしているのかもしれない。


「『今日の夜、食事の予約をしている』とのことです」

「大変! 用意をしないと」

 今は昼過ぎ。夜まではまだ時間があっても、出掛ける為の支度が必要になる。シャワーを浴びて服を着替えて化粧をと考えると時間の余裕はない。


 作業途中のまま織機を放置して、私は立ち上がった。


      ◆


 ルイーズに案内されて馬車で到着したのは、王都の端にある立派な屋敷だった。

「ここなの?」

 食事をする為の料理店には見えない。どうみても伯爵以上の貴族の屋敷。車体の紋章を布で隠した馬車や、黒塗りの馬車が何台も停まっている。


 他の客と顔を合わせないようにする為なのか、馬車の中で少々の時間があった。順番が来て、馬車から降りて立派な正面玄関に入ると、様々な彫像や絵画が飾られている。ますます貴族の館としか思えない。


「〝百華の館〟へようこそ。お待ちしておりました」

 ホールには艶やかな褐色の髪と切れ長の瞳が印象的な中年女性が待っていた。体の線が露わになるぴったりとした赤いドレスには、白や黄色の大輪の花が刺繍されている。


 その堂々とした姿は、まるで異国の貴族の女主人のよう。貴族向けの料理店は初めて来たので、こういうものなのかと感心してしまう。


「この者がお部屋にご案内致します」

 黒いワンピースに白い飾りエプロンを掛けた女中の案内で豪奢な部屋に通され、大きな長椅子に腰かけると美しい紫色の花茶が出された。ルイーズが小さなカップに淹れられた同じお茶を飲み、安全なことを確認してから私が口にする。


「奥様、お疲れでしょうから仮眠を取られてはいかがでしょうか」

「気遣ってくれてありがとう。でも、初めての場所で眠ることはできないわ」

 部屋にいるのはルイーズだけ。従僕が部屋の外に控えていても、気を抜くことはできない。


「いつ頃いらっしゃるのかしら……」

 夫と食事をするだけと心の中で繰り返しても、全く落ち着かない。下げた小鞄から手鏡を取り出して、何度も髪型と化粧を確認する。侍女の手技は今日も完璧で、どこから見ても貴婦人に見えるので安心した。

 

 女中が入ってきて、部屋の片隅にある飾りテーブルの上に丸い花模様の陶器を置いた。

「あれは何かしら。良い香りね」

 丸い陶器には穴が開いていて、うっすらと煙がたなびいている。香水とは違う柔らかな香りが部屋に満ちていく。


「奥様、外の様子を見てまいります」

 ルイーズは止める間もなく、出て行ってしまった。


「……どうしたらいいのかしら」

 部屋の外で従僕が待機しているはず。侍女はルイーズだけしか連れてこなかった。窓から見える夜空には、赤と緑の月、そして白い三日月が輝いている。


 扉が叩かれて鼓動が跳ね上がった。夫がやっと来たという安堵と、これからの食事の時間を考えると緊張してしまう。


 予想に反して入ってきたのは、艶やかな黒の詰襟の上下に身を包んだ男性。先程の女主人とよく似た顔立ちをしている。

「奥様、初めまして。わたくし、この〝百華の館〟の店主でございます」

 過剰に丁寧すぎるお辞儀は、神経に触るのだと初めて知った。今までに感じたことのない不快な気持ちが眉をひそめさせる。


 長い長いお辞儀の後、店主は顔を上げて切れ長の目をさらに細めて微笑む。

「貴族令嬢の処女は扱ったこともありますが、侯爵夫人でありながら処女とは、初めて扱います。法外な金を支払いましたから、十分に元を取らなければ」


「な、何をおっしゃっているのですか?」

 咄嗟には理解できなかった。失礼な物言いに抗議する為に立ち上がろうとしたのに手に力が入らない。


「おやおや、まだ話せるのですか? 薫物たきものを増やしましょうかねぇ」

 店主は優雅な手つきで丸い陶器の蓋を開け、懐から取り出した袋から木の粉のような物を中に入れた。室内に漂う煙が増えて、強烈な甘い匂いが充満する。


「この薫物は、体の自由を奪う効果がございます。ああ、わたくしは耐性を付けておりますから、効きません」

 この煙を吸ってはいけないと気が付いても、すでに手で口をふさぐこともできない。力が抜けて長椅子に沈み込んでいく。


「貴女は侯爵様に売られたのです。きっと侯爵様は新しい妻をお迎えになるのでしょう。邪魔になった貴女を売った。明日には病気で急死とでも届けが出されるのでしょうねぇ」

 音を立てて血の気が引いていくような気がした。店主の視線は私の頭から足の先までを何度も往復する。


「そうですねぇ……主題テーマは花の精霊にしましょう。髪を降ろし、白く薄い衣を何枚も重ねれば、華奢過ぎる体も見栄えがする。髪に飾る花は何が良いでしょうかねぇ。ああ、ご心配なく。支度は女中どもにやらせますよ。大事な商品に無粋な瑕疵はつけたくありませんからねぇ」


 ぞっとした。夫が肉を付けろと何度も言って、私に菓子を与えていたのは見栄えを良くする為だったのか。

「私を……どうするの……ですか……」

 体は完全に長椅子に倒れ、舌が上手く動かせない。


「今宵、貴女を競りオークションに掛けるのです。事前に高貴な処女が入荷すると告知しておりましたから、好事家の方々もすでにご来場です」


「さぁて。美しい精霊のような貴女には、いくらのお値段がつけられるのでしょうかねぇ」

 店主の薄い唇が、不吉な弧を描いた。

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