第四話 仮面の王子。

 衝撃を受けた私は、散歩の途中で引き返した。新しい愛人のことよりも、買われた女と思われていることが心に重い。


 子爵家が没落寸前だったのは、私にはどうすることもできないことだった。家を継ぐ男児が欲しかった両親は、生まれてきた私が女児だったことに絶望して険悪な仲になった。それ以来、閨を共にすることもなくなり、互いに使った金額を競い合うようにして子爵家の資産を食いつぶしていった。


 爵位があるだけで借金のある子爵家に婿入りしようという者もおらず、下手に手を差し伸べれば父母が何かと金銭を要求してくると、広く知れ渡っていた。


 私に何ができただろうか。家の為に良かれと思って私がしたことはすべて父母に潰され、祖父母に相談しても、お金のことになると追い返された。私にお金を渡しても、すべて父母が使ってしまうと知っていたからだろう。


 その日の夕方から雨が降り、夫は帰ってこなかった。


      ◆


 夫が屋敷に帰らなくなって五日が経った。降り続いた雨は止み、空は青く晴れ渡って赤と緑の月が輝いている。夜にしっかりと眠れることが、私の気分と体調を良くしてくれていた。


「ルイーズ、今日も何も用事はないから、ゆっくりしていて」

 午後の散歩は専用の侍女がいる。ルイーズに頼む予定はない。

「はい」

 頭を下げたルイーズが部屋から出て行く。最近、気のせいかルイーズが苛立っているように感じてしまう。仕事がないからだろうかと思っても、何かを頼むことにためらいがある。


 大量の綿の糸が出来上がった。次は布を織ろうと思った時、唐突に扉が開き、苛立ちを隠さない表情のダグラスが立っていた。


「夕方に王城の舞踏会に出掛ける。支度をしろ」

「舞踏会ですか? でも、私は……」

 子供を産んでいない既婚女性は舞踏会に参加できないはず。


「王の命令だ」

 たった一言だけを残して夫が部屋から出て行き、替わりに侍女たちが部屋に入ってきた。


      ◆


 侍女たちの手によって、体が整えられてドレスを着せ付けられる。髪が結われ化粧が施されると、鏡の中には別人のように美しくなった私がいた。


 目の色に合わせた碧色のドレスには透ける布が重ねられ、私の貧弱な体型を補ってくれている。香油を含んだ金茶色の髪は輝き、顔色の白さを頬紅が隠している。


 初めて見る自分の姿を鏡に映し、何度も覗き込む。子供のようだと思っても、浮き立つ心は隠せない。


「奥様、お美しいです」

 ずっと無言だった侍女の一人が口を開いた。初めて声を聞いた気がする。他の侍女たちも、笑顔で頷く。

「ありがとう」

 声を掛けられたことが嬉しい。これまではルイーズ以外の侍女から話し掛けられたことはなかった。


「首飾りだと? そんなもの、自分でつけさせればいいだろう!」

 ちょうど侍女が扉を開けた時、廊下から夫の怒号が聞こえてきた。大きな声の恐ろしさに身がすくむ。


「当主の手を煩わせるなど馬鹿馬鹿しい慣習だな! もっと利便性を――」

 足音を立てて入室してきた夫の大声が途切れた。恐る恐る目を上げると視線が合う。冷たい目ではないことに、ほんの少しだけ安堵した。舞踏会用の豪華な水色の上着に白のトラウザーズ姿の夫は凛々しい。


「仕方ない。……首飾りを」

 軽く溜息を吐いた夫が家令に命じる。家令は恭しく宝物庫の扉を開け、美しい彫刻が施された木箱を取り出して夫の前にささげた。


 箱を開くと金剛石ダイヤモンドのきらめきが現れた。貴族の家には必ず女主人用の宝冠ティアラと首飾りと耳飾りの一揃いが伝わっている。子爵家の青玉サファイアの一揃いは早々に売られてしまい、ガラスで出来た模造品になっていた。


 夫の手が豪華な首飾りを私の首に掛ける。金具を留めるのなら、背中を向けた方がいいかと動きかけた時、夫が手を伸ばして首の後ろで金具を留めた。いままでにない顔の近さに鼓動が跳ね上がる。……怖い。


 首飾りの次は耳飾り。宝冠を着けた後、侍女がさっと髪を整えて下がる。


「これを着けておけ」

 手渡されたのは真新しい婚姻の腕輪。白金に水宝玉アクアマリンが嵌められた豪華な意匠。夫の色彩を元に作られている。


 結婚式は行われず、ただひっそりと女神の神殿で書類に署名しただけの婚姻式だった。用意された婚姻の腕輪を交わすこともなく、着ける機会もなかった。


 夫の腕には腕輪はない。女性は公式の場で婚姻の腕輪は必須とされていても、近年では男性は着けないことが多くなった。


 金具を開き、腕に付けて金具を留めようとすると指が滑って留められない。溜息を吐いた夫が金具を留めてくれた。

「ありがとうございます」

 夫を見上げると、水色の瞳が揺れた。今まで見たこともない表情に体がすくむ。


「……あ、あの、何か問題があるのでしょうか?」

「……もう少し肉をつけろ」

 それきり、夫は黙り込んでしまった。 


      ◆ 


 馬車に乗ってたどり着いた王城は、着飾った人々で溢れていた。私は舞踏会に出たことは無い。招待状が来ても着ていくドレスが無かった。


「いいか。私の顔に泥を塗るな。悪い噂を払拭しろ」

「は、はい」

 口角を上げて笑顔を作りながら夫の腕に手を掛け、貴族たちと挨拶を交わしていると、開会の合図が鳴り響く。


 大広間を見下ろす段上に国王夫妻、二人の王子が並び、その隣に白い仮面で顔の上半分を隠した男性が立った。全員が金髪で、仮面の男性の髪は特に輝いて見える。


 ざわめきが会場を包む。

「あの……質問をお許し頂けますか?」

「何だ? 早く言え」


「あの仮面の方はどなたですか?」

「フリーレル王国の第三王子アルテュールだ。生まれつき顔に酷いアザがあって仮面をつけていると聞いている」

 フリーレル王国といえば、この国の三倍広い領土を持ち、金鉱脈がある豊かな国。白地に金色で飾られた豪華な服は、その豊かさを示しているような印象を受ける。王子でありながら、仮面をつける程のアザは気の毒なことだと思う。


 今回の舞踏会は、王子を歓迎する為に開かれたらしい。


 国王陛下の歓迎の挨拶の後、楽団の音楽が流れ、ダンスが始まった。

「……踊れるのか?」

「はい」

 ダンスの基本はロブに習った。花畑で一日中踊ったこともある。正式なダンスは、親しくしてくれた老婦人が教えてくれた。


「そうか」

 始まりの合図もなく、私の手を握った夫の足が動いた。ついて行かなければと脚を動かす。一年以上踊っていなくても体が覚えていた。多少の間違いは、ドレスがすべて隠してくれる。


 踊る楽しさで微笑むと、腰に添えられた手が私を抱き寄せた。

「離れすぎだ。踊りにくい」

「申し訳……」

「謝るな。うっとおしい」

 冷たい言葉に身がすくむ。浮かれている場合ではなかった。夫に恥をかかせないようにしなければと、笑顔を作って真剣に踊る。


 三曲を踊り、大窓の近くで夜の空気に当たりながら熱を冷ます。飲み物を従僕に指示しようとした夫の言葉が途切れた。夫の視線の先には、白い仮面の王子が微笑んでいる。


「お連れのご婦人にダンスを申し込みたいのですが、お許し頂けますか」

 王子は夫に話し掛けた。


「残念ですが、妻は先程のダンスで足を痛めましたので帰らせる所です。……そうだな? イヴェット」

「は、はい。申し訳ございません」

 足を痛めてはいない。それでも夫の意図に従わなければと、私は頷いて王子に謝罪した。


「それは残念です。また機会がありましたら、是非」

 仮面の王子は胸に右手を当てる礼をして、微笑んで去って行った。


 後に残るのは、密やかなざわめき。アルテュール王子がダンスを申し込むのを始めて見た、何故既婚者に、そういった困惑の声が聞こえてくる。


「イヴェット、王子と知り合いなのか?」

「い、いいえ。初めてお会いしました。全く知らない方です」

 周囲に聞かせる為なのか、夫がはっきりと問う。察した私も、しっかりと言葉を放つ。


 金髪というだけでロブを連想したものの、仮面の目の部分には薄い布が張られていて目の色すらわからなかったし、ロブの顔にはアザはなかった。


 困惑のざわめきが、好奇の眼差しに変化していく。注目されることに慣れていない私は、夫の腕に縋りつくように寄り添った後、振りほどかれるのではないかと思い至った。


「あ……もうし……」

「イヴェット、行くぞ」

 謝罪と共に緩めた手を、夫の大きな手が押さえた。このまま手を掛けていていいということなのか。夫は周囲に軽く会釈して歩き出す。


 大広間から出た廊下で、突然夫が私を横抱きにして持ち上げた。談笑していた貴族たちが息を飲んで見ているのがわかる。

「!?」

「…‥足を痛めたのだろう?」

「は、はい。ありがとうございます」

 王子に対して嘘を吐いたとは言えないのが理由か。重いドレスをものともせず、夫は私を抱えたまましっかりとした足取りで歩いていく。


 物語の中でしかありえない光景だと思っていた。夫に抱えられる恐怖より、多くの人に見られているという羞恥が頬に集まっていく。

「……お前は軽すぎる」

 溜息を吐かれても、何故か怖いとは思えない。いつもは恐怖で震える鼓動が、ときめきに踊る。


 ふわふわとした気分で、あっと言う間に馬車乗り場へとたどり着いた。先に従僕が知らせていたのか、すでに侯爵家の馬車が用意されている。


「先に屋敷に戻っていろ。私は用がある」

「……はい」

 一緒に屋敷に帰ることはないのか。高揚していた気持ちが、すっと冷えていく。地面に降ろされて、お伽話はここで終わり。そんな言葉が頭をよぎる。


 今夜も女優に会いに行くのかとは聞けなかった。足早に去っていく夫の背中が見えなくなるまで、私は見送るしかできなかった。

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