第42話 駿府の大久保邸跡





 ようやく気を取り直した志乃は、その足で大久保長安の屋敷跡を訪ねた。


 死の前後はともかくとして、ひところまでは大御所家康の側近中の側近であった大久保屋敷は、当然ながら駿府城の間近に位置すると聞いていたが、目星をつけたあたりをいくら歩きまわってみても、それらしき痕跡すら発見できない。


 思い余って通行人に訊ねると、目の前の広大な空き地がそれだという。

 戸障子から茶碗のかけらに至るまで、生活の残滓がごチャゴチャに転がっていた八王子屋敷の場合とちがい、猫が舐めた皿のように、すべてが掻き消されている。


 関ヶ原合戦で、石田三成の居城・佐和山城に入った井伊直政(徳川四天王)は、徹底的に城郭を破壊し尽くしたうえ、敷地に至るまで深く掘り返し、前城主の痕跡をきれいに消し去ったという。家康の胸に、その記憶があったのかどうか……。


 だが、目に見えるものは消せても、すがたかたちのないものは決して消せない。

 いままで厳然とあったものが、なかったものとされる寒々しさは、ここまで酷い仕打ちをなし得た張本人と取巻き連への憎悪を、むしろ増幅させるのではないか。


 気づくと、もの悲しげな尺八の音が流れている。

 ふりかえると、深編笠をかぶった長身痩躯の虚無僧が、刻々と沈みゆく夕日を背にした直立不動の姿勢で、地底に引きずり込まれそうに陰鬱な音曲を奏でている。


 ――哀悼の調べだ。


 志乃の勘が囁いた。


 ――たしかに生きて活動していたのに、存在を全否定された人たちへの……。


 この世のどこにも存在しなかったことにされた人たちの魂は、いつまでも往生できず、当て所なく彷徨っておいでにちがいない。その魂魄を慰めておいでなのだ。


 いつ果てるともない尺八がやっと止んだので、志乃は虚無僧に近づいて行った。


「まことにご無礼ですが、石見守さまに所縁の方では?」


 首ひとつ分上背のある虚無僧は深編笠越しに志乃を凝視しているようだったが、

「あなたも?」ごく短い問いを返して来た。


「わけあって、昨年の一件を調べている者でございます。実は、わたしの縁戚の者が武蔵八王子のお屋敷にお仕えしておりましたが、いまだにその後が知れず……」


 志乃の説明に虚無僧は警戒を説き、謡曲を謳うような調子で嘆き節を放った。

「祇園精舎の鐘を待たずとも、無常は現世うつしよの常なれど、彼の一件は、あまりにも酷に過ぎましてござる」


「もしや、あなたさまは石見守さまのご家臣でいらしたのでは?」

 ふたたび志乃が問うと、虚無僧は意外にあっさりと肯定した。


「彼の事件のときは、国もとの老母が危篤でお屋敷を空けておりまして、殿さまのご名誉をお守りできなかったわが身の不如意が、どうにも悔やまれてなりませぬ」


「事件とは、不正蓄財や幕府転覆の疑惑によりお屋敷の床下を掘られ、挙句の果て石見守さまのお墓まで暴かれたことを指しておいでなのでございますよね?」


 ことさらに志乃が確認すると虚無僧は、


 ――わかりきったことを念押しするなよ。


 と言わんばかりに、愛想なく吐き捨てた。


「思い起こすも無念至極な……。あれほどまで親身に尽くされたお方に、不正蓄財や天下乗っ取りの疑惑をかけるとは、馬鹿馬鹿しくて話にもなにもなりませぬわ」


「では、御公儀に内緒の蓄財など、いっさいなかったのでございますね」

 叱られるのを覚悟で、志乃は、くどく念を押す。


 すると、虚無僧の口調は、意外にも切なげな様子に変わった。

「当然でござる。後生ですから、仮初にもさような言辞を口にしてくださるな」


 図星の事態に、志乃はひそかに興奮した。


「すると、世間のうわさのように、もとはといえば諸大名が悋気するほど重用した石見守さまのお力が想像以上に増大したので、いつなんどき、寝首を掻かれるかもしれないと、自分の蒔いた種で疑心暗鬼地獄に陥った……という状況でしょうか」


 虚無僧は編笠の前に、


 ――シイッ。


 指を1本立てた。

「声が大きゅうござる。どこにどんな耳があるかわかりませぬ」


 同じ暗がりに隠れた仲間のような親近感に駆られた志乃が、「わたくしどもまで不敬のとがで捕縛され、安倍川で磔にされてはたまりませんからねぇ」怖い冗談を付け加えると、「くわばらくわばらでござる」虚無僧も即座に応じてくれた。


 ――打ったら響いてくださった。


 なんだか気が合いそうじゃないの。どんなご面相をしていらっしゃるのかしら。

 いい男と見れば、たちどころに蠢き出す虫が、またぞろ顔を覗かせたがっているものと見える。志乃は慌てて話題を逸らせた。


「ところで、あることないこと御公儀に諫言をたらし込んだ一派がいたとかいないとか、巷ではもっぱらのうわさでございますが……」


「本多佐渡守(正信)と上野守(正純)どのですな。たしかにあの父子は、わが殿を目の敵にしておられました。とりわけ、例の岡本大八事件をけんか両成敗と裁かれてからというもの、鵜の目鷹の目で、巻き返しの機会を狙っていたようです」


 話が核心に迫ると、虚無僧の口はふたたび重くなった。

 だが、意地悪な志乃は、追及の手をゆるめてやらない。


「そういえば、畏れ多くも大御所さまのご後継者選びのときにも、ひと悶着もふた悶着もあったとかなかったとか……」


「さようでござる。わが大久保派と彼の本多派が争いまして、大久保派が推薦する現公方さまが遷座される結果となりました。そのことも根にあったのでしょう」


 志乃は別の疑いも抱いていた。


「ですが、本当のところは、悪役の権化のように取り沙汰されている本多父子を、実はかげで操った、さらなる黒幕の存在もあったのではございませんか」


 虚無僧はギョッとしたように後退った。

「だ、だれから、さようなことを……」

 

「いえ、単に浅学なわたくしの思いつきでございます」

 澄まして答えた志乃は、あえて捨て鉢を口にしてみた。


「世の中を震撼させた、石見守さまに関連する昨年の一件もまた、結局のところ、事件の真相は底知れぬ闇の底に埋没したまま……ということになるのでしょうか」


「何人であれ、徳川一族以外の者が仕置きの表に顔を見せるなど、断じてあってはならぬ。終生、地中を棲み処とすべき土竜もぐらどもの、灰色の頭の先がチラとでも地上に見えたら、すかさず完膚なきまでに叩きのめしておく。それが世のため御公儀のためであると、まあ、かようなところでしょう。では、これにて拙者は失礼つかまつる」


 皮肉たっぷりに言い捨てた虚無僧は、ふたたび尺八を吹きながら立ち去った。


 ――チッ。


 とうとうお顔を拝見できなかった。

 遠ざかる尺八の音色を、志乃は未練たっぷりに耳で追っていた。

 

 その晩、駿府城下のはずれの木賃宿に泊まった志乃は、湿気しけた煎餅布団のなかで高熱を発した。女中に印籠の薬草を煎じてもらったが、未明まで熱は下がらなかった。安倍川の処刑場の晒し首の群れが中空を飛びかう夢を、ひと晩中見ていた。

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