第36話 信松尼と幸松(保科正之)






 ドキドキするような状況が起こるには、道のりはいささか短かすぎたようだ。

 頭ひとつの身長差を並べたふたりは、あっという間に村外れの信松院に着いた。


「じゃあな。縁があったら、また会おう」

 言い捨てた男は未練げもなく踵を返す。


 ――こんなところで放り出して、尼さまに紹介してくれる気はないのかしら。


 親切なのか不親切なのか、わけがわからない。

 ひとり残された志乃は、仕方なく簡素な庵の門前に立った。



 天正10年(1582二)3月11日、信玄の4男で、第20代甲斐武田当主・勝頼が天目山で自刃したとき、6女の松姫(信松尼)は、同腹の兄で高遠城で討ち死にした仁科盛信五郎の忘れ形見、小督姫、貞姫、香具姫の3人の幼い姫を連れ、甲武国境の案下峠あんげとうげを越えて武蔵八王子に落ち延びた。


 それの道行きを援けたのが、大久保長安が率いる「八王子千人同心」だった。

 のち、武蔵八王子領主として着任した大久保長安は、簡素ながら住み心地のいい「信松院」を建築し、かつて仕えた武田信玄の娘と姪たちに謹呈した。



「ごめんくださいませ。とつぜんお伺いするご無礼をお許しくださいませ。信松尼さまはご在庵でいらっしゃいましょうか」庵の入り口から志乃が声を掛けると、「あら、どなた?」思いがけず裏口から、小柄な尼がひょっこりと顔を覗かせた。

 警戒の色を感じさせないやわらかな口調が、おっとりと雅びている。


 ――さすが法性院(信玄)さまの姫君。お肚が据わっていらっしゃる。


 ビシッと威光に打たれながら、志乃もまた率直に申し述べる。

「わたくしは石見守さまに所縁の者にございます。『八王子千人同心』のみなさまからおうかがいし、こうしてご無礼も顧みずに訪ねて参りました。もし、おいやでなかったら、少しばかりお話をお聞かせいただけませんでしょうか」


 髪に白い物が混じる信松尼は、

「して、話とは、いかような?」

 愛らしく小首を傾げてみせた。


「できますれば、石見守さまとのご縁のお話などを……」

 控え目に請うと、

「ええ、かまいませんよ」

 拍子抜けするほど、あっさり快諾してくれた。


 ――本当に大丈夫なのか?


 どこの馬の骨とも知れぬ者に、かように簡単に気を許してしまわれて……。

 志乃の心を読んだかのように、信松尼は真っ白なきれいな歯並びを見せた。


「こう見えて、天国も地獄も、つぶさに見て参った身、ご懸念には及びませんよ。同心衆が認めた方なら、まちがいはありますまい」


 52歳の信松尼。

 25歳の志乃。

 同じ女子として響き合う。


 とそのとき、ふたりの眼前を目にも留まらぬ速さで駆け抜けて行くものがある。

 中ぐらいの体型の黒い犬だった。


 そのあとを、「こらぁ、義経丸。待てったら、待てぇ。拙者をだれと心得おる。われこそは天下の幸松こうまつなるぞ」まわらない舌を懸命に転がしながら、すばしっこく追いかけて来たのは、いかにも利かん気の強そうな3歳ぐらいの男児だった。


「これこれ、幸松さま。さように走りまわって、またお熱が高くなったら、いかがなさいますか」墨染めの裾を乱した信松尼に、きわめて敏捷な男児はまったく手に負えないと見える。


 黒犬に男児、猫と鶏。

 そのうしろに鴨まで加わった賑やかな一団は突風のように走り去った。

 呆気に取られている志乃に、信松尼は重要な秘密事項を告げてくれた。


「あのお子は、本来なら御公儀の跡取り候補ともなられるお方なのですが、わけあって、拙尼がお預かりしているのです」

「えっ? ということは……」

「公方さま(徳川秀忠)のお子でいらっしゃいます」


 ――まさか!


 かように鄙びたところに高貴の若君が……。

 ポカンと口を開けた志乃にかまわず、信松尼はさらにつづけた。


「御台所(お江ノ方)さまは悋気の強いご気性につき、ああいう事情でご正室に恵まれなかったこともあって、何人ものご側室をお持ちの大御所さまの場合と異なり、ご自分以外の女子を公方さまに近づけさせることを、絶対にお許しになりません」


 その有名な話は志乃も知っていた。

 ああいう事情とは、産後の肥立ちの思わしくない娘・ご徳姫の讒訴を受けた織田信長の命でやむなく家臣に斬殺させた妻・築山どの、ひそかに天下を競う豊臣秀吉から大年増で亭主持ちの妹を強引に押しつけられた継室・朝日姫を指すのだろう。


「ですから、公方さまの乳母・大姥局おおうばのつぼねさまの侍女として見初められたお静どのが、最初のお子を身籠られたときも、御台所の仕打ちを恐れ、闇から闇に葬ってしまわれたのです」いきなりの愛欲地獄の告白に、志乃は息を呑む。


「ふたたび身籠ったことがあきらかになると、天下の将軍さまのおたねを、二度まで無駄にしては天罰が当たろうと、お静どのの実家では、身命を賭して出産させる決意を固め、拙尼の異母姉・見性院けんしょういんに、内々に相談があったのです」

「……さようでございましたか」凡庸な言辞しか言えない口がまだるっこしい。


「それで、姉の知行地、武州安達郡大牧村に、お静どのを匿うことにしたのです。かくて無事に誕生された幸松さまは、大人の思惑に関係なくすくすくと成長され、いまでは、畏れ多くも姉を大おばあさま、拙尼を、ちいおばあさまと呼んでくださっております」

 実の孫を自慢するように、信松尼は品よく窄まった口もとを弛ませてみせた。


 ――してみると……。


 いましがた駆け抜けて行った一団は、八王子の小おばあさまの庵に遊びに来られた若君が、その辺の小動物どもを家来になさって遊んでいらっしゃるの図……。

 一陣の風のような一団の行き先を、志乃はあらためて見やる思いだった。



 閑話休題。

 志乃が信松院を訪ねて3年後の元和2年(1616)春、信松尼は55年の波乱の生涯に幕を閉じ、翌秋、7歳の幸松は生母のお静とともに信濃高遠へ旅立った。


 高遠藩主・保科正光の父・正直は、信松尼の同腹の兄・仁科盛信の副将を務めたほどの忠臣中の忠臣だった。その保科正光の養子として迎えられた幸松は、長じてのちに保科正之として、第2代高遠藩主を後継する。日陰に生まれた幸松の将来を案ずる信松尼の、生前の配慮だったことは言うまでもない。

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