出奔の顛末――石川教正と徳川家康の因縁

上月くるを

第1話 プロローグ




 浅春の飛翔に心地よく疲れた大烏が、五重六階の天守で悠揚と羽を休めている。


 つい先頃まで西の空に銀色の山巓を連ねていた飛騨山脈は、いつの間にか藍鉄色に変じており、東の空を画する王ヶ鼻やその裾に重なるいくつかの里山も、躍動の季節への予兆をひそめ、やわらかな色合いに変容していた。


 竪格子をめぐらせた武者窓から、金色を滲ませた月明が淡々と射し込んでいる。

 凍みついた冬の月とはおもむきの異なる、かといって本格的な春にはなりきれていない季節特有の、なにかの始まりを期待するかのように、やさしく潤んだ満月。

 

 

 慶長15年閏2月17日(1610年4月10日)亥の刻。


 奥女中の仕事が終わってから、闇に溶けこむ柿色の忍者装束をまとい、深志城内の天井裏に忍びこんだ志乃の耳は、侍詰所附近で低く押し殺す声をとらえていた。

 

 

 ――諏訪巫すわみこ

 

 

 全国に25,000の末社を有する諏訪信仰の伝道師、さらに武田信玄ゆかりの信濃巫しなのみこのくノ一として、幼少時に容姿、頭脳とも優れた者が厳選され、祈祷、呪術、忍術、遁走、天文、暦、陰陽、狼煙、舞、唄、楽器、話術など、諸般のきびしい訓練を受けて来ている。


 人間としては異常の域に達するほど発達した視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の5感のうちでも、ことに聴覚は山犬並みに研ぎ澄まされており、一般人にはものを擦った音程度にしか聞こえない囁き声も、きわめて鮮明に聞き取ることができる。



       *



「よろしいですか、苔が生えそうに旧態依然たる現状をこのまま放置しておけば、遠からずご当家の先細りは必定にございまするぞ。いまこそ決起のときではございませぬか!」


「まあまあ、しばし落ち着いて。考えてもみられよ。ことここに至った事態のことごとくを承知しておる拙者が、ご当家を憂慮する若衆の、真っ直ぐな心意気を無にするわけがござらぬではないか」


 なんとしてもおのれの意を通そうとして、自ずから激してくる若い声が、有無を言わせず詰め寄ると、たじたじと押され気味のやや年嵩な声が慎重に答えている。

 

「われらの勘忍袋はもはや限界に達そうとしておりまする。申すまでもなく、天下は日々鳴動しております。ご公儀の御代もすっかりご定着なさったいまこのとき、いつまでもくだくだしく、関ヶ原がどうの太閤殿下がどうのではございますまい」

 

「まことにそなたの言うとおりじゃ。井の中の蛙よろしく、信濃の田舎に籠ってばかりおっては、広い天下から置いてけぼりを食うばかりじゃ。赤子でも笑うような自明がおわかりにならぬとは、まったくもって年寄りの頑迷は困りものよのう」


 一歩も退かぬと言わんばかりに畳みこまれた年嵩が、どこか気弱げな嘆息を太々と吐き出すと、それに勢いづいたのか、若い声にますますの切迫の度が加わった。


「先代からの古い仕来りがいまだに幅を利かせている限り、ご当家の明日が見えてまいりませぬ。それどころか、万一このような体たらくがご公儀のお耳に入りでもすれば、いつなんどき御家お取り潰しになるか……。そうなったら家臣のみならずその家族までが路頭に迷わねばならなくなりまするぞ」


「ふむ、そうじゃのう。まことにもって上に立つ身の責任は重大じゃな」


 ぎゅうぎゅうと詰め寄られた年嵩が、むごむごと自信なさげに答えると、その機を逃すまいと、やや棘を含んだ気配のある若い声が、さらなる追い打ちをかける。


「よろしいですか、伴さまの御身はおひとりのものではございませぬ。そのご双肩には家中の命運がかかっておられるのですぞ。もはや一刻の猶予もございません。ご覚悟をお決めください。およばずながら拙者、次代の旗手として行動あるのみと決意しております。われら一同、一丸となって伴さまにお味方を申し上げます!」


 ここまで言われれば、いたって優柔不断な性分らしい年嵩も重い腰を上げざるを得ないものと見え、渋々ながら返答をする、しかも、捕らぬ狸の皮算用付きで。


「わかったわかった。今度こそ拙者がなんとかする。約束する。おお、そうじゃ、首尾よく改革が成就したあかつきには、そなたを侍大将に取り立てて進ぜようぞ」


 それで若いほうも気をよくしたと見え、調子に乗ってぺらぺらと煽り立てる。


「ここだけの話、ご用済みの方にはさっさと消えていただきましょう。渡辺去りて伴の時代来る。新進気鋭の伴ご家老さま。まことによき響きではございませぬか」


「ふふふ、そなたも気の早いことよ。しかし、わるくはない響きではあるなあ」


 持ち上げながら念押しを忘れない若い声と、持ち上げられて満更でもない年嵩。 両人の笑い声はどこか反発しながら微妙に重なり合う雅楽器の音色を思わせた。

 


       *



 天井裏にひそむ志乃の真下に向き合う、ふたつの人影。

 それは侍大将の伴三左衛門と配下の上野弥兵衛だった。



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