第2話

 


「……昨夜ゆうべは上司の付き合いで、朝方まで呑んでたから、……ホステスの化粧がついたんだろ……」


「まぁ、そんな濃厚なチークダンスしたの?」


「じゃないよ。ベタベタくっつく女っているだろ? 上司の指名してるホステスだから、邪険にもできないさ」


 俺は背中を向けたままで、話を作った。


「フン、どうだか。ま、いいわ、許したげる。ね、それより、夕飯、何がいい?」


「……任せるよ」


「も、いつもそうなんだから。じゃ、スーパーまで行ってくるね」


「……ああ」


 生返事の後、芳美が出掛けると、ベッドから飛び降りてバスルームに向かった。


 ……まずいまずい。気を付けないと。



 二十分ほどで戻ってきた芳美と、馴れ合いの肌を合わせた。――



 母親直伝の芳美の手料理を頂きながら、結婚の話を持ち出さない己れの卑怯ひきょうさを痛感していた。芳美も芳美で、恬淡てんたんな性格もあってか、結婚したいむねを口にするような女ではなかった。それには、母一人、子一人という境遇も関係しているに違いない。責任を負いたくない俺にはそれが救いだった。自由に生きたい俺は、家庭を持つことに過度のプレッシャーを感じていた。



 そんなある日、客の矢田が女を連れてきた。その女を見た途端、俺は羞恥心で赤面した。その女が俺の素顔を知るよしもないのに、まるで素っぴんでドレスを着ているような錯覚を覚えた。


「あんら~、ヤーさん、いらっちゃ~い!」


 タヌキがいつもの愛嬌で迎えた。


「だから、その、ヤーさんはやめろってぇの」


 ボケとツッコミのように、矢田が返した。


「あんら~、こちらの美女はどなた?」


 二十歳はたちぐらいだろうか、女は矢田に付き添うように、控えめな素振りで笑みを湛えていた。


「指名してるクラブの子で、マミちゃん」


 矢田がおしぼりで手を拭きながら、紹介した。


「まぁ、マミちゃんて言うの? あたち、二十歳はたちのイタチ。じゃない、三十路みそじのタヌキ。味噌汁のたぬき汁じゃないわよ。さあ、お手をどうぞ」


 マミはクスクス笑いながら、グローブのようなタヌキの手からおしぼりを受け取った。


「まぁ、綺麗な手」


 マミの細い指先をてのひらに載せた。


「こらっ、タヌキ。気安く触るんじゃねぇ。俺も触ってねぇのに」


 ぶつくさ言いながら、ヘルプが作った焼酎のウーロン割りを手にした。


「あんら、オカマの特権よ。おほほほほ」


 口に手を添えて笑った。


「後でスズメちゃん、呼んで」


「分かってるわよ。マミちゃんは何飲む?」


 タヌキが訊いた。


「同じもので」


「けど、マミちゃん、店でも呑まないじゃん。無理しないで、何か甘いもの作ってもらおうか?」


 矢田が気をつかった。


「じゃ、お言葉に甘えて」


 マミが遠慮がちに言った。


「タヌキ。何か飲みやすいのを作ってあげて」


「はいよ。じゃ、果実酒をお作りしましょう。ママ~、ライチ生グレひとちゅ!」


「ハ~イ! ライチ生グレ、喜んで~!」


 客の相手をしていたカラスが、カウンターの中から返事をした。




「……いらっしゃいませ」


 カラスから受け取ったライチ生グレを手に、スズメが挨拶に来た。


「おう、スズメちゃん、僕の横においで」


 矢田が手招きした。


「ほら、スズメ。そこのけ、そこのけ、タヌキが通る」


 タヌキはいつもの文句を言うと、スズメを尻で押しのけた。


「紹介するよ、マミちゃん。こっちはスズメちゃん」


 矢田が紹介した。


「どうも、よろしく」


 一瞬、仕事を忘れて、男口調になった。


「初めまして……」


 マミが微かな笑みを浮かべた。


「あ、どうぞ」


 指先が微妙に震えるのを感じながら、マミの前にグラスを置いた。


「あ、どうも。じゃ、矢田さん、いただきます」


 マミがグラスを上げた。


「乾杯」


 矢田が、手にしたグラスをマミのグラスに当てた。


「あ、スズメちゃんも何か飲みな」


 丸椅子でしとやかな笑みを浮かべていると、矢田が声をかけた。


「はい、いただきます」


 焼酎の梅干し割りを作りながら、矢田と話すマミの顔をチラチラと見ていた。そして、こんな格好の時にマミと出会いたくなかった、と思った。



 帰宅してもマミのことが気になっていた。酒も飲めない、素人っぽい子が水商売で働くからには余程の事情があるのだろう……。



 その翌日だった。仕事を終えたマミが一人でやって来た。そして、俺を指名した。


「昨夜はありがとう。楽しかったです」


 ピンクのツーピースの胸元に、ソフトウェブの毛先が載っていた。


「こちらこそ、ありがとうございます」


 目を合わせると、マミが恥ずかしそうに微笑ほほえんだ。


「昨日と同じ飲み物でいい?」


「ええ」


 マミは返事をすると、バッグから刺繍ししゅうを施した白いハンカチを出して膝の上に置いた。俺は腰を上げると、カウンターのカラスにライチ生グレを注文した。


 マミのことを色々知りたかったが、まずはたわいない会話をしながら、探ってみた。――そして、水商売はまだ短いと言うマミは、父親を事故で亡くし、弟の学費と母親の入院費を稼ぐためにクラブで働いていると打ち明けた。その時の寂しそうなマミの顔が脳裡のうりから離れなかった。


 俺は何か役に立ちたくて、マミの売上に貢献するために店に飲みに行った。最初は、ジャケット姿の男が俺だとは気付かなかったようだが、


「……スズメさん?」


 と、自信なさげに訊いた。


「ああ」


「……こんなことまでしていただいて、……ありがとう」


 素のままで来てくれたのがよほど嬉しかったのか、マミはハンカチで目頭を押さえた。

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