第8話

杏子はあいつの話をする時が1番綺麗だった。


「好孝が作るビーフシチューが1番好きなの。今日は早く帰らなきゃ。」

「・・・・そうか。良かったな。」

「うん。豪君もあんまり仕事無理しすぎないでね。」

素直で優しい、そんな杏子が幸せになれるならと俺はこの思いを犠牲にすればいいと思った。

杏子は俺にとって初めての一目惚れだった。


だから、正直今俺の隣に杏子がいてくれるのは、まだ信じきれていない。

杏子、お前にとって俺はあいつと居た時のように幸せで居られているのだろうか。


「豪君!豪君てば!」

「んっ、杏子?」

「今日はお帰りはいつも通り?」

「え、ああ、うん。」

「もう、ちゃんと話聞いてた?」

そう言って杏子は優しく俺に微笑んだ。

「ごめんごめん。」

「今日お肉が安いみたいだから、焼肉にしようと思ったから。帰ってくる時に連絡してね。」

「ああ、分かった。」

「沙莉焼肉すき!」

「早く帰らないと、沙莉に全部食べられちゃうかもな。」

「そんなに沙莉食いしん坊じゃないもん!」

不服そうに頬を膨らませる沙莉を見て、杏子は可笑しそうに笑っていた。


「じゃあ、行ってくる。」

「気をつけてね。」

玄関先で靴を履き、振り返ると杏子が鞄を持って渡してくれる。

いつも通りの事。それなのに。

頭はついこの前の事がフラッシュバックするようによぎる。


あいつに手を取られた時、杏子は。

昔あいつの事を話している時の様な顔にも感じ取れて。

それから俺はずっと、心の奥がズキズキと痛む。

いくら大丈夫だと言われても、信用しきれない自分にも嫌気がさす。


「豪君?」

名前を呼ばれ、ふと我に返ると鞄を持ったまま不安気にこちらを見る杏子と目が合った。

「やっぱり少し具合悪いんじゃない?熱ある?」

杏子が俺のおでこに手を当てた。


冷たい少し小さい手。

あいつにもこの手を何度も触られたのか。

あの時も。


「豪君!?」

咄嗟に杏子を俺は抱きしめていた。

「どうしたの?急に。」

「俺の事、愛してるか。」

「豪君・・・・・」

「急に、なんか・・・ごめん。」


明らかに分かった。

俺は、あいつに嫉妬してる。

杏子をまた取られるのではないかと。

俺が杏子を信じてやらないといけないのに。


「・・・・豪君。」

杏子の手が俺の両頬に添えられ、顔を上げられ、そっとキスをされた。

「杏子・・・。」

「私は豪君の奥さんだよ。当たり前でしょ?」

「・・・・そうだよな。ごめん。」

「気をつけて行ってらっしゃい。」

杏子はそう言っていつもの様に微笑んだ。



俺はを信じていいのだろうか。

あいつより俺を選んでくれた杏子を。

「うん。行ってくるよ。」

やり場のない嫉妬と胸の奥にある毒々しい独占欲を隠すように、俺は家を後にした。


今は、まだ、信じきれていない。

杏子、俺は知ってる。

あいつと会ったあの日、杏子は確かに少し嬉しそうにしていたのを。


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