4

 夕暮れの中、和矢は一人、自宅の前に佇んでいた。その手は半開きの扉のドアノブにかけられ、その後、息を殺すように静かにドアを閉めた。

 音を立てないよう足元に注意しながら、そっと家を離れる。門を出て道路を横切り、家の前の空き地に足を踏み入れ、ふう、と大きく息を吐いた。自宅からも道路からも身を隠すように、立てかけてある木材の陰に入ると、塀に寄りかかり軽く脱力する。


 先ほどまで、家の中でも息をひそめながら過ごしていたので、ようやく普通に呼吸ができるようになった。しかし、心の中は、まだ息苦しいままだった。


『兄の死の真相が分からなくてもいい。一日でも長く、和矢と美矢と暮らしたい。平凡で、ありきたりの日々を、過ごしたい』


 弓子の言葉が胸にこだまする。何も知らせないまま、ただ守りたいと思っていた叔母の思いがけない言葉に、喜びと悲しみという、相反する思いが渦巻く。そして何より。


 弓子が、すでに組織に入り込んでいたとは。自分が組織の中で尊重される立場にありながらも、すべてが知らされていないことは承知していた。自分達兄妹が日本に向かうことも、いささか強引に押し通した要求ではあったけれど、予想していたよりは、抵抗が少なく話が進んだ。まさかそのために弓子が策を弄していたとは考えにくいが、結果的にその存在が今回の帰国を叶えた大きな要因にもなっていたのだろう。

 そして。


『真矢は、組織に殺された』

『そのことで、和矢を恨んで復讐しようとしている男がいる』


 その男が、俊を襲った『シバ』の正体なのか?

 その動機が、父の死なのだとすれば。その父の死が……殺人によるもの?

 自分は、自分達は、父を殺めた組織に、身を沈めているというのか?


 一気に押し寄せる情報に、和矢の思考はパンクしそうだった。その時。


「やあ、元気がないな」


 背後から突然かけられた声に、和矢は肩をびくりと震わせ、時間差でその声の主を察知し、振り向いた。


「斎君……」


 先ほど学校で別れたはずの唐沢斎が、そこに立っていた。

 いつもと変わらない少し斜に構えた笑顔で、軽く腕を組んで首をかしげている。

「傷つく反応だな。そんな嫌そうな顔をしなくてもいいのに」

「別に、そんなんじゃないよ。少し驚いただけで。……斎君こそ、どうしてここに? 家は反対方向だったよね?」

 驚きと共に見られたくない場面で遭遇してしまった気まずさも確かにあったので、和矢何とか笑顔を取り繕いながらも、その行動を探る。

 もともと貸し事務所だった和矢の自宅は、住宅街からは少し幹線道路に近いので、通行人は少なくない。

 なので一応身を隠していたつもりだったのだが、まるで和矢を探り当てたかのように姿を現した斎の行動は不可解だ。


「そんなに警戒しなくても、と言いたいけど、確かに警戒するべきだな。うん、和矢が正しい」

「斎君……?」

「何があったのか聞きたいところだけど、ここじゃ何だし、よかったら僕の家に来ないかい? そろそろ日も暮れるし、家にも帰りづらいんだろう?」

「何で……?」

「大丈夫、美矢ちゃんは珠ちゃんがちゃんと送り届けるから。何なら和矢は僕の家に泊って行ってもいいよ。着替えくらい用意するし、教科書なんかなくても、授業は困らないだろう? すでに大学入学資格も持っているんだし」

「……君は、何を?」


 何を知っている?


「そうだね。インターネットじゃわからない、唐沢宗家の秘密も教えてあげるよ。あと」

 にっこりと、いつもの斎からは見たこともないような満面の笑みで。

「僕は、あなたの味方だよ。我らが尊き『魅力ある者モーハナ』」

 ほんの僅か、目を見開き、……そして、和矢は静かにうなづいた。

 





「じゃあね。美矢ちゃん」

 女子会のあと、美矢は珠美と自宅前まで一緒におしゃべりしながら帰宅した。すでに日は暮れてあたりは暗いが、この近所の会社に珠美の母親が働いており、この後合流するのだという。

「また明日」


 笑顔で手を振りながら、闇に溶けていく珠美の背を見送り、美矢は玄関に向かう。

 美矢が開けるより早く、中から扉が開いて、弓子が顔を出した。


「お帰りなさい」

「ただいま。よく分かりましたね」

「うん、元気のいい声が聞こえたから。お友達?」

「加西さんです」

「ああ、夏に一回来たことあったわよね。上がってもらえばよかったのに……って、もう遅いものね」

「また今度連れてきます」

「ええ。女子会、楽しかった?」

「はい。まだ話したりないくらい」

「そう、よかったわ。和矢は?」

「先帰りましたよ? まだ帰ってきてないんですか?」

「うん。今日は早く帰ってくるって言っていたから、早めにお夕飯の準備もしておいたんだけど……あ、ゴメン、入って」


 玄関に入るが、確かに和矢の靴はなく、家からも気配を感じない。

「ちょっと連絡して……あ、メール入っている」

 ずっとサイレントにしていたので気付かなかった。メールを開くと、和矢から遅くなるので弓子に伝えておいて、というメッセージがあった。

「遅くなるみたい……珍しいなあ」

「そうなの? じゃあ、お夕飯、食べるか分からないわね。美矢はどうする? 食べてきたんだっけ?」

「はい、お腹いっぱい。すみません」

「あら、元々そう言ってたんだから気にしなくていいのよ。ただ、和矢がいると思って、笹木君お夕飯に呼んじゃったから、できたら一緒にお茶だけでも飲んでくれる? 今日取材先でおうどん貰ったのよ。美矢には明日茹でてあげるわね」

「笹木さんが?」

「そう、あの子、案外固いから、私っきりだと絶対部屋に上がってくれないし。あ、でも和矢がいないと、やっぱりだめか……」

「じゃあ、一階で食べたら? もうおうどん茹でてあるなら、運ぶだけでいいですよね? 私手伝います」

「そうね。お願いできる?」

「はい」


 女子会で話題の中心だった笹木健太に会うのは、ちょっとドキドキする。もちろん初対面ではないけれど、真実との関係を聞く前と後では、見方も変わってくる。


「あ、そうだ」

 美矢は手にしていたスマホの画面を再度立ち上げ、真実へメッセージを送った。このところ、美矢の援護射撃に徹してくれている真実に黙って健太と食卓を共にするのは、別にやましいところがなくても、何となく気が引ける。もう電車に乗ってしまったかもしれないが、一応夕飯にも誘ってみる。


『残念! 弓子さんにもお会いしたかった。健太をよろしくお願いいたします』


 やはりもう自宅に向かってしまったらしい。やたら丁寧な返信につい笑いがこぼれる。

「美矢、どうしたの?」

「ああ、兄さんがいないなら、代わりに笹木さんの彼女さん、お夕飯に招待しようと思ったんだけど、もう電車に乗っちゃったみたいで」

「え? 笹木君の彼女? 美矢知ってるの?」

「部の先輩。ほら、森本真実さん」

「あ、加西さんと一緒に来ていた女の子……ゴメン、顔がわからない」

「えっと、ストレートのボブの」

「ああ、あの子ね。ああ、確かにサバけた感じのお姉さんキャラで、笹木君にはお似合いだけど……結構年下よね? 奥手っぽい顔して、笹木君も隅に置けないなあ」

「笹木さんて、そう言う感じの人なんですね?」

「そうそう。全部顔に出ちゃうの。今日もちょっとからかったら、真っ赤になっちゃって」


 女子会の間、しょっちゅう顔を真っ赤にしていた真実を思い出して、美矢もクスリと笑った。

「ホントお似合いかも」

「ねえ、次こそ二人を夕飯でもお茶でも何でもいいから呼びましょう! 並べて眺めたいわ」

 弓子がなかなか悪趣味なことを言い出したが、その提案には美矢も賛成だった。


「そうそう、そう言えば」

 弓子が玄関脇に置いてあるレターボックスから開封済みの封書を取り出した。

「こんなの、もらったんだけど、行く? 笹木君にもあげようかな、とは思っているけど、たくさんあるから」

 郊外にある山のレジャースポットで開かれるイルミネーションイベントの招待券だった。

「シャトルバスもあるし、送迎してもいいけど。お友達誘ってもいいし。そ、森本さんとか」

 ニヤリ、と「健太と真実を並べて鑑賞する計画」をさっそく遂行しようとする叔母に、美矢はちょっとだけ引いてしまったが。


「そうですね。みんなを誘って……」

 俊も、一緒に。


 美矢の目の前に、先ほど見た虹色に輝く光の幻想イリュージョンがよみがえった。

 女子会の帰りにみんなで立ち寄った駅前のイルミネーションは、カップルだらけで抵抗があるかもしれないけど。これなら。


甘いものではないし、みんなも行くなら、一緒に行ってくれるかもしれない。


 チケットを片手に夢想状態に入ってしまった美矢が、スマホに和矢から新しい通知が入っていたことに気付いたのは、夕食後のことだった。

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