第十章 交錯する狂気

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「今度、夜に出かけないか?」


 十一月に入って最初のデートの終わり際、英人にそう言われた。

 駅前のイルミネーションを見ながら、別れを惜しんでいる最中だった。

「夜……?」

「うん、樽筆たるで山の旧ゲレンデのイルミネーション、来週から始まるっていうから」


 市街地からほど近い樽筆山は、かつては近場の住民が散歩代わりに登山をしていた小さな山であったが、十五年程前に近くを走る高速道路のスマートICが設置されたことから、観光化が進み、今では都会でもちょっと名の知れたエンターテインメントスポットになっている。冬はスキー場、夏はグラススキー場を中心として、レストランや日帰り温泉施設が軒を連ねている。


 しかし、近年の不況のあおりを受けて、かつては山の両斜面に設置されていたゲレンデは、リフトの故障を機に閉鎖し、今営業を続けているのは高速道路に近い北斜面だけになっている。スキー場として営業するには人口雪が必須で、それに経費がかなり掛かっているらしい。南斜面はリフトを撤去した後は、ICと反対側から登ってくる近隣住民用だった駐車場が残るのみで、新しい施設はできていない。


 とはいえ、夏場はちょっとしたピクニックコースとして今も利用されているし、広大な駐車場を活用して屋外イベントなどが開かれることもある。もっとも車が必須なので、シャトルバスが出るような大イベントを除いては、家族連れはともかく、高校生の加奈たちが誘い合っていくこともあまりない。


「スギヤマ電機がメインスポンサーになっていて、うちの大学の研究室も協賛しているんだって。大学の友達から招待券貰ったんだ。よかったらどう?」

 地元に大きな工場をもつスギヤマ電機は、照明器具が主力の中堅企業である。目の前のイルミネーションも、スギヤマ電機が提供していたはずだ。駅前は場所がかぎられているので、まあそこそこの規模だが、樽筆山の駐車場なら、かなり広範囲になる。加奈の家にもチラシが入っていたが、写真で見る限り、なかなか大規模なイルミネーションらしい。

「でも、あそこまで行くには、車がいるでしょう? あ、でも週末ならシャトルバスあるかな?」

「あるけど……実は、中古だけど、車買ったんだ。せっかく免許も持っているし、アパートに駐車場もついているし、買い物にも、便利だし」

「まさか、このために買ったとか?」

「うーん、ないとは言えない」

「え、だって、車よ、自動車よ? 中古とはいえ、高かったんじゃ……」

「大学の生協の提携先だから、そんなに無理な支払いじゃないって。こっちで就職するなら、必要になるんだし」


 山間地が多く、郊外に大型の店舗や会社が多い割には、鉄道や路線バスなどの交通網があまり充実していない地方都市であるこの近辺では、多くの大学生やほとんどの社会人がマイカーを持つのは、ほぼ常識となっている。

「それに、これからも、いろんなところに出かけたいし、一緒に、ね」

 そう微笑まれてしまうと、加奈は反論の言葉が出なくなる。


 正直、冬山のイルミネーションは心惹かれる。それも、大好きな彼氏と一緒に、だなんて。

 夏の出会いからもう三ヶ月、ためらいつつも勇気を出して英人にメールをして、最初はお茶をして、正式に付き合うことになって。


 近くの国立大学に通う、五歳年上で二十一歳の英人は、出身は県外で、進学のためこの地に来て暮らしている。人目を引く美貌だし、快活で頭の回転もよく、洗練された立ち居振る舞いは都会的で、女性が放ってはおかないだろうと思うのだが、高校までは男子校で、あまり女性に関わることなく過ごしてきたため、交際経験はないという。


「文化祭で加奈ちゃんに声をかけた時は、本当は心臓が飛び出そうなくらいドキドキしていたんだよ」

 そう冗談っぽく話す言葉を、加奈はまだ信じきれないでいる。

 こんな素敵な人が、今まで誰とも付き合ってこなかったなんて、信じられない。

「……正直言うと、告白されたことは、何度かあるよ。でも、その気になれなくて、ずっと断ってきたんだ。自分から告白したのは、君が最初だよ」

 それを聞いて、少しだけ納得した。けれど。


 一応、人並み程度には顔立ちが整っていることは自覚しているし、決して卑下しているわけでもない。ただ、男性を一目で虜にするほどの魅力が、自分にあるとは思えなかった。そういう逸話は、英人や、もしくは和矢や美矢のような正真正銘の美貌を持つ人間にこそふさわしいのであって、自分のような十人並みの少女にはありえない、と思ってしまうのだ。

 真実が聞いたら噴飯物の自己評価の低さであるが、加奈には加奈なりの理由がある。


 実は、加奈は小学生時代まで、自分を人並み以上に醜いと思っていた。今よりももっと痩せて、顔色の悪かった小学生時代、加奈のあだ名は「出目金」だった。

 今でも気にはなっているが、その頃はもっとそばかすが濃くて、黒っぽかった。そして、ふくらみのないとがった顎に肉の薄い頬、目だけがぎょろぎょろ大きく目立っていた。色白な分、そばかすは悪目立ちするし、大きな目は男子にからかわれ女子に嘲られ、とにかく加奈が容姿に関して自信が持てる要素は、全くなかったのである。

 だから、教室の隅で黙々と絵を描いて過ごしていたし、それが中学高校と美術部に入るきっかけになったのだけど。


 中学に進学したころから、適度にふっくらと肉がついて頬や顎は丸みを帯び、そばかすが薄くなり、目はぎょろぎょろではなく、ぱっちりした、と評されるようになって。

 やっと、ほんの少し、自信が持てるようになってきたのである。その小さな自信を支えに、多少の自己主張もできるようになり、友人にも恵まれたが。根っこの部分では、常に人の顔色を窺っている、気弱な小学生の頃の自分がいる。


 真実などは、加奈を「気配りのできる実務に長けた人」というが、それこそが必死で自分を取り繕い、自分の存在価値を維持しようとしている結果なのである。美術部の面々にも、本当の自分は見せていない。けれど、きっと見せたところで、態度が変わることはない、という信頼感もそこにはある。もはや、どこまでが取り繕った自分なのかもわからなくなってしまったが、本性を見られても平気、と思うと、気軽に理想の自分を演じることができる。


 加奈が演じているつもりの自分も、まぎれもなく加奈自身であり、加奈が育ててきた美質であるということを、本人は分かっていない。そして、確かに加奈の中にある、気弱な部分が、加奈の自己認知をゆがめていることに、本人は気付いていない。


 その気弱さが、英人との関係にも影響し、加奈は、まだ手をつなぐにもためらっている。単に加奈が奥手だから、だけではない、本当の自分を知られることへの無意識の抵抗感が、英人との関係を深めることをためらわせている。


 英人からの夜ドライブの誘いそのものは、本当に嬉しい。

 その反面、誘いそのものに英人の苛立ちが見え隠れして、少し怖い。


 ……井川さんだって男の人だもの、女の子と付き合えば、色々期待しているよね?


 加奈だって年相応の知識はあるし、クラスメートや友人から聞きかじっている話もある。けれど、英人は加奈の気持ちを尊重して、無理強いしようとしたことなどないし、とても紳士的に対応してくれる。むしろ優しすぎるくらいだ。


 でも。


 自分に見えない顔があるように、英人にも、人には見せていない側面があるのかもしれない。例えば、文化祭の、黄昏の中で垣間見た、魔性のような……。

 英人は、優しい。黙っていれば、ろうたけた、できすぎた人形のような美しさだが、加奈に向ける視線は穏やかで、その時ばかりは人間味のあるあたたかな笑顔になる。

 前髪で不自然に右目を隠しているのは、額の端に治療中の傷があるからだと説明してくれた。治るまでは、人に見せたくない、という英人の希望を受け入れ、加奈は傷の完治を待っている。たとえ傷が治らなくても、加奈は構わないと思っているが、傷を見せたくないという英人の思いも尊重したい。

 と同時に。


 あの黄昏の魔性のような美貌が、英人の隠された顔であるならば。

 そんな、彼の顔も、見せてほしい。自分が本性の弱い自分を見せたくない、という思いとは裏腹に。

 いつか。

 勇気をもって、本当の自分をさらすことができたなら。

 彼も見せてくれるだろうか。額の傷も、別の顔も。


「で、どうする? イルミネーション」

「あ、うん……」

 そろそろ、小さな勇気を出す時かもしれない。

 この間見かけた、真実の様子が、思い出された。


 知らなかったが、真実にも交際相手がいたらしい。英人くらいの、少し年上の男性と手をつないで、ちょっと恥ずかしそうに歩く真実の顔は、学校では見たことがないくらい、いじらしく、かわいらしく、そしてとても幸せそうだった。あの日が「初めてのデートだった」と聞き、ちょっと焦りを感じたのも事実で。


 あんな、幸せな気持ちに、なれるなら。


「行きたい、な」

「本当? いつ行こうか……」

「いつでも」

「そうか、なら……月末の土曜日は?」

「いいけど。でも、来週には期末試験も終わるし、その次の週末も空いてる……あ」

 あんなに行きたがっていたのに、十一月末まで持ち越す英人の真意を測りかねた。けれどカレンダーを思い浮かべて、途端加奈は真っ赤になった。


「今月末の土曜日、誕生日だったよね? 家族と過ごさないとまずい?」

「大丈夫、絶対大丈夫!」


 本当は、毎年家族と過ごすのが常だったけれど。

 今年は、なんと言い訳しても、予定を開けておかなければならない。

 心の中でファイティングポーズを決めて、加奈は固く決意する。

「じゃあ、楽しみにしているね」

「はい!」


 その時、風が強く吹きおろし、加奈は一瞬身をすくめた。

「……寒くなってきたね」

 言いながら、英人はそっと、左手を差し出した。その意図に気付き、加奈は無言で、その手に触れる。

 

 こわごわ触れる加奈の手を、英人は逃がすまいとするように、素早く握りしめた。


「……寒いけど、もう少し、大丈夫?」

「……大丈夫」


 加奈が手を引っ込めないことを確認し、英人は指を絡めるように手を握り直す。

 じんわりと伝わってくる体温で、胸まで熱い。

 想像以上の幸せな感情で、手も心も温められ、けれど、二人はお互いの顔を直視できず、そろってイルミネーションを見上げた。




 ……幸せな恋人同士を、冷たく見つめる視線には、気付かないまま。

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